9月6日:ガンの化学療法開始後30日以内に死亡した症例分析(The Lancetオンライン版掲載論文)
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9月6日:ガンの化学療法開始後30日以内に死亡した症例分析(The Lancetオンライン版掲載論文)

2016年9月6日
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    通常ガンに対する化学療法などの治療効果は。長期的な追跡調査をもとに算定され、五年生存率という言葉は一般の人にも広く知られている。しかし、例えば化学療法を勧められた知人と話すと、5年生存率として示される効果はよく理解していても、薬の副作用により命が縮まるのではないだろうかという不安を持っている。これは、治療の性質を考えると当然のことで、この不安に対する答えを医学は示す必要がある。
   今日紹介するイングランド公衆衛生局からの論文は、治療開始後30日以内に亡くなるケースを分析することで、副作用の面から調べるだけではわからない化学療法の課題を明らかにしようとした研究でThe Lancetオンライン版に掲載された。タイトルは「30-day mortality after systemic anticancer treatment for breast and lung cancer in England: a population-based observation study (乳がんと肺がんに対するシステミックな抗がん治療による30日以内の死亡:集団ベースの観察研究)」だ。
   この研究の基盤は2012年から始まり、2014年には英国のすべての医療システムに課せられたガンに対する化学療法や抗体治療の概要や経過についての報告義務により集まったデータベースだ。このデータベースの本来の目的は、治療の長期予後の判定だが、もちろんこの研究のように短期の様々なデータを分析することも可能だ。乳がんで約23000人、非小細胞性肺がんでほぼ1万人のデータがすでに利用できるというのは羨ましい。
   結果だが、化学療法を受けた乳がん患者さんの2%、肺がん患者さんの7%が治療開始後30日以内で亡くなっており、化学療法が命を縮めるのではという患者さんの不安をある程度裏付けている。
   特に根治が難しく、病状を緩和する目的で治療を受けた場合、乳がんで7%、肺がんで10%が30日以内に亡くなるという結果は、根治が難しくとも、がんを少しでも小さくしようと化学療法を使って見ることが普通に行われている現状を考えると看過できない数字だ。
   研究では30日以内に死亡するリスクについて様々な分析を行っているが、主だった点だけ紹介すると、
1) 根治療法として化学療法が行われる場合年齢が高いほど30日死亡率が高いが、症状改善のために行うケースでは若年者の方が30日死亡率が高い。
2) 以前に化学療法を経験した患者さんは30日死亡率が低い。
3) 一般状態が悪いと当然ながら30日死亡率は上がる
4) 根治療法として化学療法を行う肺がん患者さんの場合、肥満気味の方が30日死亡率が低い
などだ。
   それぞれの現象について説明はしているが、結果を解釈するためにはまだまだデータが少ない。今の所は現象として受け止めれば良いだろう。
   もう一つ重要な発見は、30日死亡率が高い施設や団体が発見されたことで、がん登録の義務化とデータ開示の重要性を示している。
   この論文を読んで、化学療法の安全性をさらに高める努力が医療に課せられた課題であることがよくわかった。我が国のがん登録データについても大至急このような調査が行われることを願っている。
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9月5日CARTガン治療の挫折と将来(9月1日号Science掲載記事)

2016年9月5日
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    実を言うと今アイスランドにいる。今日は1日ドライブと山歩きで過ごした後、夕食のワインで良い気持ちになって一寝入りしてから論文を選ぼうとしていたら、一緒に旅行しているMartinがオーロラが見えるという。そのまま表に出て、現れたり消えたり、強くなったり弱くなったりする夜のスペクタクルを眺めているうちにしっかりと記事を書く時間がなくなってしまった。そこで、9月1日号のScienceに編集者のJennifer Couzin-Frankelが書いている記事を紹介してお茶を濁すことにした。記事のタイトルは「Second chapter (第2章)」だ。
