2019年4月30日
これから連載する「生命科学の目で読む哲学書」は、哲学を学ぶことが目的ではない。45年前臨床医としてスタートしたのを皮切りに私自身が関わった生命科学とはなんだったのか、現役を引退した今、今度はアウトサイダーとして知りたいという個人的動機に基づいており、もちろん独断と偏見で作業を進めるつもりだ。また、取り上げる著書も、ほぼ全て日本語訳をベースとしており、翻訳というベールを通しているため、著者が伝えたい内容について正しく理解ができているのかどうかはわからない。しかし哲学を講義するわけではなく、私がその本を通して考えたことを伝えることが目的なので、それで十分だと思っている。従って哲学を知ろうと私の文章を読んでもらっても期待外れに終わること間違いない。しかし、こんな本があるのだということについては、的確に紹介して、古典を読むことの楽しみを伝えたいと思っている。
こう断った上で、生命科学の誕生までの歴史を、哲学の始まりから時代順に考えるつもりだが、第一回目としてフロイトの「モーゼと一神教」(渡辺哲夫訳:ちくま学芸文庫)を選んだ。
図1 私が利用したちくま学芸文庫のモーゼと一神教(実際にはキンドル版)。
時代順と言いながらなぜ20世紀に書かれたこの本から始めるのか、説明が必要だろう。
異論もあるだろうが、18世紀、生命科学の萌芽が現れて以来、生命科学は宗教とほぼ敵対的関係にあったと私は思っている。現代では、多くの哲学者や生命科学者にとって、無神論は特別なことではなく、先進国では無心論者であることを理由に迫害されることはまずない。それどころか、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」や、ダニエル・デネットの「解明される宗教」(原題はBreaking the Spellで「宗教の魔力を破る」といった意味で反宗教性が明確になっている)のように、宗教に対してより戦闘的に挑戦している著書も多い(図2)。
図2:ドーキンスの「神は妄想である」(早川書房)とデネットの「解明される宗教」(青土社)。デネットの本の原題は「Breaking the Spell:Religion as a natural phenomenonとより戦闘的なタイトルになっており、邦訳時に少しソフトに意訳されているが残念。
わざわざ神を信じている人たちの気持ちを逆なですることもないのにとは思うが、この背景には、今も世界では宗教が多くの人を支配しており、しかもこの精神的支配が世界に絶える事なく続いている紛争の最も大きな原因になっているという焦りがあるのだと思う。確かにヒトゲノム計画を牽引したフランシス・コリンズのように、宗教と科学が調和できるという考えをとる人達もいるが、歴史的に見ると宗教と生命科学は本質的に互いを認め合えない関係にあると私は思っている(この点については何度も議論する予定)。
こうしてみてくると、生命科学の歴史を考えるとき、宗教との関係を抜きに議論することができないことは確かだ。言い換えると、宗教(特に一神教)は、生命科学誕生の過程に影のように寄り添って存在してきた。従って、生命科学の歴史を考える最初は、宗教の誕生についての本を取り上げることにした。
さまざまな本が考えられるかもしれないが、私は宗教(特に一神教)の誕生を考える本としては、ナチスの狂気に追われ潜伏生活を経て亡命を余儀なくされた晩年のフロイトが渾身の力を絞ってユダヤ教の誕生を考えた「モーゼと一神教」以外にありえないと思った。
モーゼと一神教は2部に分かれており、第1部はナチスから逃れて隠遁を余儀なくされたウィーンで、そして2部はイギリスに亡命後に書かれている。すなわち、彼が晩年に残した遺言とも言える著作で、この一冊でフロイトがどんな人だったのかを理解することができる。
いうまでもなくフロイトはユダヤ人だが、この本ではユダヤ人をユダヤ人たらしめているユダヤ教を、神を信じない科学者として分析する、すなわちある意味でユダヤの伝統を拒否し、科学者としての自分を優先させて分析することで、宗教、特に一神教を誕生させる人類共通の心理に迫ろうとしている。
この本の中で、彼が、当時のユダヤ教やキリスト教からの強い嫌悪と非難の声を覚悟しつつ提案したユダヤ教誕生のシナリオをまとめると次のようになる。
ユダヤ民族に一神教を最初に伝えたモーゼは、エジプトのおそらく身分の高い貴族の子供だが、将来自分に敵対することを恐れた父親の殺害命令をからくも逃れ、神官に育てられ成人したエジプト人だった。 成長したモーゼは、太陽神=王権を基盤とした、死後の世界にこだわる(ミイラを思い出してほしい)エジプトの民族宗教を、より抽象的な一神教へと改革したアメントホーテプ=イクナートンの新しい宗教アートン教に関わり、イクナートンが排除されると同時に、エジプトから追われた。 迫害を逃れたモーゼは、当時エジプトで奴隷同様の生活を送っていたユダヤ人に身をやつし、エジプト固有の宗教を超えた厳格で抽象的なアートン教をユダヤ民族に伝えることで、ユダヤ人として生きることを決意する。 しかし、民族宗教の世俗性を切り離し、神の絶対性を唱える厳格なアートン教はユダヤ人にも受け入れられることがなかった。それどころか、この一神教を伝えたモーゼは、ユダヤ人により疎まれ殺害される。 その後ユダヤ民族は迫害を逃れカナンの地へと移動するが、この時民族のアイデンティティと誇りを、「選民思想」、すなわち神に選ばれた民族という教義に基づく一神教に結実させる。これが出エジプト記だが、この時綿々と受け継がれていたモーゼの一神教の思想を新しい宗教に融合させ、自ら殺害したモーゼをユダヤ教の祖として、出エジプト物語として復活させる。
この本では、それぞれの歴史的可能性が丁寧に検証されており、歴史的読み物としても面白い。例えば、ユダヤ人の象徴とされる割礼は、エジプトですでに導入されていたこと、あるいはモーゼという名前がユダヤ的でないことなどだが、この検証は全て割愛していいだろう。ぜひ自分で読んでほしい。実際、フロイトのシナリオであれ、ユダヤ教が公式に持っているシナリオであれ、完全に証明することは困難だ。
この本で扱われているテーマにフロイトが着手するのは「トーテムとタブー」(1913年出版)からだが、当時フロイトだけでなく、宗教をタブーとせず、所詮人間心理の産物であると考え、そのルーツを各民族の伝承に求める文化人類学として始まっていた。例として、「モーゼと一神教」でも引用されているオットー・ランクの「英雄誕生の神話」(1909年出版)や、有名な「金枝篇」の著者ジェームス・フレーザーが著した「旧約聖書のフォークロア」(1918年出版)を挙げることができる(図3)
図3 オットー・ランクの「英雄誕生の神話」とジェームス・フレーザーの「旧約聖書のフォルクロア」。すでに絶版になっている。
