1年半近く論文ウォッチを書いていると、自分の勉強になったと思える論文ほど、一般の人には理解しにくいことがよくわかる。「専門知識をコモンズに」というゴールは確かに遠い。ただこのギャップを感じないと、役に立つだけが一人歩きして科学コミュニケーションなど掛け声だけで終わるだろう。今日紹介するエール大学から2月12日号のCellに発表された論文はこのギャップを感じる典型的研究と言える。タイトルは「EBV noncoding RNA binds nascent RNA to drive host Pax5 to viral DNA(EVウィルスの非翻訳RNAは出来たばかりのRNAに結合してホスト細胞のPax5をウィルスDNAへと導く)」だ。タイトルを聞いてもほとんどの人にはちんぷんかんぷんだろう。まずEBウィルスだが、ヘルペスウィルスと同じファミリーに属し、幼児期に感染する。ほとんどは気がつかずに終わるが、人によっては発熱など急性症状を起こすこともある。成人期に感染すると激しい症状をきたすので、伝染性単核症と特に区別している。問題は、治ってもウィルスが潜伏し、機会があると活性化することだ。この活性化に、ホストとなるB細胞のPax5分子が重要な働きをしていることがこれまでわかっていた。即ち、Pax5が消失するとウィルスの活性が急速に上昇するため、Pax5がウィルスの再活性化を抑えているのではと考えられている。この研究は、このPax5の作用を助けるのが、ウィルス遺伝子の持つ、非翻訳RNAの一つEBER2であること、及びその分子過程を明らかにした研究だ。私自身、B細胞研究をテーマにしていた時期もあったので、このウィルスにはずっと興味を持っていたが、この論文を読んで研究の進展を実感した。この研究の目的はEBER2の機能を明らかにすることだ。もちろん誰もが考える遺伝子を欠損させる効果などは全てやり尽くされているが、肝心のメカニズムはわかっていなかった。この研究ではまずEBER2がゲノム上のどこに結合しているかを調べるために、EBER2の配列の中からフリーの一本鎖部分のなかから2箇所選び出し、ゲノム上でこの部分と結合するDNAの配列を次世代シークエンサーで調べ、潜在しているウィルスゲノムの端に存在する繰り返し配列(TR)に結合することを見つけた。このTRはすでに、ホスト細胞のPax5が結合する場所であることがわかっている。またEBER2の転写を抑制すると、Pax5をノックアウトするのと同じ効果があることもわかっていた。この研究によってこれまでの結果が統合され、EBER2とPax5は共同してTRに結合し、ウィルスゲノムの転写を調節することがわかった。この発見を手掛かりに、この論文で示されたシナリオは次のようになる。EBER2はビールスゲノムから転写されている幾つかのウィルスRNAと結合することで、Pax5をウィルスゲノムのTR配列へと連れてくる。EBER2と新しく転写されているRNAの働きがないと、Pax5だけではウィルスゲノムにリクルートできない。メカニズムはずいぶん違うが、クリスパー系のガイドRNAに似ていると言っていいかもしれない。こうしてリクルートされたPax5はウィルスの再活性化に関わるLIMP2などの遺伝子の転写を抑制するので、潜在ウィルスが活性化しないよう調節していることになる。この抑制経路がなんらかのきっかけで破られれば、ウィルスは再活性化され、多量のウィルス粒子が作られ、ホスト細胞は死に、ウィルス粒子が放出される。しかしこのシナリオから考えると、ウィルス自らが潜在化するために活性化を抑える仕組みを持っていることになる。即ちホスト細胞が死なないように共同している。しかし、ウィルスが増殖するためには活性化が必要だ。この共存と競合の相矛盾する要求をうまくやりくりして、EBウィルスは今も元気に私たちの中で生きている。同じメカニズムは、他の種に感染するこのファミリーのウィルスで保存されているようで、ウィルスが恒常的にホストに取り付いて維持されるためには必須の戦略のようだ。B細胞研究にとってPax5分子は最も重要な転写因子だが、このウィルスのおかげでPax5について新しい視点から調べることができるはずだ。一般の人とのギャップは埋まらなかったが、若い血液の研究者には是非ゆっくり読んで欲しいと思う。
2月14日:ウィルスとホスト:共存or競合(2月12日号Cell掲載論文)
2月13日:Hedonometer(気分計)(アメリカアカデミー紀要オンライン版掲載論文)