   二年前の10月、この記事で扱われているCART治療、すなわちキメラ抗原受容体T細胞治療の論文を読んだ時の私の驚きについて紹介した(http://aasj.jp/news/navigator/navi-news/2309http://aasj.jp/news/navigator/navi-news/2309)。この治療は、ガンが発現している抗原に対する抗体の遺伝子をT細胞受容体のシグナル伝達部分と結合させたキメラ抗原受容体遺伝子を合成し、この遺伝子を導入した患者さんのT細胞を調整して投与することで、抗体が認識する抗原を持つガン細胞を殺してしまおうという作戦だ。紹介した論文で普通の方法では手の施しようがなかったリンパ性白血病を、60%近くの患者さんで消失させることに成功したという画期的なものだった。原理を見ても極めて論理的で、三十年にわたるT細胞研究の成果がこの治療に凝縮しているように感じて、私も感激した。
   最初の成功に力を得て、この治療法は現在固形ガンなど他の腫瘍への応用が始まっているが、残念ながらうまくいっていない。
理由として、
1) リンパ性白血病はCARTと相互作用しやすい場所に存在している、
2) CD19という抗原が全てのガン細胞に存在し、なおかつこの抗原は正常マウスのB細胞にだけ発現しているので、ガンと共にB細胞がなくなっても患者さんは生きていられる、
3) リンパ性白血病は周りの細胞に影響されることは少ないが、固形ガンは微小環境との相互作用が強く、その結果せっかく移植したCARTの活性が抑制されてしまう。
などが考えられる。
   さらに、2009年には、この治療を受けていた直腸癌の患者さんが、CARTによるサイトカイン分泌亢進により肺障害で亡くなり、この治療が全身の副作用と無縁でないことも明らかになってきた。
   このように最初のフィーバーは終わって、もう一度基礎的にこの方法を見直し、先に挙げた問題点おw克服することで、より特異的で効果の高い治療へ発展させる努力が続いていることを報告している。
  この記事は、この治療に大きな期待を寄せていた私には少しがっかりさせる内容だった。それでも、これまでやってみないとわからないガンの免疫治療を、論理的な治療に変革し、免疫系がガンの根治をもたらせる力があることを示した点で、CART治療の貢献は大きい。確かに当初の高揚感は水を浴びせられたが、是非第2章でこの方法が改良され、固形ガンにも適用され、根治してくれることを祈っている。
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9月4日:内的時間の記憶(Nature Neuroscienceオンライン版掲載論文)

2016年9月4日
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  人間を使わないと難しい実験は多い。例えば今日紹介するニューヨーク州立大学からの論文のように様々なエピソードを経験した時、その時間的順序をどのように記憶しているのかといった課題は、動物を使った実験を設定することは難しい。もちろん人間でもこの時間の順番をどう記憶しているのかについての仮説を証明するとなると、課題の設定、測定の仕方など難しいだろう。
   この論文は、人間が一定の時間内に経験するエピソードの順序を記憶できるのは、周波数の高いγ波と極めてゆっくりとしたΘ波をカップルさせることで行っているということを証明しようとしている研究で、タイトルは「Episodic sequence memory is supported by a theta-gamma phase code (エピソードの時間的順序に関する記憶はΘ—γ位相コードにより維持される)」だ。
  まず正直に明かすと、この論文の詳細について理解するのは難しかった。もともと、実験するのが難しい課題で、様々な仮定の上に論理が組み立てられる。著者の論理の展開についていくには、この領域の研究についてしっかり理解する必要があるのだが、これが欠落している私にはわからいない点が多かった。それでも紹介したいと思ったのは、経験の順序を記憶するために持っている内的な時計は何かという、私たちが当たり前のようにやっていることも、考えてみるとほとんど説明がついていないことを教えられたからだ。
   ではこの研究はこの問題にどうアプローチしているのか?