「英雄誕生の神話」では、高貴な家庭に生まれた嬰児が、成長後その子に殺されることを恐れた父親の手を逃れて成長し、結局父親を殺し、時に母と結婚するという、いわゆるエディプス神話が、世界中の神話や民話の中に見られることが多くの例とともに示されており、モーゼの物語もその一つの例であることがわかる。
また「旧約聖書のフォークロア」では、旧約聖書の多くの物語が、聖書とは無関係の多くの未開人の神話や言い伝えと共通の内容を持っており、人類の内的な心理的進化を反映していることを主張している。例を挙げると、人類創造神話で、まず土のチリで男性(アダム)を作り、その肋骨から女性(イブ)を作るという話は、ポリネシア、ビルマ、ペルーなど多くの地域で共通に語られていることなどだ。
検証したわけではないが、おそらくこのような、宗教を神により与えられるものではなく、人間心理の産物として理解しようとする民俗学・文化人類学は、19世紀のダーウィニズムの影響を受けているのだと思う。今もダーウィニズムは宗教から敵視される最大の科学的テーゼだが、20世紀に入ると、長く科学を抑圧してきた一神教を、人類の脳の進化の一面でしかないとする反撃が公然と始まる。
もともとダーウィニズムを強く支持していたフロイトは、宗教に関する文化人類学的進展に、ダーウィニズムの立場を統合して、新しい議論ができるのではないかと着想した。さらに、当時ロシア、イタリア、ドイツなどヨーロッパに拡大していた国家主義の狂気に対して、これまで自由な思想を抑圧する側にあった宗教が、今度は自由を守る盾になっている歴史的皮肉も、この作業を進める大きな動機になったのではないだろうか。
「トーテムとタブー」で始めた作業は、「モーゼと一神教」では、よりわかりやすい議論に仕上がっている。おそらくこの理由は、フロイトにとって最も馴染みのあるユダヤ教とユダヤ民族、すなわち自分自身と自分の属する民族を分析対象として取り上げたことが大きいと思う。しかも馴染みの題材を、科学者の立場を徹底させて分析したため、問題が整理され、それ以前よりはるかに明瞭な議論を展開することに成功している。
ただ、フロイトが向かったのはユダヤ人フロイトだけではなかった。ナチスの狂気により否定されたもう一人のフロイト、すなわちドイツ語を話すオーストリア人としてのフロイトについても向き合おうとした。ナチスを支持したドイツ語文化圏とユダヤ教を信じるユダヤ民族はフロイトの中では重なっているのだ。
今になって考えてみると、ヒットラーが現代ドイツ思想の背景に抹殺すべき父親として無意識的に存在している現実を、フロイトはすでに予測していたのかもしれない。こう考えるとこの本を書いているフロイトの頭の中では、モーゼ、イエス、そしてさらにはヒットラーが重なり、宗教に代表される集団現象の背景にある共通性を見つめようとしたのではないだろうか。
残念ながら、この本ではヒットラー論は出てこない。代わりに、イエスとモーゼの物語の重なりについては、詳しく述べている。モーゼと比べた時、イエスの誕生物語は貧しい家庭に生まれた点で全く異なっているように見える。しかし受胎告知と処女受胎の話は、イエスの父が神=高貴である可能性を匂わせている。とすると、イエスの物語も、モーゼの物語も同じになる。成人すると、モーゼと同じくイエスも新しい厳格な宗教をユダヤ人に伝え、その結果ユダヤ人により殺害される。そして、ユダヤ教がもう一度カナンで再興される過程で、自ら殺したモーゼを新たに復活させたように、キリスト教では、パウロというユダヤ人が旅の途中で思いついた(パウロの回心として知られる。パウロは直接キリストの弟子として接していたわけではない)ユダヤ教の枠を超えた新しい宗教と、キリスト殺しの話を融合させることで、世界宗教が誕生する。
フロイトはこの3者(実際にはヒットラーについては書かれていないので2者)に共通の現象を見る。すなわち、教義を伝えた原父の殺害と能動的な忘却、そして記憶の呼び起こしと原父の回帰による一神教の確立という過程を見る。そしてこれが彼の研究の中心であった神経症の過程に類似していることに気づき、一神教誕生や集団心理の狂気も、彼が個人の精神発達と病理を説明するために使ってきた概念、エス、自我、超自我、そして無意識、前意識という基本概念で説明できるのではと構想し、「トーテムとタブー」以来作業を進めてきた。
そこで「自我とエス」に掲載され、私も以前生命誌研究館のブログで利用した有名な図を下敷きに、これらの概念について手短にまとめておく(図4)。
図4 フロイトが人間の精神発達とその病理を説明するために作った有名な図。生命誌研究館ブログより引用:http://www.brh.co.jp/communication/shinka/2017/post_000009.html )
初めてフロイトを読む人にとって、こんな図を見せられると余計混乱するだけだと思うが、この図でフロイトは私たちの心と体が完全に一つに一体化していることを表現している(私にはこの図は彼のデカルト2元論克服への意志の現れだと思っている)。この図の中でエスと書かれているの部分を、私は人間の発生過程で形成される神経ネットワークだと読み替えている。もちろん進化の過程を経て、このネットワークには原始的な本能が組み込まれており、その中で重要な地位を占めるのが欲動だ。自我形成の最初ではこの欲動が母に対する性愛的傾向として現れる。「性愛的」はフロイト的な言葉だが、お母さんの乳房を求める本能がなければ、人間は生きていけない。これをもう少し近代脳科学的に書き直すと(図5:同じ生命誌研究官ブログより引用)になるが、いずれにせよ、欲動がなければ外界からのインプットを積極的に求めることはなくなり、自我の発生が遅れる。
図5 フロイトの考えを現代脳科学的に書き直した。JT生命誌研究館ブログ参照(http://www.brh.co.jp/communication/shinka/2017/post_000009.html )。
こうして始まる外界からの刺激によりエスが書き換えられ、自我が形成される。この時、母に続いて発達期の乳児の前に突然登場するのが父親で、この登場によってよる母への性愛が中断される。
この父の概念に関してもフロイト的表現でわかりにくいと思うので、誤解を恐れず言い換えてみよう。お母さんとだけスキンシップで結ばれ満足している子供にとって、父親がどのように登場するかを、子供の立場から考えてみると、次のようになるのではないだろうか。
「せっかくお母さんの乳房を唇で感じて満足しているのに、横から「いい子だいい子だ」などと自分を引き離す決まった誰かがいる。目がよく見えないので、匂いや音からしかわからないが、敵に違いない」。
その後の視覚を中心とした感覚器の発達や自我の発達により、父親が母親を奪い合う相手、そして最後は、結局自分の欲望を抑えてでも引き下がらなければならない相手として明確に意識され、その結果母への性愛の気持ちは、無意識へと押し込まれるという点も理解してもらえるのではないだろうか。
