神経系は筋肉とほぼ同じ時期におそらく共通の細胞から進化しており、最初は運動に関わる興奮性の細胞に過ぎなかった。そこに感覚神経が進化し、外界のシグナルをほぼリアルタイムで細胞から細胞へとシグナルを伝えることができるようになった。しかし、運動神経や感覚神経ができたとしても、それぞれが情報を伝えている段階では、神経の存在しない細胞システムと特に大きな質的な変化はなかった。しかし、神経ネットワークが生まれ、外界を神経回路の中でrepresentation(もう一度存在させる:表象)できるようになることで、個体と外界の関係に一大変革をもたらせた。外界で起こる現象が脳内に表象できるようになる。この結果、時間が経ってその現象が存在しなくなっても、表象のレベルでは記憶としてもう一度再現することができる。
こう考えると、記憶の研究こそ、神経ネットワークでの表象とは何かを知るために最も重要な分野だと言える。すなわち、脳内の各所にしまい込んだ表象をもう一度思い出す過程を理解することは、表象自体の理解についても重要だ。今日紹介する米国国立衛生研究所からの論文は、記憶をもう一度思い出す時の過程を人間で調べた論文で3月1日号のScienceに掲載された。タイトルは「Coupled ripple oscillations between the medial temporal lobe and neocortex retrieve human memory(内側側頭葉と新皮質の間でリンクした波形の振動により人間の記憶が引き出される)」だ。
これまでの研究で内側側頭葉(MTL)が脳の様々な場所から表象を集め記憶として呼び起こすオーガナイザーの役割を果たしていること、そして記憶を呼び起こそうとするときMTLにさざ波のように小さな波形の振動(ripple)が脳波に現れることが知られていた。そして、記憶の表象がしまわれている場所とこのrippleをリンクさせることが記憶呼び起こしに必須の過程であると考えられてきた。
この研究の最大の売りは、人間の脳の広い範囲に、てんかんの診断のために留置した脳細胞の活動を直接記録できるクラスター電極を用いて、脳内でのこのようなrippleの共有について調べた点で、これによりかなり正確にMTLとリンクしている領域を特定することができる。
最初MTLの80-120Hzの波と同期して活動している場所を調べ、期待通り50msほど遅れて側頭葉のrippleがMTLでのrippleに同期していることを確認する。
次に、たとえば「指」と「針」を連動させて記憶し、次に「指」と聞いて「針」を連想して答える500msほどの間に発生しているMTLのrippleにリンクして同じrippleを発生させる脳領域を探索し、正解を思い出せた時だけ側頭葉がMTLにカプルしてrippleを発生していることを明らかにしている。すなわち、MTLがrippleを発生させ、これに呼応して記憶がしまわれている場所がrippleを発生させることが、記憶の呼び起こしに必須であることを示している。
そして、正解を思い出した時MTLに同期して発生したrippleのパターンが、記憶を成立させるときに側頭葉に発生したrippleのパターンを再現していることを最後に示している。
抽象的な話なのでわかりにくいと思うが、要するに外界の現象を脳の活動の表象として記憶する過程で側頭葉に発生した脳活動は、記憶を呼び起こす時MTLに連動するrippleに再現されていることを示し、まさに側頭葉でのrippleが記憶した対象に対応する表象となっていることを示した点が重要だと思う。
もちろんrippleに乗っている表象をデコードできるわけではない。しかし、表象を情報として取り出せるようになることは脳研究の最も重要な課題で、ここから発展して21世紀、デカルトの2元論が乗り越えられるような予感がするが、これについてはまたの機会に論じてみたい。