    エピソードの時間的順序を記憶するためには、エピソードの起こった時間を記録する必要がある。時計を使って時間を記録すれば簡単にできることだが、日常の経験では一々時計を見ることはない。それでもエピソードが起こった時間を記憶できるのは、内的な時計があって、それにエピソードを関連づけているとしか考えられない。
   この内的にリズムを刻んでいる時計が脳内のどこにあるか考えると、私たちの脳波のパターンにおもい至る。この研究では、エピソードの知覚に連動したγ波が、時計の代わりをしているΘ波に連動させることで、エピソードに内的時間記録を書き込むことが可能になっているのではと仮説を立てている。言われてみれば納得の可能性で、なかなか他の可能性を思いつくのは難しいだろう。
   実験では、脳波を取りながら6枚の絵を順番に示すセッションを、異なる絵のパネルを使って6回行う。最後に2枚の絵を示してどちらを先に見たか聞いて、正解した時の脳波記録と、不正解の時の脳波記録を、γ波とΘ波が結合しているかどうかの観点から調べる。脳波では、写真を見た時のエピソードによる興奮と、その時にΘ波にγ波が結合したかどうかの解析を同時に行うことができる。
   もちろん答えはイエスで、Θ波の時計に絵を見た経験によるγ波を結合させていることが示されているが、先に述べたようになぜこのデータを「イエス」と解釈できるか、恥ずかしならが理解しづらかった。
   とはいえ、私にとってはΘ波が時計の代わりをしてくれているという結論は、目からウロコの納得の考え方だった。理解できなくとも、楽しめる論文がある良い例だ。
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9月3日:タスマニアデビルは生き残れる?(8月30日Nature Communications掲載論文)

2016年9月3日
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    タスマニアだけに生息するタスマニアデビルが、口から口へと他の個体に転移するガンによって絶滅の危機に瀕していることをこのホームページでも紹介してきた(http://aasj.jp/news/watch/4641)。このガンは拒絶反応を起こす免疫システムに感知されないように進化しており、粘膜を通して簡単に転移する。さらに、一旦このガン細胞が侵入すると100%致死という恐ろしいガンだ。
   このため1996年に最初にこのガンが記載されて以来、最も感染率が高い地域では95%以上、全タスマニアで80%の個体が20年で失われてしまっている。この結果から、ほとんどの生態学者はタスマニアデビルは間違いなく絶滅する運命にあると考えていた。
   ところが今日紹介するワシントン大学を中心とする米・英・オーストラリアからの論文は、ひょっとしたらタスマニアデビルは絶滅を免れるのではないかという可能性を示唆する研究で8月30日号のNature Communicationsに掲載された。    この研究ではタスマニアデビルの個体調査を行っているわけではないが、おそらくサンプルを集める過程で、タスマニアデビルはしぶとく生き残っているという印象を持ったのではないだろうか。このしぶとく生き残るのではという期待の根拠を求めたのがこの研究で、タイトルは「Rapid evolutionary response to a transmissible cancer Tasmania devils (個体間で転移するタスマニアデビルのガンに対する反応の進化)」だ。
   この研究では1999から2014年にわたって、ガンが蔓延するより前と後で約300個体からの細胞サンプルを収集、細胞から得られるDNAの多型を制限酵素切断と次世代シークエンサーによる配列決定を組み合わせた方法で解析している。著者らによると、この方法で全ゲノムの1/6の領域について多型を調べることができるようだ。
   こうして得られた多型の中から、ガン蔓延前後で大きく保有率が変化し、同じ変化がタスマニアの3地域で共通して見られる多型を検索し、変化の極めて大きな2つの領域を特定している。すなわち、この領域が変化することで、ガンに対する抵抗性が進化したのではないかと提案している。
   結果はこれだけで、あとはこの領域内あるいはその近くに存在する遺伝子の全てが免疫か発がんに関わる遺伝子であることを強調しているが、残念ながらどの多型がガンに対する抵抗性に関わっているかまでは特定できていない。
   研究としてはかなりしり切れとんぼで、もう少し深く追求してほしいというのが本音だが、いずれにせよ20年で集団内の遺伝子多型の比率がこれほど大きく変化できるなら、おそらくタスマニアデビルも絶滅を免れるのではと期待が膨らむ論文だった。