これが父親に対するエディプスコンプレックスで、父親と言う超えられないルール=超自我により、自ら欲動を無意識へとしまい込んだという心的外傷が多かれ少なかれ、誰でもに生じる。ただ、この発達期の過程で実際に遭遇する体験は多様で、性的、攻撃的な印象を受けた人間に、何らかのきっかけでこの心的外傷が再登場すると、神経症として現れるとフロイトは考えている。そして、その時殺していた父も再登場する。
考えてみれば、モーゼの物語やキリストの物語も同じプロセスではないかとフロイトは言う。ユダヤ教で言えば、モーゼを殺害することで一旦葬り去った彼の宗教は心的外傷のように民族に潜在的に生き続け、神によって選ばれた最も優れた民族というユダヤ民族の誇りを新しい一神教へと結実させる時、新しく復活したことが、神経症の過程と同じだと主張する。
歴史的過程の共通性の中に、人間心理の共通性を発見し、歴史の必然性を説明する。この本を読むまで、モーゼがエジプト人などと考えたことはなかったし、度肝を抜かれるとともに、一神教の誕生に新しい見方を教えてくれた、素晴らしい本だと思う。
しかし生命科学者としての私にとっては、この本の素晴らしさは、シナリオの面白さや、神経症と歴史を結びつける新しい視点の斬新さにとどまらない。最も感銘を受けたのは、彼がこの個人の心理と集団の心理の類似性を指摘するだけでなく、生命科学的に説明しようと努力している点で、これこそが生命科学の立場から一神教を論じるための最適な本として最初に取り上げた理由だ。
まず彼の考えを、彼自身の言葉を抜き出して紹介しよう。
まず原父殺し→心的外傷と忘却→回帰、過程が最初に起こった人類初期の家族形態については、ダーウィンの人間の起源を基盤にして、
「原初、小さな群れをつくって生活していて、その群れのそれぞれが比較的年齢の高い男の暴力的支配下にあり、この男はすべての女を独占し、若い男たちを彼の息子たちも含めて制圧して懲罰を加え、あるいは殺害して排除してしまった」(ジークムント・フロイト. モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)
(Japanese Edition) (Kindle の位置No.2629-2631). Kindle 版)
という太古の人類の家族形態を提示している。
次にこの家族形態がが父殺しにより解消される様をJJ アトキンスの「Primal Law」に基づき、
「この家父長制度が、父親に抗して団結し父親を圧倒しこれを殺害して皆で喰い尽くしてしまった息子たちの謀叛によって終焉に至った」 (同上、Kindle の位置No.2632-2633).
と描写している。
そして、この父殺しが一定の忘却期間を経て、新しい社会構造へと結実することを、ロバートソン・スミスの「セム族の宗教」に基づいて、
「父親殺害ののち、父親のものであった群れがトーテミズム的兄弟同盟のものになったと考えた。勝ち誇った兄弟たちは、実のところ女たちが欲しくて父親を打ち殺したのではあるが、互いに平和に生活するために女たちに手を出すのを断念し、族外婚の掟を自分たちに課した。父親の権力は打ち砕かれ、家族は母権にそって組織化された」 (同上、Kindle の位置No.2634-2637).
Kindle 版.
と、3つの物語を結合して一つのシナリオにしている。
そして、
「つまり、宗教現象は人類が構成する家族の太古時代に起こり遥か昔に忘却されてしまった重大な出来事の回帰としてのみ理解されうる」 (同上、Kindle の位置No.1122-1123).
Kindle 版.
と述べて、モーゼ殺しに始まるユダヤ教の誕生も、キリスト殺しに始まるキリスト教も、強いオスの支配する社会から、より平等な社会への転換が、地球上のさまざまな場所で、繰り返し起こったことの記憶に基づく心理的結果だと結論している。
ゲノム解析を含む考古学が急速に進む現代から見ると、フロイトと彼が依拠したダーウィンなどの考えは、そのまま受け入れられない点も多い。強いオスを殺すことは、人類がまだ地面を歩行できるサルといってもよかった時代には当たり前だったと思うが、ホモ・サピエンスや、ネアンデルタール人は言うに及ばず、直立原人の時代でも、同じようなことが起こったのかと考えると、疑わしい。事実、人類進化で男女の体格差が解消され、恐らく強いオスの家族支配が終わるのは、200万年前で、直立原人の誕生以降だと考えられている。もちろんこの時代にトーテムはおろか、人類に高いシンボルを使う能力があったという可能性は低い。したがって、どの時代に、どのような状況でフロイトが考えたような事件が起こり、人類共通の記憶として維持されうるのか研究が必要だと思う。
しかし今のレベルから見て検証が幼稚だからと言って、彼の考えを馬鹿げているとは決して思わない。まず、このシナリオを紡ぎ出すことで、フロイトは一神教の誕生を科学のテーマとして向き合うことの重要性を述べている点に、フロイトの科学者魂を見る。そして何より未来の生命科学を見据えた彼の姿が見える。一神教や文化の誕生は、生命科学の全く新しい課題だ。それを、ダーウィンの提案した枠組みだけで理解できるのか、率直に意見を述べている。
このことを知ってもらおうと、最後に彼の言葉を少し長く引用する。
「確かに、われわれの意見は、後天的に獲得された性質の子孫への遺伝に関して何事をも知ろうとしない生物学の現在の見解によって、通用しにくくなっている。しかし、それにもかかわらず、生物学の発展は後天的に獲得されたものの遺伝という要因を無視しては起こりえないという見解を、われわれは、控え目に考えても認めざるをえない。確かに目下の二つの事例において問題となっているのは同質の遺伝ではない。一方では、捉え難い、獲得された性質の遺伝が問われており、他方では、外的世界の印象に関する記憶痕跡、ほとんど手にとって見ることができるような性質を持つものの伝達が問われている。けれども、実際のところ、根本においては、われわれは一方がなければ他方を思い浮かべることもできまい。もしも太古の遺産のなかに後天的に獲得された記憶痕跡が存続していると想定されるならば、個人心理学と集団心理学のあいだの溝に橋が架けられるし、諸民族は個々の神経症者と同じように取り扱われうる。太古の遺産のなかに記憶痕跡が存在することの証拠として、現在のところわれわれは、系統発生から導き出さざるをえない分析作業中の残滓現象よりも強力なものを持っていないと認めるしかないが、しかしこの証拠であっても、太古の遺産のなかの記憶痕跡の存在を自明のこととして仮定するに十分な力を持っている、と思われる。もしそうでないとするならば、われわれは、分析においても集団心理学においても、踏み出された道を一歩も進めなくなってしまう。われわれの要請は大胆ではあるが、これは避けられない大胆さなのだ。」
(同上:Kindle の位置No.2006-2020). Kindle 版.
