現在のトルコに位置するアナトリア地方はヨーロッパの農耕の始まったところで、ヨーロッパの民族形成には現ウクライナのヤムナ民族と並んで重要な位置を占めている。特に農耕がメソポタミアから渡ってきた新石器時代にアナトリアの民族や文化が形成されていることから、研究が進んでいる。この文化を象徴すると考えられているのがアンカラ博物館の女性像で、(https://www.worldhistory.org/image/13585/seated-woman-of-catalhoyuk/:是非クリックしていてほしい)王座を思わせる椅子に妊婦らしい太った女性の座像で、女性が高い地位にあった文化であることが想像される。
今日紹介するアンカラ大学からの論文は、トルコ中央部に位置するチャタル・ホユクの発掘現場から出土した人骨のゲノム解析を様々な数理的手法を駆使して分析し、当時の家族や社会構造を明らかにした研究で、6月26日 Science に掲載された。タイトルは「Female lineages and changing kinship patterns in Neolithic Çatalhöyük(新石器時代チャタル・ホユクの女性系統と変遷する家族形態)」だ。
この論文とサイドバイサイドで、同じグループはメソポタミアからエーゲ海まで1万年にわたる遺跡のゲノム解析を行い、アナトリアのゲノムが極めて安定に維持されていること、即ち民族の移動ではなく、知識の移動によりアナトリア農耕文化が形成されたことを明らかにしている。
その上で、チャタル・ホユク地区のそれぞれの家から発掘されたゲノムの解析を行っている。この地区では家の敷地に生活を共にした人たちが何代にもわたって埋葬されるのが特徴で、このおかげで家を中心とする家族の遺伝的関係を明確にすることができる。
まず、もう一編の論文から明らかになっていたように、この地域のゲノムも安定しており、他の民族が移動してきた証拠はない。とはいえ、交流も盛んで、10%ぐらいは他の地域から来た人たちであることがわかる。この交流を通して農耕などの知識が導入されたと考えられる。また、農耕文化が根付く過程では、男系を中心とする家族関係が発展するが、チャタル・ホユクも同じで、埋葬されている男性は遺伝的関係が強いが、女性は低い。即ちこのブログでも何度も紹介したように、女性が家から外へ嫁ぐというしきたりが維持されていた。
ところが驚くことに、このような男系の選択性は農耕が定着した紀元前6500年前後になると低下し始め、6400年ぐらいではほとんど見られなくなる。即ち同じ場所に埋葬されている人たちの遺伝的つながりでの男系優位は消失していく。代わりに女系優位になるというわけでもなく、一つの家族に男性も女性も同じように参加する形態に変化している。
さらに驚くのは、同じ地域に埋葬されている人たちの遺伝的関係性が時代とともに低下し続けることで、同じ家には遺伝的つながりのない人たちが一緒に暮らし、おそらく外との交流も自由で、死後は同じ場所に埋葬されたことになる。アイソトープを使って生きていたときの食べ物を調べると、同じ家で暮らしていた人たちは、遺伝的つながりがなくても同じ釜の飯を食っていたことも証明される。日本でも、いくつかの家族が一つ屋根で共同生活をして農耕に従事するという活動があるが、誤解を恐れずに言うと、こんなイメージがチャタル・ホユクの家族に当たるように思う。もちろん、養子縁組をとおして血縁のない子供が家族として引き受けられてたのかもしれない。
ではアンカラ博物館を始めこの文化の特徴である女性優位は存在しなかったのか?実際には、女性を大事にする文化は強く、特に大人になる前に死亡した子供の埋葬のされ方を見ると、女性の場合は装飾品などより丁寧に埋葬されていることがわかる。即ち、出産という大事業を成し遂げる女性への強い尊敬を通して、血縁関係とは別の女性優位社会が形成されていたのかもしれない。
結果は以上で、このアナトリア社会が西に進んだとき、どう変遷したのか、面白い話が今後も出てきそうだ。
この研究グループを率いている Somel さんは学位をライプチヒのペーボさんの研究室で受けている。最近の古代ゲノム論文を見ると、ペーボさんの弟子たちが新しいアイデアをもって、新しい領域を開発し続けているのがわかる。ペーボさんは人を育てるという意味でもノーベル賞にふさわしい震源地になっている。