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9月2日:アルツハイマー病の抗体療法(9月1日号Nature掲載論文)

2016年9月2日
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   ガンと並んでアルツハイマー病は先進国の医学が抱える最重要課題で、多くの国で優先的に研究予算が回され、研究推進が行われている。ただ、ガン研究を比べると、アルツハイマー病は病気の経過が長く、また薬剤が届きにくい脳内の病気であることから治療開発のための戦略は限られてきた。
   この戦略の中で最も期待されているのが、アルツハイマー病で脳内に蓄積するβアミロイドに特異的抗体を結合させて、これをミクログリアの力を借りて除去してしまう方法だ。多くの会社が様々な抗体を開発し、治験を始めた。ところが、2014年大手製薬会社PfeizerとEli-Lillyがそれぞれ進めてきた抗体薬の第3相治験で効果が確認されず、この治療戦略に対する失望が広がっていた。
   これに対し今日紹介するアメリカBiogenからの論文は、抗体を選べばこの戦略が有望であることを示した第1b相の研究で、臨床治験の論文には珍しく9月1日号のNatureに掲載された。タイトルは「The antibody aducanumab reduces Aβ plaques in Alzheimer’s disease (抗体、Aducanumabはアルツハイマー病のAβプラークを減少させる)」だ。
   この研究で使われた抗Aβ抗体aducanumabは作成方法がこれまでの抗体とは異なり、アミロイドが重合してプラークを作るときに新たに生まれる抗原を標的に作成している。ただ、動物で抗体を作ってしまうと、プラークだけに反応する抗体を作るのは難しかった。代わりに、正常のアミロイドにはすでに寛容になっているヒトB細胞を直接刺激する系を用いて重合アミロイドにだけ特異的な抗体を得ることに成功している。
   あとは普通の治験研究と同じだ。514人の患者さんの中から病気の状態を追跡するための条件が揃った患者さん166名を選び偽薬を含む異なる用量を投与する5群に無作為的に振り分け、54週目で脳内のAβ量を測るPETを含む臨床データを集め、効果を判定している。抗体役の投与方法だが、1ヶ月に1回、点滴で投与しており、これなら患者さんの負担もそう多くないだろう。
   さて結果だが、最も効果がはっきりしていたPET画像のデータを示すところから始めている。実際に見てみると驚きの結果だ。最も多い用量を投与した患者さんではほとんど健常人の範囲に治まってきている。ただ、この検査は直接プラークだけに特異的ではないので、病気の原因が完全に取り除かれたと喜ぶわけにはいかない。
   実際にプラークが減少していることはどうしても動物実験を行うか、あるいは治療中の患者さんが亡くなった時に解剖して確かめるほかない。この研究では、動物モデルに同じ抗体を投与し、組織学的及び生化学的にプラークが減少することを確認している。このデータを足したことが、Natureを発表に選んだ理由かもしれない。いずれにせよ、説得力がある。
      さて症状だが、PET画像の改善と比べると効果は遅く現れてくる。2種類の評価法で調べているが、半年目には全ての用量でほとんど効果が見られない。おそらく研究者はがっかりしたことだろう。しかし1年経ってみると、用量に比例して効果が現れ、アルツハイマー病の進行を止めることができている。
   抗体療法のもう一つの問題は、抗体が脳内に到達するかどうかだ。今回これを確かめることはしていないが、この抗体が脳に到達し、しかも繊維状のAβからできたプラークだけに結合することを示している。効果から見ても、抗体は脳内にわざわざ投与しなくとも、一定量脳内に到達することを示している。
   最後に副作用だが、20例が副作用のために治療を中断しており、用量が多いほど副作用も多い。副作用のうち最も多いのが、ARIA(アミロイド関連画像異常)と呼ばれる、血管浮腫に相当すると思われるMRI画像上の異常だ。これと並行して頭痛が起こっている。ほかに用量依存的副作用として尿路感染も記載されているが、私にはこの原因は理解しにくい。
   以上まとめると、これまでの抗体治療と異なり、かなり有望な抗体薬が開発されたと言っていいのではないだろうか。投与方法にしても、アルツハイマーの患者さんにも許容できる範囲だ。しかし、まだ1年経過を見ただけの第1b相治験だ。副作用から考えて、もっと長期に投与した場合はどうかなど、最終的に臨床に利用可能かどうかの結論が出るにはまだ時間がかかるだろう。とはいえ、私がこれまで読んだ中では、すでに確立したアルツハイマー病に対する抗体治療の可能性について最も説得力のある論文だった。