この論文を読むまで知らなかったが、Hedonometerという面白い言葉があるようだ。世界中に満ち溢れる言葉のビッグデータを分析して、世界全体の気分、すなわち幸福か憂鬱かを図るという意味に近い(と私は受け取っている)。ただ使用された言葉からHedonometerを作るとすると言葉の持つ気分の分析が必須だ。今日紹介するバーモント大学からの論文は、このための精密な分析ツール開発を行うと同時に、言葉が使われる社会の傾向を調べようとした研究で米国アカデミー紀要に掲載された。タイトルは「Human language reveals a universal positivity bias(言語から人間が普遍的に持つ陽性的傾向がわかる)」だ。まずこの研究が取り組んだのは、グーグルBook Projectや、Web Crowl, ツイッター、映画やテレビの字幕、新聞などから10の言語の中から10万語を抜き出し、それぞれの単語を50人の人に1−9段階(悲しい、憂鬱から幸福まで)に分類してもらっている。トータルで24の異なるコレクションについて単語の気分を調べているので、全体でおそらく1千万近いデータを集めたことになる。次に各コレクションに集まった単語の気分値の分布を比べている。どの言葉のコレクションでも、陽の気分を持つ単語の方が、陰の気分を持つ単語より多い。詳しく紹介するのは難しいが、各コレクションの平均値と分布を眺めているだけで面白く、妙に納得する。例えばツイッターから抽出した単語のコレクションで見ると、スペイン語やポルトガル語のツイッター陽性度は群を抜いている。一方、同じラテン語系でもフランスのツイッターでの気分度はドイツ語や英語とほとんど同じだ。一方、アジア代表で提示されているインドネシア、韓国のツイッターになると陽の気分は少し低下する。さらに両国で比べると韓国の方が陰だ。妙に納得できないだろうか?次に各言語を比べて、気分度に言語間の差はあまりないこと、また単語の気分度は使われる頻度とは無関係であることを確認している。これにより、Hedonometerのための基礎データが各言語で揃ったことになる。最後に、新しく構築された英語、ロシア語、フランス語のHedonometerで「白鯨」「罪と罰」「モンテクリスト伯爵」の3冊の小説を分析している。もちろん小説になると単語自体に複雑なニュアンスがあり様々な問題があるようだが、それでもモンテクリスト伯では小説が幸福な気分で終わる一方、白鯨や罪と罰では憂鬱な気分で終わることがよくわかる。これらの結果から、著者らは、各単語を取り出して気分度を測定した結果が、程度の差はあっても全ての言語で陽への傾向が見られたことは、人類の社会性自体の傾向を反映していると結論している。そして、さらに多くの言語でこのHedonometerを作成し、私たちの社会全体を分析したいと述べて論文を締めくくっている。読後、まず日本語のHedonometerを早く作って欲しいと思った。例えば国会の答弁、やじ、そして特定のテーマについてのツイッターやフェースブック、材料は山ほどある。そこから見える日本社会はどんなだろう。早く見てみたい。
2月12日:分子標的薬剤耐性白血病に効く薬剤を探す(Natureオンライン版掲載論文)
慢性骨髄性白血病のほとんど、および成人のリンパ芽球性白血病の3−5割は9番と22番染色体が部分交換する染色体転座により形成される、Bcr遺伝子とAbl遺伝子の融合が引き金になっている。私が医師になった頃は、いずれも不治の病気だったが、骨髄移植の登場で治る病気に変わった。そして2000年、白血病の原因である融合遺伝子を標的にしたイマチニブ(グリベック)の登場で、薬剤服用を続けるだけで制御できる病気に変わった。この意味でイマチニブは、21世紀の新しい癌治療の幕開けを告げる象徴的薬剤と言える。とはいえ長く経過を観察すると、イマチニブで抑えている白血病細胞の中に、薬剤耐性を獲得した細胞が生まれることがわかってきた。その多くは、315番目のチロシンがイソロイシンに変化した突然変異で、この新しい変異を抑える薬剤の開発が待たれていた。今日紹介するヘルシンキ大学とファイザー製薬からの論文は、現在腎臓がんで血管新生抑制のために使われているアキシチニブが、イマチニブ耐性の白血病に聞くことを示した論文で、Natureオンライン版に掲載された。タイトルは「Axitinib effectively inhibits BVR-ABL1(T315I) with a distinct binding conformation(アキシチニブはT315I変異を持つBCR-ABLと独特の結合構造を形成し機能を抑制する)」だ。これまで、T315I変異がおこってイマチニブ耐性が獲得されると、使える薬剤としてポナチニブしか存在しなかった。ただ、ポナチニブはほとんどのキナーゼに作用するため、副作用が強い。