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「生命科学の目で読む哲学書」第1回 はじめに

2019年4月10日
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6年前にあらゆる公職から身を引いた。この決断に対して、仕事を続けるべきだとか、途中でやめるのは無責任だとか様々なアドバイスを受けたが、6年経ってみると本当に良かったと思っている。というのも、研究も含めあらゆる公職を辞すことは、あらゆる制限から解放されることを意味する。現役時代でも様々な分野に興味を持つ方だったが、それでも専門を持ったままではその縛りを無視して自由気ままに生きることは、よほど能力がないと難しい。そのため、例えば脳科学について論文を読むことなど、ほとんどなかった。

しかし今、この縛りから解放されると、分野を問わず毎日多くの論文を読むようになった。おそらく人生のうちで論文を最も読んでいる時期を過ごしているのだと思う。その結果、自分で言うのもなんだが、論文に目を通して理解するという点だけで言えば、他の人には負けていないという自信ができた。この蓄積が、様々な人に講義をしたり、あるいはコンサルテーションの仕事をする際に大いに役に立っている。専門に縛られていた頃の自分と比べると、世界の研究の今を俯瞰的に見るようになったことで、視野が開けた。そして、生命科学が量的に進展するだけでなく、革命的変化を遂げているのがよくわかる。逆に、6年間論文を読み続けると、わが国の生命科学界総体が(もちろん優れた個人は多く存在するが)、この革命から取り残されていることもよくわかる。

この生命科学の変革の核になっているのが、「人間の科学を中心に置く」生命科学の再統合ではないかと思う。「人間の科学を中心に置く」などというと、「生命科学の対象を人間に縛り付けることは、応用偏重の間違った方向性だ」とお叱りを受けそうだが、少なくともトップジャーナルの編集方針を見る限り、21世紀は人間学を中心に置く生命科学へと舵を切ったように思える。そして「基礎だ、応用だ」と議論が続くわが国の学界は、新しい時代の人間中心の生命科学を、応用重視としてしか見られない硬直した考えに支配されている。

「人間を中心におく生命科学」で私が意味したいのは、決してiPS細胞などを用いた応用研究を強化せよという話ではない。例えば、ガラパゴスでの軍艦鳥の研究も(http://aasj.jp/news/watch/5615)念頭に置いているし、何よりも科学者に自らの興味に基づく自由な発想の研究ができるようにしないと実現できない目標だと思っている。わかりやすく言ってしまうと、生命を考える時、人間という究極の生命システムにまで視野を広げて、現象を理解しようとする態度だ。ダーウィンが「The Decent of Man」を書いたことを思い出してほしい。

しかし口で言うのは簡単だが、実際にあらゆる生命科学の問題をこの方向と結びつけて考えることは簡単ではない。この発想の転換ができていないと、結局生命科学を「基礎と応用」に分離する2元論に陥り、出口のない議論を続けることになる。おそらくこの発想の貧困が我が国の最大の問題点のように思える。新しい未来を視野に入れた議論を行うためには、生命科学全体を把握できる知識と知性が必要なのだ。とはいえ、深い見識を持つ研究者が世界中にあふれているわけではない。どの国でもほんの一握りしかいない。しかし、一握りにせよ、私たちに様々なアイデアを提供することができる人を頂点に科学界がバランスの良いピラミッド構造をとることが、このような変革期には必要だ。実際本を読んでみると、世界には確かにそのような未来の議論を行う知識人が存在し、科学と他の分野をつないでいる。しかし残念ながら、わが国の生命科学界に同じレベルの役割を演じられる思想にお目にかかったことはない。

もちろんこの批判は当然私自身にも当てはまる。批判に応えるためには、結局広い知識に裏付けられた見識を獲得した上で考える以外方法はない。大事なことは、世間に迎合してしまっては、薄まった情報で満足して、脳を成長させられない点だ。幸い世事から解放されたのを機にこの心配はなくなり、しっかり脳を成長させられそうだ。この歳になると、死が訪れるチャンスは大きく高まる。生きていたとしても、自分の脳がいつ制御不能になるかわからない。ゆっくりしている時間はないが、それでも脳が機能している間は、いくら歳を重ねても自分の脳を日々変革できるはずで、それなら自分で納得できる脳を作り上げて死にたいと思っている。

そう決めるとあとは学び続け、それを基礎に考えるだけだ。毎日出版される生命科学の論文を広い分野に渡って読み通すことは、当然重要な作業になる。ただ、これに加えて生命科学の過去、現在、未来について、自分の専門にはこだわらないが、少しテーマを絞って頭の整理をすることが必要になる。こう思って進めた作業の一部は、私が今年の3月まで顧問として務めたJT生命誌研究館のHPにノートとして断片的ではあるが書き残してきた。

この作業で扱ったテーマは、

  • ゲノムと生命情報
  • 無生物から生物が生まれるAbiogenesis
  • 言語の誕生
  • 文字と誕生と歴史

の4項目で、これまでの専門とはまるでかけ離れたテーマでしんどい作業だったが、解説書のみならず、総説や場合により原著論文まで当たって、自分なりに納得できるところまでは整理できたと満足している。このノートについては、もう少しまとめ直して、このサイトでも閲覧できるようにする予定だ。