   最後に一つ気がかりなのは値段だ。もし効果が明らかになれば、多くの人が使える値段にして欲しいと思う。
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9月1日:クモ嫌いは治せる(10月10日発行予定Current Biology掲載論文)

2016年9月1日
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  子供の頃くさむらを歩いたり走ったりしている時、確かに毛虫に刺されて痛い思いをするのではという恐怖感はあったが、どんな虫でも見たぐらいで恐怖を覚えることはなかった。ただ、何がきっかけかはわからないが、大人になってもクモや虫を写真で見るだけでもいやという人はいる。
   そんな人のために是非紹介したいと今日取り上げるスウェーデン・ウプサラ大学からの論文は、大人になっても続くクモ嫌いは治るかを科学的に調べた研究で10月10日号のCurrent Biologyに掲載予定だ。タイトルは「Disrupting reconsolidation attenuates long-term fear memory in the human amygdala and facilitates approach behaviour (記憶の再構成過程を遮断することで扁桃体に由来する長期間続く恐怖の記憶を弱め接近行動を促進する)」だ。
   心的外傷後ストレスをはじめ、私たちがトラウマと呼んでいる多くの恐怖経験に基づく心的障害の治療法開発を目指して、様々な実験や、試行錯誤が続いている。これらの研究から、恐怖記憶は扁桃体の興奮と連合していること、また記憶から恐怖への回路は新たな経験に出会って想起されるたびに不安定になり、構成し直す必要があるという弱点を持っていることがわかっていた。
   そこでこの恐怖記憶が不安定になる時を狙って治療する方法が開発されている。この方法では、恐怖記憶をまず誘発して記憶を不安定にして、時間をおかず同じ体験を繰り返させることで、恐怖心を取り除く治療だ。
    この研究では、写真でクモを見せられるだけで恐怖心を感じるという、生粋のクモ嫌いを慎重に選び、このクモ嫌いを上記の戦略で治療した時、扁桃体の興奮の低下という客観的改善につながるかMRIを用いて調べている。
   研究ではまず2種類のクモが映った写真をランダムに見せて恐怖反応を誘導する。その後被験者を2グループに分け、1グループは10分後から、他のグループは6時間後から、最初見せたうちの1つのクモの写真を連続して見せる治療セッションを行って、恐怖記憶が再構成されるのを阻害している。この記憶の誘発から治療セッションまでの10分と6時間の違いは、恐怖記憶が再構成されたかどうかの違いで、10分では記憶と恐怖の回路が完全に固まりきっていないが、6時間あれば十分再構成されていると考えている。
   さて、治療セッションの次の日、4種類のクモの写真を様々な組み合わせで被験者に見せて恐怖記憶を呼び起こし、治療効果を扁桃体が興奮するかどうかMRIで調べて確かめている。結果は明白で、6時間経ってから治療セッションを受けたグループは、10分後に同じ治療セッションを受けたグループと比べ、扁桃体の興奮が高い。すなわち、恐怖記憶を呼び起こしてすぐ治療セッションを受けたグループは確かに恐怖反応が軽減している。
   ここまでならなるほどと納得するだけだが、この結果をさらに確認するため最後に行っている「接近・回避心理試験」は圧巻だ。
   このテストでは被験者に写真を見ませんかと尋ねる。恐怖記憶が除かれたとしても、わざわざクモの写真を見る物好きは多くない。しかし、3クローネ、5クローネと、写真を見るとお金がもらえるとなると話は別だ。それでも、恐怖記憶が残っていると、5クローネぐらいでわざわざ見る気にならない人も多い。
   このテストで調べると、恐怖心が除かれたと考えられる10分後に治療セッションを受けた人たちは、もらえるお金が多いとほとんど写真を見るという選択を行う。6時間後に治療セッションを受けたグループは本当は見たくないはずだが、お金の額が上がると、お金に惹かれて見る人が出てくる。私だって、害がないと思えばお金を選ぶだろう。
   面白いのはこの時の脳の反応だ。このお金のために写真を見ようと決意したタイミングで扁桃体の興奮を調べると、10分後に治療セッションを受けたグループは、お金につられてクモの写真を見ている時も扁桃体の興奮は低い。一方、6時間後に治療セッションを受け、恐怖記憶が除かれていないグループでは、お金につられて写真を見ると扁桃体が興奮する。すなわち、恐怖心を持ったまま、葛藤の末お金を選んでいることがわかる。