このグループは、より特異的なキナーゼ阻害剤を求めて、様々なキナーゼ阻害剤をテストして、ファイザーから血管新生抑制剤として発売されているアキシチニブがT315I型のAbl分子を抑制することを突き止めた。はっきり言って結果はこれだけで、あとは分子の構造解析に基づき、アキシチニブが活性型の分子構造に変化したAblに強く結合することを示した構造解析、他のキナーゼに対する特異性解析(アキシチニブは正常Ablの抑制活性は低い)、実際の白血病細胞を用いた抑制試験などを行っている。最後に、一人のイマチニブ体制になった患者さんに2週間この薬剤を投与することで、白血病細胞をかなり消失させられることを示している。特に新しい薬剤を開発したわけでもなく、研究論文としてはNature レベルかどうか少し疑問だ。しかし、患者さんにとっては効果が確かめられた、しかも明日からでも使える薬剤が見つかったことは大きな朗報だろう。もちろん、この薬剤を手始めに、より効果の高い副作用のない薬剤を開発する可能性も生まれた。期待したい。
2月11日:メトフォルミンの作用機序(米国アカデミー紀要オンライン版掲載論文)
年頭、連携先のメドエッジのホームページに、ガンが免疫機能によって撲滅できる日が近づいているのではと夢を語った。これは昨年発表されたCAR (chimeric antibody receptor)技術と、PD1, PDL1, CTLA4などのガンに対する免疫反応を弱める機構を遮断する抗体治療に関する論文の結果が極めて印象的で、期待を与えてくれたからだ。ただ正直に言うと、抗体治療についてはどうしても他の懸念が頭をよぎる。コストだ。多くのガンに効くことが明らかになった場合、一回数十万円する抗体を長期間打ち続けることが経済的に可能か、なかなか難しい問題だと感じていた。もちろん、CTLA4は複雑だが、PD1の下流にあるシグナルはフォスファターゼSHP2であることがわかっており、安価な化合物で置き換わる可能性はある。しかしフォスファターゼの場合、ガンの増殖キナーゼを活性化してしまわないかなどと考えていたところ、長崎大の知り合いから新しい考えの論文を紹介された。岡山大鵜殿さんたちの研究で、米国アカデミー紀要オンライン版に掲載された。タイトルは「Immune-mediated antitumor effect by type 2 diabetes drug, metformin(2型糖尿病薬メトフォルミンによるガン免疫)」だ。メトフォルミンはビグアニド系の抗糖尿病薬で、スルフォニルウレア系薬剤とともに私が学生の時から存在している歴史のある薬剤だ。最近になって、その抗がん作用が疫学的研究から明らかにされ、急に注目されだした。昨日もメドエッジではカイザーパーマネンテからのメトフェルミンの予防効果に関する論文を紹介していた。ただ、効果の背景については、IGF抑制などの説はあるが、はっきりしていなかった。今回、鵜殿さんたちはモデル動物を使って、メトフォルミンの作用の一つが、ガン障害性T細胞の活性を増強することにあることを見出した。研究では、まずメトフォルミンの抗がん作用がガンの周りに浸潤するCD8T細胞の活性増強を介していることを発見し、次にこのキラー活性増強のメカニズムが、T細胞がPD1を始めとする様々な抑制シグナルのせいで細胞死に陥るのを阻害することによることを示している。他にも、この効果により、PD1陰性の様々なサイトカインを同時に出せるT細胞がガン局所で増加することや、シグナルにAMPKからmTORを介して伝わっていることなどを調べているが、やはり最も重要なのはメトフォルミンがガン局所のキラーT細胞を維持する効果があるという発見だろう。これはモデル実験での話だが、すでに広く使用されているこの薬剤をテストすることは簡単だ。実際コストで言えばメトフォルミンは抗体治療の対極にある。おそらく一ヶ月の薬代は自分で全て払っても数千円までだろう。一方、抗PD1抗体は一本が70万円を越していると思う。もちろんこの論文でヒトのガンへのメトフォルミンの効果を結論できない。ただ、作用機序は違っても、標的になる過程はキラーT細胞の活性増強と同じだ。是非患者の立場に立って、多くの医療機関が自主的に、抗体との比較試験や併用試験を進めて欲しいと思う。残念ながら、岡山大学ではプレス発表していないようで、とするとメディアの目にも止まらない。我が国の仕事はわざわざ紹介することもないと、あまり取り上げなかったが、今回は紹介できてよかった。
2月10日:最も恐ろしい腫瘍(Nature Geneticsオンライン版掲載論文)