一昔前なら、ラマルク主義、ひどい場合はルイセンコ主義と片付けられたかもしれない。しかし現代生命科学、特に人間の科学に関わる人なら、ここに述べられていることの、生物学的新しさを十分理解できると思う。そう、今我々が特に人類進化研究として取り組むべき課題が、明確に述べられている。
例えば、Frans de
Waalの「The Bonobo and the Atheist (ボノボと無神論者)」やGary Tomlinsonの「Culture and the Course of
Human Evolution」
を読めば(図6)、フロイトのこの問題提起を真摯に受け止めて、彼の提起した問題に、現代生命科学が答えを出そうと努力していることがわかるはずだ。
図6 Frans de
WaalとGary Tomlinson著書。Frans de
Waalの著書については和訳もあるが、「道徳性の起源」とソフトにした題名にしてニュアンスを壊しているので、あえて英文の本を紹介する。
このように、私は「モーゼと一神教」を老フロイトからの生命科学の未来への提言だと思っており、今後何度も登場させることになる一神教議論の最初として取り上げるべき著作だと確信している。
こうして一神教に触れた後は、ギリシャ哲学の始まりについて、柄谷行人さんの「哲学の起源」を題材にして考える。
2019年4月30日
SLEを代表とする全身性の自己免疫病は女性に多い。私たちの頃は単純に男女の内分泌システムの違いがこの原因だとされてきた。しかし、性ホルモンが原因だとすると、なぜ思春期前、あるいは閉経後も女性に自己免疫病が多い状態が続くのかを説明できない。
この問題に対してVGLL3転写因子の男女での発現差が自己免疫病の発症頻度の差を決める可能性を示す論文がミシガン大学から4月18日号のJCI Insightに発表された。タイトルは「The female-biased factor VGLL3 drives cutaneous and systemic autoimmunity (VGLL3の女性優位の発現が皮膚と全身の自己免疫を駆動する)」だ。
タイトルにあるVGLL3はまだまだ機能が理解できているとは言えない転写に関わる分子で、脂肪細胞分化や、炎症に関わる可能性が最近指摘されるようになった。このグループは以前、VGLL3が女性の皮膚に男性の3倍程度発現している事を発見し、これが全身性の自己免疫病の原因になっているのではないかという可能性を指摘していた。
この研究では、この仮説を動物実験レベルで確かめるため、皮膚のケラチノサイトでVGLL3を過剰発現させた場合、全身性の自己免疫病が起こるか、トランスジェニックマウスを用いて調べている。この方法では、正常の5−50倍という高いVGLL3の皮膚での発現が誘導される。実験では雄マウスを用いており、これによりVGLL3の効果を性ホルモンとは切り離して検証できる。
結果は著者らの期待通りで、3ヶ月までにはケラチン層の肥厚を伴う強い皮膚炎症が誘導され、病理学的にも人のSLEとよく似ている。遺伝子発現で見ると、VGLL3過剰発現によりインターフェロンやケモカインなど多くの炎症性サイトカインが誘導され、これが炎症の引き金になっていることを示唆する。また、人間のSLE患者さんの皮膚での遺伝子発現と比べると、遺伝子発現プロファイルがよく似ていることが確認される。
次に皮膚に浸潤してくる細胞および、全身の免疫細胞状態を組織学、FACS、さらにCyTofと呼ばれる細胞内のタンパク質発現を単一細胞レベルで調べる方法を用いて調べ、皮膚病変はT細胞、B細胞、樹状細胞が浸潤する典型的SLE病変が起こり、おそらくこの結果として皮膚からのリンパ球を集めるリンパ節や脾臓での強いB細胞の増殖が起こっていることを示している。
この結果として、SLEの代表的な指標である抗DNA抗体をはじめとする自己抗体が上昇し、腎臓にも抗体の沈着が見られることを示している。
以上の結果は、VGLL3の発現が女性で高まるため、炎症性のサイトカインが慢性に分泌され、毎日壊されている皮膚の自己抗原が自己免疫を誘導、その結果B細胞全体の活性が高まるのがSLEではないかと示唆している。
実際には、この分子が皮膚で欠損した場合どうなるのか、自己免疫を誘導した後皮膚からこのトランスジーンを除いたらどうか、など鍵になる実験が欲しいところだが、これが本当なら全身性の自己免疫の治療や予防に向けた明確な戦略が一つ新たに生まれたことになる。
2019年4月29日
うつ病は現代社会にとって緊急課題になってきているが、最近経頭蓋的磁場照射を含む様々な新しい治療が開発されてきた。中でも麻酔剤ケタミンを一回投与するだけで、うつ症状が即座に軽快することがわかり、特に自殺防止の点から大きな期待を集めている。この発見は、低調だった向精神薬の開発を加速させ、最近ではエスケタミンという薬剤がFDAにより認可され、本当にこんな高価な薬剤をケタミンの代わりに使っていいのか話題を呼んだ。ケタミンは確かに即効性があるが、長期的観察では効果がなくなるため、臨床試験だけでなく、並行して動物実験による効果のメカニズムを明らかにする必要がある。
今日紹介するコーネル大学からの論文は、マウスにコルチコステロイドホルモンを投与するといううつ病モデルを用いてケタミンが神経伝達のダイナミズムを反映する神経軸索でのスパイン形成にどのような影響を及ぼすか調べた研究で、4月12日のScienceに掲載された。タイトルは「Sustained rescue of prefrontal circuit dysfunction by antidepressant-induced spine formation (前頭前皮質回路の異常を抗うつ剤によるスパイン形成が持続的に回復させる)」だ。
この研究では、まず生きたマウスの脳の中のスパイン形成を継時的に観察し続け、うつ状態により新しいスパイン形成が低下し、逆にスパインの消失速度が高まることで、スパイン形成が強く抑制されること、そしてケタミンを一回投与すると24時間でスパインの形成がん元に戻ることを発見している。
このスパインの回復は、全く新しいスパインの回復だけでなく、半分以上はうつ状態で消失したスパインが回復することを明らかにしている。