   心理学と脳のイメージングを組み合わせた面白い実験で、このような研究はいつ読んでも楽しい。しかし、クモの実物を見た時でも同じ結果が得られるのか、あるいは他のトラウマでも同じ方法が利用できるのか、結果に完全に納得したわけではない。
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8月31日:肺転移が起こりやすい理由(8月25日号Cell掲載論文)

2016年8月31日
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    ガンで最も恐ろしい転移は原則としてどの臓器にでも起こるし、またどの臓器に転移しやすいかは原発のガンの性質に大きく影響される。しかし、肝臓や肺はたしかに転移が起こりやすい臓器と言えるのではないだろうか。この理由は、臓器が大きく血管に富んでいるからだと単純に考えていた。
   今日紹介するアメリカ国立衛生研究所からの論文は肺転移が起こりやすいのは肺の高い酸素濃度により免疫反応が抑えられるのも一つの要因であることを示す論文で8月25日号のCellに掲載された。タイトルは「Oxygen sensing by T cells establishes an immunologically tolerant metastatic niche (酸素を感知するT細胞によって免疫的に転移に対して寛容なニッチが形成される)」だ。
  この研究は最も高い酸素濃度に晒される肺で免疫反応はどうなっているのか調べるところからスタートしている。これまでの研究でプロリル・ハイドロオキシダーゼ(PHD)がT細胞の酸素センサーになっていると考えられていたが、3種類もの分子が存在し、互いに補い合うので研究が難しかった。この研究では3種類の分子が全て欠損するマウスを作成して酸素センサーの機能を調べ、炎症や細胞障害に関わるエフェクター機能が高まる一方、それを抑制する制御T細胞が低下することを見出す。すなわち、酸素を感知するPHDシステムは炎症を抑え、免疫反応を抑える方向にT細胞を分化させることがわかった。
   次になぜこのような肺特異的な反応の仕方があるのか探るために、抗原刺激実験を行い、もともと様々な外来抗原に晒される肺で免疫のバランスを整えることで、炎症を抑える役割があることを示している。
   また、この抑制優位の分化を誘導するメカニズムを探り、PDHがFoxp3やTbetなどのT細胞分化プログラムを直接変化させることで抑制優位の反応を実現していること、そしてこのプログラムの変化は酸素センサーとしてのHIF1αだけでなく、PHDが関わる糖代謝を介して起こることを明らかにしている。
   以上の結果は、このPHDによる抑制を外せば肺への転移を抑えることができる可能性を示唆している。これを確かめるために、メラノーマの肺転移実験系を使ってPHDの影響を調べると、PHD欠損により元のガンの大きさは影響されない一方肺転移が強く抑制できることを示している。タイトルにあるように、もともとは抗炎症システムとして出来上がった肺の酸素感知システムが、ガンの転移がしやすい環境を作っていることになる。
   この結果は、PHD抑制により肺転移が抑制できる可能性を示すが、問題は他の原因の炎症も高まることだ。    この問題への一つの回答として、ガンに特異的な抗原受容体を持ったT細胞を試験管内でHIF分解阻害剤のDMOGと培養してから移植することで転移を抑制し生存期間を伸ばせることを示している。
   免疫には数多くのチェックポイントがあり、2重3重に免疫の暴走を止める仕組みがあることがわかる。したがって、免疫全体でこのメカニズムを外すと取り返しがつかないことになる心配があるが、利用が進み始めているガン抗原に対するキメラT細胞受容体を持った細胞療法(CART)での治療には重要なヒントとなる気がする。期待したい。
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8月30日:新しいRAS阻害戦略(8月24日号Nature掲載論文)

2016年8月30日
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    このホームページで何度も強調してきたが、RAS突然変異を阻害できると30%近くのガンの進行を一時的にでも止めることができる。ただ、RASは直接的阻害剤を設計しにくい構造になっていて、利用できる阻害剤は現在もできていない。代わりに、RASの下流で活性化する分子を標的にした阻害剤が開発されてきた。この中で最も成功したのが京都府立医大の酒井さんとJT医薬総合研究所が開発し、GSKに導出したトラメチニブだろう。しかし、トラメチニブ阻害はフィードバックを介して上流でのRAS-RAFの活性を高め、さらにKSRと呼ばれる分子を介するバイパスを活性化してシグナルを伝えるため、RAFの突然変異を持つメラノーマには効いても、RASの突然変異を持つガンには効果がなかった。