読んでいただくとわかると思うが(生命誌研究館のHPにまだ掲載されている)、この4つのテーマは、現在から未来にかけての生命科学に関わっている。しかし現在や未来を理解するためには、過去、すなわち生命科学がどう生まれてきたのかについて自分なりの考えをまとめる必要がある。実際、欧米の研究者の著書を読むと、科学や生命科学が発展する前の人間の思想の変遷について、高いレベルの知識を感じる。私自身、現役の頃から毛嫌いせずに哲学書も読んだ方だが、到底知識でも理解でもかなわないと思える現役研究者は、例えばDeacon, Damasio, Tomlinson, DeWahl, Tomaselloと容易に名前を挙げることができる。

勿論、ただ過去の哲学書などを読めば彼らの域に到達できるというものではないが、しかし今のままでいいはずは無い。そこで、過去から20世紀まで、現代の生命科学が生まれる過程を整理するために、ギリシャ時代から現代まで、哲学書を中心に思想の変遷をまとめてみようと思い立った。それが、これから始まる「生命科学の目で読む哲学書」だ。

次回から、様々な著書を下敷きに、生命科学者の目に過去や現在の著作がどう映るのか率直に書いていきたいと思っている。もちろん対象は哲学書に限らない。過去の特定の時代を理解するために私が最適と考える本を選んで、何が学べるのかをノートとして書き残していきたい。

だいたい2ー4週間に1回、新しいノートをアップロードするつもりだが、基本的には不定期でいいと思っている。もちろん哲学や科学の始まりから現在までカバーするつもりだが、何が出てくるのかは見てのお楽しみだ。まず第1回はみなさんの意表をついて、フロイトの著作から始めようと思っている。

4月10日 免疫細胞プログラムとすい臓ガン幹細胞(4月18日号 Cell掲載論文)

2019年4月10日
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すい臓ガンも直腸ガンも、ガンのドライバー遺伝子や、抑制遺伝子は共通であることが多く、しかも発生学的起源は一緒なのに、どうして膵臓ガンだけこれほど悪性なのかはよくわからない。このすい臓ガンの特殊性を探索するために今も多くの研究が行われている。

今日紹介するカリフォルニア大学サンディエゴ校からの論文はその典型で、すい臓ガンの薬剤耐性の幹細胞を取り出しRNA解析、スーパーエンハンサー解析からリストされる遺伝子をクリスパー/Cas9でノックアウトして機能を調べるという、大変だが極めてオーソドックスな方法でガンの幹細胞に必須の遺伝子をリストした研究だ。ただ、そこで発見された分子があまりにも意外で、しかも治療標的になる可能性があるという、結果オーライの面白い仕事になった。タイトルは「A Multiscale Map of the Stem Cell State in Pancreatic Adenocarcinoma(すい臓ガンの幹細胞状態についての差複数の指標を用いたマップ)」だ。

研究では慶応の岡野さんが最初に発見、現在では幹細胞のマーカーとして使われているRNA結合タンパクMusashiを指標に、ras,p53変異を導入したマウスすい臓ガンモデルで幹細胞を集め、RNA-seq, ヒストンH3K27アセチル化を指標にしたスーパーエンハンサー 支配遺伝子検出、single cell seqなど多くの方法を組み合わせて、幹細胞状態に関わる遺伝子をリストし、このリストと10万近いガイドRNAを用いるクリスパー/Cas9で遺伝子ノックアウトを行い、すい臓ガンの増殖に関わる遺伝子を特定したリストを比べ、ガンの標的になりそうな分子を探索している。

この結果、新しい遺伝子、既知の遺伝子など同じすい臓ガン幹細胞状態に関わる重要な遺伝子群がリストされたが、この研究ではこの中で通常免疫系の細胞に発現するサイトカイン受容体など様々な遺伝子が、同じすい臓ガン幹細胞で発現し、しかもIL10RやCSF1受容体を抑制するとガン細胞の増殖が抑えられることを明らかにした。特に驚くのが、人間のすい臓ガン細胞でも同じ結果になる点だ。重要なのは、免疫系を介してこれら分子が働いているのではなく、がん細胞に発現し、ガン細胞の増殖を助けている点だ。何れにせよ、すぐ対応できる分子なので、治療可能性を調べられるだろう。

次に通常は免疫系で発現している多くの分子がどうしてすい臓ガンで発現するのか探索し、詳細は省くが最終的に昨日紹介したILC分化にも関わるRORγ分子がすい臓ガンでも発現することがその根本にあることを明らかにする。

RORγに関しては免疫性炎症を制御するために様々な薬剤が開発されており、最後にRORγ阻害剤SR2211がすい臓ガンに効果があるかを調べ、SR2211単独でも強いすい臓がん増殖抑制効果があり、また通常用いられるgemicitabinと組み合わせるとさらに大きな効果が得られている。

最後に患者さんから採取したヒトすい臓ガン培養でも、RORγの発現はガンの悪性度と比例し、SR2211が効果があることを示している。

これまで同じような網羅的解析は行われていたが、この研究の重要性は、免疫プログラムがそのまますい臓ガンに発現して幹細胞状態を作っていることの発見、そして何よりすぐに使える様々な治療標的が特定された点で、早期に治験が進むことを期待したい。

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