次にカルシウムを検出するイメージングを用いて観察視野内でのシナプス活動を調べると、スパイン数の低下を反映して、うつ状態になるとシナプス活動が低下し、それをケタミンによって回復させられることを明らかにしている。すなわち、スパイン形成は生理学的変化と並行している。
さらに、行動とスパイン形成、シナプス活性をつなぐ目的で、マウスの尻尾を持ってぶら下げたときに体を元に戻そうと努力するモチベーションを調べるテストを用いて、それぞれの関係を調べている。このテストで見ると、うつ状態では元に戻す意欲が低下しているが、ケタミンで回復させることができる。
この3つの指標を同時に調べると、行動に対するケタミンの効果は、スパインの回復に先立って起こり、神経回路の回復と一致している。したがって、スパイン自体はケタミンによる神経活動の回復による二次的効果であることがわかる。次に、東大の河西さんたちが開発した方法を用いてスパインを消失させ、ケタミンの効果を調べることで、ケタミンにより神経活動が回復した結果として形成されたスパイン形成は、体を元に戻そうとするモチベーションが長期間維持されるために必要であることも示している。
以上は全てモデル動物の話だが、このような基礎的研究の上に新しい薬剤を地道に開発する努力が必要かと思う。その意味で、新しい点鼻薬についても、くり返し投与がどのような効果があるのか調べてみたいと思う。
2019年4月28日
最近様々な媒体を使ったコマーシャルで、短鎖脂肪酸を作るXX菌をキャッチフレーズにしているのを耳にする。この背景には、腸内細菌のバランスを整えるとか、悪玉菌を追い出すとかといった宣伝を行ってきたものの、何百、何千種類もある細菌を本当にコントロールして、例えばヨーグルトの因果性をはっきりさせられるのかという反省がある。一方(私の研究室の大学院生だったということで、論文紹介を控えているが)、一つ一つの菌を地道に調べて、因果性のはっきりした素晴らしい研究を行なっている本田さんたちの論文を読むと、何が善玉で、何が悪玉かを決めるためには血の滲むような努力に裏付けられた最新のメカニズム研究が必要であることがわかる。もちろんまともな企業ならこんなことはわからないはずはなく、今度は因果性が大事だと思い直し、その結果糖尿病や肥満との因果性が明確な物質「短鎖脂肪酸」をキャッチフレーズにし始めたように思える。ただ、短鎖脂肪酸と一括りにすると、思わぬ落とし穴がある。
今日紹介する腸内細菌研究先進国と言えるオランダ・フロニンゲン大学からの論文は、短鎖脂肪酸でも糖尿を防ぐものと、促進する両方があることを示した論文でNature Genetics4月号に掲載された。タイトルはズバリ「Causal
relationships among the gut microbiome, short-chain fatty acids and metabolic
diseases(腸内細菌叢、短鎖脂肪酸、代謝病の間の因果関係)」だ。
この研究の目的は、膨大な細菌叢ゲノムデータから、特定の短鎖脂肪酸、そしてホストの代謝状態との因果性が明確な細菌を割り出そうとする研究と言える。基本的には、ビッグデータ処理研究だが、その結果明らかになったのは、
PWY-5022として知られるGABAを分解してブチル酸を作る経路とインシュリン感受性で、この経路に最も貢献している細菌としてEubacterium rectale, Bacteroides pectinophilus, Roseburia intestinalisと、あまりなじみのないバクテリアが並んでいる。中でもEubacteriumの貢献度は高く、その意味でこの指標については善玉菌と言えるのかもしれない。 一方比較的測定が簡単な短鎖脂肪酸プロピオン酸と糖尿病を相関させると、プロピオン酸の合成が2型糖尿病の原因になること。
を明らかにしている。
要するに、短鎖脂肪酸といっても2種類あって、それぞれを作るバクテリアは違っているため、善玉、悪玉ということが言えることになるが、だとすると我が国の食品メーカーも、このレベルのデータを提供して、善玉だ、短鎖脂肪酸だと議論してほしいものだと思う。
しかも、プロピオン酸についてはもう一つ問題がある。腸内細菌叢でも作られるのだが、食品の保存剤として広く用いられている点だ。我が国の現状は把握していないが、この問題を警告する論文が先週号のScience Translational Medicineに掲載された(Tiroshet
al, Science Translational Medicine 11:eaav0120(2019))ので短く紹介しておく。
なぜプロピオン酸が危険かというメカニズムを調べた論文で、最終的に人間でもテストを行った研究だ。まとめてしまうと、プロピオン酸は自律神経を介して、グルカゴンやFABP4の分泌を高め、その結果肝臓でのグルコース合成を高め、高血糖を誘導するという結果だ。この2型糖尿病を誘導する効果は、米国で通常食品保存に用いられる量でインシュリン抵抗性が高まり、逆に食事制限によるダイエットについてのコホート研究の参加者について、血中プロピオン酸とインシュリン抵抗性を調べると、プロピオン酸が低下によりインシュリン反応性が高まり、代謝が改善することを示している。
我が国の現状は知らないが、短鎖脂肪酸を食品メーカーが宣伝のキャッチコピーに使うなら、ぜひプロピオン酸の問題も指摘して、消費者が悪い短鎖脂肪酸を避け、良い短鎖脂肪酸を利用できるようにしてほしいものだ。
2019年4月27日
静脈麻酔や内視鏡手術が増加したとはいえ、全身麻酔による手術は今でも大活躍していると思うが、なぜ全身麻酔が可能かについては、実はよくわかっていない。生化学的な解析から、麻酔剤はGABA受容体を抑制することで脳の活動性を下げる可能性が示唆されているが、最近ケタミンがグルタミン酸受容体を抑えることが明らかになり、ともかく脳活動を全般に下げるのが麻酔と考えることができる。