   今日紹介するマウントサイナイ医科大学からの論文は、このバイパスでRAFとMEKの活性を制御するKSRを標的とした科学化合物の開発についての話で8月24日号のNatureに掲載された。タイトルは「Small molecule stabilization of the KSR inactive state antagonizes oncogenic Ras signaling(KSRの不活性状態を維持する化合物はRASの発がん性を抑制する)」だ。
   この研究ではまずRAS活性を抑制する分子を探索したショウジョウバエと線虫の遺伝子探索の結果を再検討し、KSR分子のATP結合部分の突然変異がRAS変異を抑制できることを見出し、この部位を阻害する化合物を176種類のキナーゼ阻害剤の中から選び出し、分子の構造解析をもとにより特異的な阻害剤APS-2-79を開発している。
   後は、KSRと RAF,MEK分子の構造解析と阻害実験を繰り返し、RASからMEKを介するシグナルを阻害することを確認している。
   もちろんKSRを介さないRASシグナル経路が存在するため、この薬剤単独でのRAS阻害活性は低く、細胞増殖抑制効果はないが、RAFに変異がない系でトラメチニブなどのMEK阻害剤と共同すると強い細胞抑制効果を示すことがわかった。
以前紹介したように(http://aasj.jp/news/watch/5606)私が最近目にしただけでもRigosetibやPonatinibのようにトラメチニブと協調する薬剤が明らかになってきており、この論文でまた一つ新しい化合物の可能性が見えてきた。我が国発の薬剤が早くRAS変異制御に使われることを本当に期待している。
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8月29日:生まれつきの愛煙家 (Cancer Research オンライン版掲載論文)

2016年8月29日
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   肺がんとタバコについては因果関係が明らかで、遺伝子より環境要因や生活習慣によるガンだとどうしても考えてしまう。しかしよく考えてみると、タバコ好きがニコチン中毒だとすると、タバコ好きとタバコ嫌いはいるはずで、この遺伝的背景により、肺がんにかかりやすい人と、かかりにくい人が別れるはずだ。たしかに従来の研究でニコチンに対する受容体遺伝子の変異により、タバコをどうしても多く吸ってしまい、その結果肺がんになる確率が高くなることが知られていた。
   今日紹介するハワイ大学からの論文は同じ問題をニコチンに対する感受性ではなく、ニコチンの代謝に関わる遺伝子に焦点を当てて調べた研究でCancer Research オンライン版に掲載された。タイトルは「Novel association of genetic markers affecting CYP2A6 activity and lung cancer risk (CYP2A6の活性に影響する遺伝マーカーと肺がんリスクの新しい関連の発見)」だ。
   この研究の目的は、ニコチンの70%の代謝に関わる分子CYP2A6の活性に関わる遺伝子変異と肺がんの発生リスクの相関を調べることだ。
    幸いハワイは、ハワイ原住民、白人、ラテン系、日系と様々な民族が混在しているため、民族とCYP2A6活性についての研究もできる。この点でまず面白いのは、ハワイに暮らす民族の中では日系人がニコチン代謝活性が最も低いことだ。すなわち、日系は少ないニコチンで満足できることになる。
   次にCYP2A6活性と相関する遺伝子を調べると248SNPが発見されるが、3つを除いてCYP2A6遺伝子の近くには存在しない。すなわち、CYP2A6が極めて複雑な発現調節を受けていることがわかる。この中で最も強い相関を示したSNPは日系での活性の3%,ラテン系の28%を説明できる。是非遺伝子検査サービスに加えて欲しい。
   次にリストしたSNPと肺がんのリスクを調べると、CYP2A6活性を上昇させるSNPは肺がんのリスクも高まることがわかった。肺がんのリスクと最も相関するSNPはCYP2A6活性と最も相関するSNPとは違うが、概ねCYP2A6活性と肺がんリスクは強く相関していることが明らかになっている。
   重要なのは、CYP2A6活性と相関するSNPを持っていてもタバコを吸わない場合、肺がんリスクが全く変化しないことで、愛煙家だけにCYP2A6活性が効果を持つことがわかる。
