美術館だけでなく、教会でも多くの絵画を見ることができるが、古い絵画になると教会に飾ってある絵画は痛みが激しいように感じる。見るときの光のせいもあるのだろうが、ほとんどの教会では財政的にも修復が簡単ではないのだろうと個人的には思っていた。光に晒され、また大きな温度変化に晒されてきた絵画はオリジナルな光彩を保つことはできない。従って、古くから修復が行われ、その技術が伝わってきた。しかしながら、修復と障害が紙一重の修復作業に熟練した人材は乏しく、結果多くの美術館では修復できずに展示できない絵画が数多く存在する。
この問題に対し、ニスでカバーされている油彩の修復であれば、修復箇所だけをプリンターで印刷したラミネートフィルムを貼ることで、ほとんど満足のいくしかも何度でもやり直せる修復が可能であることを示した研究が、5月11日 Nature にオンライン掲載された。タイトルは「Physical restoration of a painting with a digitally constructed mask(デジタルに作成したマスクを用いて絵画の実際の修復を行う)」だ。
最近は様々な AI 写真修正アプリが存在し、ピンボケの写真もシャープな写真に変えてくれるが、基本的にはこれと同じ原理で、まず元の絵画をスキャンし、そこから修復すべき部位を探し出す。その上で、すでに存在する元の絵画を復元する AI を用いて修復後のイメージを再現する。
ここまでは写真修正ソフトとほとんど同じだが、全てがデジタル画像の写真と違ってこの修正を実際の絵画に加える必要がある。一つの方法は、納得できる修正後のデジタル画像の情報を元に、色や修正範囲を決めて、最終的には手で修復する、即ち修復者を助け効率を上げる方法が考えられるが、これだと修復熟練者の不足を解消するには至らない。
そこで、手での修復を諦め、修復箇所だけを透明のラミネートにインクジェットやレーザープリンターを組み合わせて印刷し、それを一気に元の絵画に貼り付ける方法を選んでいる。このとき、修復倫理として伝えられてきた匠の技、すなわち修復しすぎない、さらに人間の視覚感覚に合わせた色彩の選択、などをアプリに組み込んで、最終的に5600カ所の剥げ落ちた箇所について、57000色の異なる色彩を用いた修復箇所をラミネートに印刷している。
15世紀後半に描かれたキリスト誕生を祝いに来た3人の博士の絵画では、馬小屋に横たわるキリストの顔が完全に抜け落ちている。人間が修復する時にはどうしているのか知らないが、AI なのでこの画風に最も合致した画像を、当時の様々な絵画に描かれたキリストの顔を元に再構成し、これをさも修復画像に見えるように描き、ラミネートに印刷している。
あとは画面に張るだけだが、ニスで保護されている絵画の場合、このラミネートを簡単に剥がすことができ、必要ならニスを剥がして通常の修復を行うことができる。今回修復対象になった絵画に関しては全修復に人間が行うより66倍速く完成したとしている。実際には、修復倫理に合致させたりするためにかかったアプリの構築などを考えると、今後はさらにスピードが上がると思う。
普通、修復を考える時、材料もできるだけ当時の画材に近くと考え修復されていると思う。しかし、ともかくお蔵入りになっている絵画を一般の人が鑑賞できるようにするという目的に絞れば、現代のインクジェットやレーザープリンターで使われているインクを用いた画像を使うことも納得できる。実際、赤ちゃんとはいえ3人の博士の訪問の図にキリストが主役を演じていることを考えると、キリストの顔の欠落した絵画は展示しにくい。そして、これを全て人の手で完成させようとすると時間もかかるし、修復倫理にかなうかどうかもわからない。その意味で、この研究によりお蔵入りの絵画を鑑賞できるようになることは意義が大きい。何よりも文句が出れば剥がせばいい。