この考え方に対し、生理的な眠りとの関係を重視する人たちは、麻酔剤により特定の神経細胞がまず興奮し、そこからのシグナルが眠りを誘導するという考えが最近注目されている。今日紹介するデューク大学からの論文はこの考えに基づき、視床下部の視索上核の神経内分泌系に属する神経群が麻酔剤により刺激され、眠りを誘導することを明らかにした研究で6月5日号のNeuronに掲載された。タイトルは「A Common Neuroendocrine Substrate for Diverse General Anesthetics and Sleep(様々な全身麻酔と睡眠を誘導する共通の神経内分泌回路)」だ。
この研究は最初から全身麻酔で特別に活性化される神経細胞があると決めて、活動したばかりの神経を標識するFOSの発現を脳全体で調べると、確かに全体の神経活動は低下しているが、視索上核に興奮細胞の塊が見られることを、組織学的、生理学的に確認している。
この細胞の特性を調べると、これまで考えられていたGABA神経ではなく、バソプレシン、ディモルフィン、オキシトシンなどのペプチドホルモン作動性の神経であることが明らかになった。
あとは本当にこれら細胞の興奮が麻酔状態を誘導するか調べることになる。ただ、ペプチドホルモン作動性といっても多様なので、遺伝学的操作が難しいが、この研究では麻酔によって一度活性化された細胞を永続的に遺伝的にマークする方法を用いて、麻酔で活性化(AAN)される視索上核の細胞だけを遺伝子操作することに成功している。
この結果、化学物質で視索上核のAAN細胞を刺激できるように操作したマウスでは、刺激により周期の低い脳波を特徴とする睡眠(SWS)が誘導される。また、光遺伝学でこの領域を短期間刺激するだけでも、睡眠が促進され、また麻酔の効果が高まる。
逆に視索上核AANを除去したり、活動を抑えると、麻酔効果が短くなり、また睡眠が阻害される。
重要なのは様々な麻酔剤で同じ領域が興奮し、しかも睡眠が誘導される前にこの領域が活性化されることだ。さらに、これらの神経が下垂体と連結する神経内分泌系の細胞で、この興奮により神経だけでなく、様々な身体状態の調整を下垂体を通して行うことが可能になっていることになる。
データを見ると、差が大きくなかったり、またなぜ神経が興奮するのかという点については明らかではないが、この歳になってようやく麻酔がどう効くのか納得することができた。
2019年4月26日
T細胞依存性の抗体産生にはCD40とCD40Lの相互作用が必要で、ノンカノニカルNFkB経路も含めて、その生化学的基盤はよく解析されている。実際、CD40Lの欠損した患者さんではクラススイッチが起こらず、IgMの血中濃度が上昇する。当然この分子を標的にすれば、自己抗体の産生を抑えることができるはずで、PD-1と同じような抗体治療が考えられる。実際、昨年抗CD40抗体を用いた治験がドイツから報告された。
CD40Lに対する抗体も同じ効果を持つと考えられるが、血小板に発現しているため、抗体投与により血栓ができることがわかっていた。今日紹介するベンチャー企業Viela Bio社、アストラゼネカ社、Medimmune社から共同で発表された論文は、ファージライブラリーでCD40Lに対する中和ペプチドを特定し治療に使う研究で4月24日号のScience
Translational Medicineに掲載された。タイトルは「A CD40L-targeting
protein reduces autoantibodies and improves disease activity in patients with
autoimmunity(CD40を標的にするタンパク質は自己免疫病の患者さんの自己抗体を低下させ病気を改善する)」だ。
昨年のノーベル化学賞受賞者の一人はWinterだが、彼はファージウイルスの表面にランダム配列を持ったペプチドを表現させ、目的のタンパク質に結合するタンパク質を特定する方法を開発してきた。この研究でも基本的にこの方法でCD40Lの機能阻害をするタンパク質を探索し、最終的に342と名付けたタンパク質を特定している。
このペプチドはCD4Lの機能を阻害するが、血中ではすぐに分解されてしまうので、この分子を血清中で安定なアルブミンに結合させ、VIB4920と名付けた阻害剤を開発している。
あとはVIB4920の安全性と効果を確かめるための臨床試験を行い、
VIB4920は血清中の半減期が9.27日で安定している一方、血小板の凝集作用はなく、1500mgまで問題なく利用できること。 VIB4920に対する抗体が100-300mg投与では誘導されるが、これは3000mg投与群ではほとんど見られなかった。 T細胞依存的抗体産生を抑制する。 リュウマチ患者さんの症状を改善し、自己抗体を抑制する。
ことを明らかにしている。
以上の結果から、ファージライブラリー法を用いて開発した機能阻害タンパク質も、今後抗体治療を補完する方法としてかなり有望であることが示されたと思う。完全に把握しているわけではないが、これが臨床で利用されるようになれば、このファージライブラリーから生まれた薬剤としては早い方ではないだろうか。個人的にはこの方法にあまり期待していなかったが、考えを改めることにする。
2019年4月25日
宇宙飛行士はもうすでに何百人にも達しており、今や一般の人の宇宙飛行も視野に入ってきているようだ。まだまだトップジャーナルを賑わすというところまではいかないが、宇宙飛行による医学実験の論文も着実に増えてきている。それでも宇宙飛行士の数は人口のほんの一部で、また特殊な訓練を受けているため、宇宙飛行自体の影響を純粋に取り出して調べるのは簡単でない。
今日紹介するコーネル大学を中心とした研究グループからの論文は、一卵性双生児で共にNASAのミッションに参加しているペアのうち、一人が1年の宇宙飛行、もう一人が地上勤務についているという条件を選んで、宇宙飛行の身体への変化を調べた論文で4月12日号のScienceに掲載された。タイトルは「The NASA Twins Study: A multidimensional analysis of a year-long human spaceflight (NASA 双生児研究:1年にわたる宇宙滞在の影響を多面的に解析する)」だ。