   以上の結果をこれまでの研究と合わせると、ニコチンに対する感受性と、ニコチン代謝に関わるSNPは、タバコの本数に影響を与え、結果として肺がんリスクを高めることがわかる。CYP2A6活性が高い人が肺がんリスクが高いということは、ニコチンが代謝が早いと喫煙効果が早くなくなるため、より多くのタバコを吸うことを意味する。要するに、愛煙家に生まれついた人がいるが、タバコに最初から近づかなければ、愛煙家になる運命は避けられるということだ。
   是非、このSNPを遺伝子検査サービスに加えて欲しいと思う。これは間違いなく遺伝子検査により生活習慣を変えるという図式を理解してもらうためのいい例になる。
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8月28日:不安の回路(8月24日号Nature掲載論文)

2016年8月28日
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    セロトニンが私たちの感情を調節している最も重要な神経伝達因子であることがわかっている。事実、これまでの神経科学的研究を基礎に、セロトニン再取り込み阻害剤(SSRI)がうつ病の治療に用いられ、その効果も十分検証されている。ただ、この治療の問題は薬剤を服用し始めた時、不安症状を逆に悪化させることで、抗うつ効果はこの段階を乗り越えて初めて現れる。従って、飲み始めに自殺などの重大な問題が起こる。当然この問題の解決はSSRI治療の最重要課題だ。以前、この問題を説明する一つの可能性として、セロトニン分泌細胞が再取り込み抑制によりグルタミン刺激優位の状態を引き起こしより深刻なうつを引き起こすという論文を紹介した(http://aasj.jp/news/watch/2657)。
   今日紹介するノースカロライナ大学からの論文は同じ問題を、神経回路の問題として検討し直し、SSRI治療の問題点解決を図った論文で8月24日号のNatureに掲載された。タイトルは「Serotonin engages an anxiety and fear-promoting circuit in the extended amygdala (セロトニンは拡大扁桃体領域の不安と恐怖を促進する回路に関わっている)」だ。
   結果はこのタイトル一行で表現できている。すなわちセロトニン分泌神経につながる回路を詳しく調べることで、セロトニン分泌神経が不安を拡大する回路を特定し、それがSSRI治療初期の不安増大に関わることがこの研究で明らかになった。
   ただ、このことを証明するために行われた実験は壮観で、何種類もの遺伝子操作マウスを用いて、神経回路を一つ一つ特定し、またそれぞれの神経興奮の効果と相関させている。
   この研究をまとめると、足への電気刺激による不安誘導実験で、SSRIの標的と考えられている背側Raphe核から分泌されるセロトニンが、分界条床核と呼ばれる部位の副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン(CRF)分泌神経を刺激し、そこでGABA作動性回路を介して腹側被蓋野へ投射する神経を刺激することで、不安の増大に起こることを明らかにしている。すなわち、Raphe核からのセロトニン神経が結合している神経の種類が違うことで、セロトニン分泌神経が感情に対して異なる効果を示すことを示唆している。この結果は、私が以前紹介した同じ神経がグルタミン酸も分泌することで不安を増大させるという仮説を完全に否定している。今後、議論が続くだろう。
   いずれにせよ、この仮説を確かめるためにSSRI投与時にこの回路を遺伝子操作的により切断して、この回路がSSRI投与による不安増大に関わることを示している。今後、薬剤でこの回路を抑制することが可能になれば、SSRI治療はより安全で効果の高い治療になるだろうという報告だ。
   光遺伝学が生まれた当初の論文を読むといつも感心した。しかしこの方法が普及した今このような論文を読んでいると、ノックアウトを組み合わせることによる変化を、FACSで微細なレベルまで検出して免疫ネットワークを解明した免疫学と同じ方向に、神経研究が突入していることを感じる。これまでできなかったことがどんどん可能になるという喜びとともに、研究が金のかかる大掛かりで、アカデミックになっていくことも確かだ。こんな時こそ、このような手法の全く使えない人間ではどうかを問い続けることから、新しい発想が生まれるのかもしれない。
カテゴリ:論文ウォッチ
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