1月4日にここで紹介した「がんの危険性は分裂回数で決まる」と言ってのけたVogelsteinたちの論文は(ガン発生リスクの組織差:思い切った仮説を元に考えてみる)、あまりにも単純化していると真面目な先生方の批判の的になっているようだ。ただ、2月4日に紹介したように(岡崎フラグメントと遺伝子変異)、複製の度に、不正確なポリメラーゼαで複製した部分が残るなら、当然分裂が一番の危険因子になることは間違いない。即ち分裂というより、不可避な複製時のエラーがガンの一番の原因になるわけだ。今日紹介するカナダ・トロントの小児病院からの論文は複製時のエラーを修復する分子に突然変異が起こった患者さんのガンのゲノムを調べることで、複製時のエラーがいかに重大な問題かを示した研究で、Nature Geneticsオンライン版に掲載された。タイトルは「Combined hereditary and somatic mutations of replication error repair genes result in rapid onset of ultra-hypermutated cancers (エラー修復遺伝子の遺伝性と体細胞突然変異が組み合わさると超変異ガンが急速に発生する)」だ。一つだけ予習が必要なのは、ミスマッチ修復という概念だ。2月4日に紹介したように、DNAポリメラーゼε、δによる複製はかなり正確だが、それでも間違うことがある。間違うと鋳型に存在する塩基と相補性のない塩基がもう一方のDNA鎖に来てしまう。これがミスマッチで、普通はこのようなミスマッチは、それを見つけて正しい塩基に替える酵素で修復される。これがミスマッチ修復だ。この酵素が両方の染色体で欠損すると複製時のエラーが増加すると予想できる。しかし、このような患者さんから例えばポリープをとってきてゲノムを調べても突然変異が極端に増えていることはない。これは、ミスマッチ修復を何重にも保証するメカニズムが備わっているからだ。ところが、このような突然変異を持つ患者さんの中に、極めて悪性の腫瘍が発生してくることがある。この研究では、このような脳腫瘍17例のゲノムを調べ、突然変異の数を比べたところ、驚くべきことに10例で、1Mbに平均250の突然変異という、膨大な数の変異が見つかった。あまり変異のない残りの例と比べると、超突然変異型腫瘍の全てでDNA複製に関わるポリメラーゼεかδの突然変異が、ミスマッチ修復の遺伝的変異に組み合わさっていることを発見した。生化学的な研究から、この突然変異により複製のエラー率が10倍以上に跳ね上がることが明らかになった。経時的に組織が得られた患者さんで調べてみると、ポリメラーゼの突然変異が起こった途端にガンが悪性化し、突然変異の数が跳ね上がることがわかった。実際この患者さんでは、ポリメラーゼに突然変異が起こると、72354箇所で新しい突然変異が新たに蓄積している。実に一回分裂で608個の突然変異が起こる凄まじさだ。これまで、細胞の増殖や細胞の生存に関わる遺伝子を発がんに重要な遺伝子として紹介してきたが、これを見ると複製メカニズムの異常が本当は最も恐ろしいことがわかる。患者さんを見ていると、ある時急速にガンが増大するという経験をすることがある。今振り返ると、そんな時は複製メカニズムに破綻が生じていたのかもしれない。最も恐ろしいがんを理解すると、心は重い。
2月9日:福島原発からカナダへ(米国アカデミー紀要掲載論文)
2011年3月11日の福島第一原発事故では1−3京のセシウムが大気や海洋に放出された。それまで唯一の原爆被爆国で、第五福竜丸など核実験でも被害者であり続けた日本が、核については加害者に変わった瞬間だった。この転換が意識にあるせいか、私自身も雑誌を見ていてFukushimaがタイトルにあると気になる。ただ、加害者/被害者といった政治的な問題を離れて、実際には福島原発の未曾有の事故は様々な角度から科学的に追跡されている。今日紹介するカナダのベッドフォード海洋研究所からの論文は、福島からのセシウムが海流に乗ってカナダに到達する過程を調べた論文で米国アカデミー紀要オンライン版に掲載された。タイトルは「Arrival of the Fukushima radioactivity plume in North American continental waters (福島の放射性汚染物が北アメリカ大陸の水域に到達した)」だ。研究は単純だ。福島第一原発の事故後すぐに、海流によって福島からカナダへと運ばれてくる放射性汚染物の影響を調べるプロジェクトを立ち上げ、カナダのバンクーバー島沿岸から1500km沖まで、26箇所の水質汚染検査ステーションを設置し、水を汚染しているセシウム量を図ったというだけの研究だ。各ステーションでは水面から100mづつ水深1000mまで測定している。この測定ラインは、カナダ沖を北上する日本からの海流を横断するように設計されている。