一卵性双生児で、共に宇宙飛行士の訓練を受けているという2人なので、かなり純粋に宇宙飛行の影響を調べることができそうだ。実際、飛行前の検査では、ほとんどの項目で違いはない。しかし、よくここまで徹底的に解析を行ったと思う。生化学、脳科学、エピゲノム、遺伝子発現、免疫機能、代謝機能、腸内細菌、プロテオミックス、循環生理、テロメアまで飛行前後は言うに及ばず、飛行中まで詳しく調べており、大変な研究だと思う。実際、長い長い論文で、データも多く、読むのに苦労した。
もちろん全部紹介する気は毛頭ないので、興味を惹いた話だけを列挙しておこう。
リンパ球の遺伝子発現の変化を見ているが、フライト中に遺伝子発現は確かに変わるが、地上に戻ると正常化する。さらに、ワクチンに対する免疫反応は、ほぼ同じレベルで保たれる。 驚いたのは、フライト中にテロメアが長くなることだ。この原因はよくわからないが、フライト中に血中の葉酸値が低下するので、これが原因かもしれない。 大便を採取して細菌叢まで調べており、フライト中にバクテリア種の変化が見られるが、これは地上に戻ると元に戻る。 無重力状態で骨のカルシウム代謝が変化する事は予想されているが、尿中のコラーゲンの分泌も上昇する。特に血管の構成成分であるCol3Aが分解されているとすると、注意が必要。 当然のことながら、体液代謝の変化が起こり、そのバイオマーカーとして尿中のアクアポリン2の量が上昇する。他にも、レニンアンギオテンシン回路に関わるタンパク質の尿中の上昇も見られる。 一旦長くなったテロメアは、地上に戻ると今度は急速に短くなり、これはなかなか回復しない。原因も含めて今後追及が必要。 テロメア同様、ゲノムの不安定性を示す転座や欠失はフライト中に上昇し、帰還後も元に戻らない。 これまで指摘されていたように、乳頭浮腫、遠視、綿様スポット、脈絡膜のシワなど様々な眼科的変化が起こる。特にいくつかの症状は地上に戻っても継続するので、今後の重要な問題になる。 無重力による循環動態の変化は最も研究されている重大な問題で、普通下肢に停留する2リットルもの体液が上部に移行する。この状態が続くことで、血管の慢性的変化が誘導されることになり、同じ変化が今回も見られている。 驚くことに、帰還後炎症性のサイトカインの上昇が見られる。 認知機能が帰還後低下する。ただこの長期の影響については不明。
短くと思ったが、すでにこんなに長くなった。はっきり言って、一般の人にはあまり関係のない話だが、要するに宇宙飛行には健康リスクが伴うことを、一卵性双生児の宇宙飛行士ペアという稀有の機会をとらえて調べ抜いた研究グループに脱帽。
2019年4月24日
ウイリアムズ症候群(WS)は、言語と脳が話題になる時必ず言及される病気だ。というのも、知能の発達の遅れにも関わらず、言葉を話す能力が極めて高い不思議な特徴を持つからだ。これと並行して、「天使のように愛くるしい」と形容される人懐っこさ、そして初めて人でも不安を持つことなく近づく社交性を同時に持っていることから、言語能力が社会性と強く相関していることを示す一つの例になっている。
病気の原因は7番染色体の一部が大きく欠損するため、片方の染色体で26種類の遺伝子が欠損するため、実際には様々な身体の発達障害を示す複雑な疾患だ。最近、同じ領域の小さな欠損を持つWSが発見され、GRF2I転写因子の欠損が特徴的な顔貌と精神発達障害に関わることが明らかになった。
今日紹介するマサチューセッツ工科大学からの論文はマウス神経細胞のGtf2i遺伝子を欠損させたモデルマウスがWSのモデルとして利用でき、さらに発達障害の治療も可能であることを示した画期的な研究でNature Neuroscienceオンライン版に掲載された。タイトルは「Neuronal
deletion of Gtf2i, associated with Williams syndrome, causes behavioral and
myelin alterations rescuable by a remyelinating drug (ウイリアムズ症候群に関わるGtf2iの神経細胞特異的ノックアウトは再ミエリン化薬剤で治療可能な行動とミエリンの変化の原因)」だ。
この研究では前頭葉の興奮ニューロン特異的にGtf2i遺伝子をノックアウトしたマウス(cKOs)を作成し、WSと比べながら調べ、以下のような結果を得ている。
WSでは大脳皮質の縮小が見られるが、同じような皮質の現象が見られる。 WSは高い社交性と、不安の欠如が見られるが、cKOsの行動解析でも、同じように、他のマウスに対する高い社交性と不安行動の低下が見られる。 cKOsの遺伝子発現を調べると、なんと低下する遺伝子の7割がミエリン合成に関わる分子で、実際脳のミエリンの厚さが低下して、神経伝達速度が低下していることがわかった。そこで、WSの脳の遺伝子発現とミエリンを調べると、cKOsと似たミエリン厚の低下と、ミエリン関連遺伝子の発現低下が見られた。 カリウムチャンネルをブロックして神経伝達機能を高めるアミノピリディンを投与すると、運動機能が正常化し、さらに社会性が高いという変化も正常化する。 オリゴデンドロサイトの文化を誘導しミエリン形成を高めることが知られており、現在はアレルギー症状改善に用いられるクレマスチンを投与すると、ミエリンの厚みが増し、社会性も元に戻る。 Gtf2iを片方の染色体のみ欠損させた、よりWSに近いモデルマウスでもWSと同じような症状とミエリン形成異常が起こる。
以上の結果から、WSの精神発達障害のかなりの部分はGft2i遺伝子の欠損で説明でき、しかも薬剤による治療可能性があることを示した画期的研究だと思う。臨床試験がうまく進むことを期待したい。
2019年4月23日
絶対的な善悪が神により決められるとされていた時代に、人間の善悪の判断は好きか嫌いかの感情に深く根ざしていることを率直に指摘したのはスピノザだが、この好き嫌いの感情に関わる重要な脳領域の一つが扁桃体だ。例えば自閉症スペクトラムの子供が、他人の目を見たときより、口を見たときに強く反応するといった不思議が起こるのも扁桃体で、多くの研究者がこの領域の解明にしのぎを削っているという印象がある。
そんな中で今日紹介するケンブリッジ大学からの論文は単一神経の記録から扁桃体で自分の行動と他人の行動をどのように処理して社会性を学習するかを調べた古典的な研究で、クラスター電極や光遺伝学などを多用した研究が圧倒的多数を占める中で、不思議な新鮮さを覚えた。タイトルは「Primate Amygdala Neurons Simulate Decision Processes of Social
Partners(サルの扁桃体ニューロンが社会的パートナーの決断過程をシミュレーションする)」だ。
この研究では、大きな褒美をもらえる確率が一方は85%、もう一方は15%という2枚の絵を選ぶ課題を、テーブルを挟んで2匹のサルに行わせ、相手がうまく選んで満足するのを見ている時と、自分が選んで満足するときの扁桃体のニューロンの活動を一個一個比べ、それぞれの過程に関わるニューロンの特性と場所を記録して、自分の判断と、他人の判断をどのように統合して、社会性を獲得するのかを理解しようとしている。課題はあまりにも単純だが、実際には課題を行なっている途中で確率がスイッチするようにして、この急な変化にどう対処しているかも記録している。
一つの神経を記録しながら、いくつかの課題を行わせ、行動と単一神経の興奮との関係を解析、これが終わるとまた次の異なる場所の神経を記録して行動との関連を記録するという、気の遠くなるような実験を繰り返し(サルも大変だと思う)、最終的に以下の結果を得ている。
行動と神経活動の記録から、異なる過程に関わる3種類のニューロンが特定できる。 まず絵を見たときにその価値を判断するとき反応する神経細胞で、自分が課題を行なっている時も、他人が課題を行なっている時も同じ神経細胞が反応する。 絵を選ぶとき、相手が選んでいるときに反応する神経と、自分が選んでいるときに反応する神経は異なる。すなわち、自己と他の区別がはっきりしている神経。 そして、ある対象に対して他人がこれから行う判断を、自分の頭の中で予想するときに反応するシミュレーションを行う神経。 自己と他の価値判断に共通に関わる神経は、外側に偏るが、あとは扁桃体の中で混ざって存在している。
そして、自分と他の選択を区別するニューロンと、対象物の価値を共有するニューロンの統合により、他人の行動をシミュレーションする神経が生まれることで、他人の考えを想像できる社会性が生まれるとしている。
同じような研究は、他の動物でも行われている。ただ、古典的な方法でこの問題にアプローチしている新鮮さからこの論文を紹介した。しかし、どのような系を用いるようにせよ、価値を決め、行動を選択する過程が扁桃体の神経活動に表象されていることは、自閉症スペクトラムの治療や理解にとってもとても重要だと思っている。
2019年4月22日
この歳になると、なぜか周りに心房細動でアブレーション治療をしたという人が増えてくる。実際、心房細動の最も重要なリスクファクターは加齢だ。実際には急な生活の変化や疲労の蓄積などで一過性に起こるAFは多くの人が経験しているのではないだろうか。もちろん、弁膜症や心筋梗塞など、血行動態の変化を伴う基礎疾患のある人に心房細動が起こる場合は、すぐ治療が必要だが、初期の一過性の心房細動の治療が必要かどうかは議論が分かれているようだ。
特に基礎疾患がない場合でも、心房細動になると1)胸の不快感が続く、2)当然新機能が低下する、3)血栓の危険性が高まる、ことから、初期であっても積極的に薬剤や、電流によるリズムの調節などで正常化させる方がいいことは間違いない。そこで、最近ではカルディオバージョンと呼ばれるいわゆる電気による除細動が行われる。今日紹介するオランダ・マーストリヒト大学からの論文は、このときも最初からカルディオバージョンを行うべきかどうか調べた研究で4月18日号のThe New England Journal of Medicineに掲載された。タイトルは「Early or delayded cardioversion in recent-onset atrial fibrillation (最近始まった心房細動のカルディオバージョンはすぐにすべきか、待つべきか?)」だ。
一般的に除細動というと、心室細動に対して行ういわゆるカウンターショック治療を思い浮かべるが、心房細動でも心臓の拍動(QRS)に同期させて通電してリズムを元に戻す治療が行われ、これを除細動ではなく、カルディオバージョンと呼んでいる。少しでも早く細動を止めるため、最近では救急でのスタンダードになってきている。
この研究では、最近始まった心房細動の症状で救急にやって来た患者さんの中から、発症後36時間以内で、他の心臓基礎疾患がない患者さんを選んで、カルディオバージョンを行わず、薬剤のみで様子を見、もし次の日に来てもらって治っていない場合はカルディオバージョンを行うグループと、最初からカルディオバージョンによる治療を行う群に分け、4週間後に心房細動が再発しているかどうかを調べている。最初様子を見る群でも、48時間経っても心房細動が止まらないグループは、もちろん薬剤やカルディオバージョン治療を行なっている。したがって、最初の段階で様子を見たか、すぐに介入治療を始めたかどうかだけの差を調べている。
最初、3700人の心房細動患者さんがリクルートされているが、そのうち上に述べた条件に合うのは、1125人で、残りの患者さんは診察前36時間以上細動が続いていたり、これまでも細動の発作が繰り返していたり、基礎疾患を持っていたため対象から除外されている。
結果だが、最初からカルディオバージョンを行わない場合でも、行なった場合もどちらも90%以上の患者さんが、4週目で再発はなく、両群に差はなかった。また、副作用でも特に差はなかったという結果だ。ただ最初薬剤からスタートした様子見群では約3割の人で薬剤のみでは治らず、次の日に結局カルディオバージョンを行う必要があった。
以上が結果で、最近始まった心房細動の場合、まず薬剤を処方して帰らせて、治らない場合次の日カルディオバージョンを行うので十分だという結果になる。もちろん、患者の立場から言えば早く直してもらったほうが安心できる。一方、救急の立場で考えると、カルディオバージョンには鎮静剤の投与など、時間と人手がかかるので、できたら薬剤処方だけでとりあえず帰ってもらって問題なければ、その方がいいことになる。この研究のモチベーションは、おそらく後者だと思う。