それぞれの測定ステーションで測定されているセシウム134とセシウム137だが、134の方は半減期が2年と短く、また原子炉でしか生まれないので、これが検出されると確実に福島からの汚染物質であると特定できる。一方、137の方は半減期が30年と長く、これまでの核実験などで生まれた汚染物質の影響が残っている。実際1960年代には我が国の海水には現在の10倍に当たる10−20ベクレル立米のセシウム137が含まれていたようだ。大気圏核実験が中止されたおかげで、現在では1.5ベクレル立米にとどまっている。福島第一原発からは両方のセシウムがほぼ1:1の比で出たので、セシウム134を正確に計れると、福島からのセシウム137を特定することが可能になる。さてカナダ沖への到達だが、2012年からセシウム134の上昇が観察されるようになり、2014年には2ベクレル立米に達している。今回の研究で、この汚染は水深100mまでであることもはっきりした。幸いなことに、海流の北への流れが強いため、沿岸部の汚染は1500km沖と比べると低い。今後も沿岸部では上昇が続くと思われるが、これまで観察されたデータはRossiという研究者の予測値に近い。したがって計算上、半減期の長いセシウム137も2015年にピークを迎えてあとは低下すると予想できるようだ。さらに、ピークレベルも大気圏核実験が行われていた当時の10%程度にとどまるという結果だ。論文でもはっきりと人体への影響は少ないだろうと結論している。結果はこれだけだが、加害国としては胸をなでおろすことのできる論文だった。
2月8日:言語と発語運動能力(米国アカデミー紀要掲載論文)
8月に初めてクロアチアに行ったが、母音の多い日本語を話す私たちには発音しにくい地名が多かった。もともとクロアチアも、Hrvatska共和国だし、大観光地Dubrovnikを発音する時はいつも口ごもった。一つの単語に子音しかないともっと困る。私の知り合いのシンガポール人の研究者にHuk Hui Ngがいるが、これまでファーストネームのHukとしか呼んだことはない。Ngをどう発音していいかわからないからだ。今日紹介するボストン・ノースイースタン大学の論文は、誰もが感じる子音が続く単語の発音の難しさが、単語の認識に唇のシミュレーションが必要であることに起因する身体的問題なのか、言葉そのものが持つ抽象的な問題なのかを調べた研究で、米国アカデミー紀要オンライン版に掲載された。タイトルは「Role of the motor system in language knowledge(言語知識における運動システムの役割)」だ。言語のように人間特有の高次脳機能は、まずどんな現象にも疑問を感じ、それに対する実験を構想することが科学の「いろは」であることがわかる。研究で扱われたのは、同じ文字が使われていても、並ぶ順序で認識しやすさが異なるのはなぜかという問題だ。具体例がないとわかりにくいだろう。例えばblogは今や皆が使う単語だが、lbogという単語は今も存在しない。これを説明する最も有力仮説として「言語認識時に私たちは頭の中で口に出すというシミュレーションをしており、この結果発音しにくい単語が自然と除外される」という説が存在した。これを確かめるべく、このグループはblif>bnif>bdif>lbifの4単語(これは全て1音節単語)を聞かせて、音節数を判断させた時の正解率を調べている。例えば私のような日本人は、lbifはどうしてもlu-bi-fuと2音節で発音してしまう。間違う確率は直感と同じでlbif, bdif, bnif, blifの順だ。実験はここからで、音を聞かせて判断する前に、唇を動かす脳領域に電磁波をあてて運動を阻害する。もちろん、これによって発語が抑制されることも確認している。そして、電磁波により発語運動システムを阻害することで正解率が低下するかどうかを調べている。全く予想に反して、電磁波が影響するのは認識しやすいblifを聞いた時で、lbifについての判断には影響がない。次に、聞き取りやすいmlifについて、さらに聞き取りやすい2音節のmelifから順にeの音を人工的に音節を消していって1音節のmlifに至る6段階の中間的音節を聞かせて調べると、電磁波の影響はやはり1音節に近いほど強く見られる。最後に、blifからlbifまでの音を聞かせて唇を動かす脳領域の活性を調べると、期待通り聞き取りやすい単語の方が唇運動領域の活性化と関係しているという結果だ。これまでの通説には一石を投じているが、ではなぜこのような階層性が生まれるかについての明快な答えはまだ出ていない。はっきりしたのは、分かりにくい単語だからといって音に出そうとするシミュレーションはしていないようだ。しかし、普通に聞いている一音節単語は、聞いた時にすでに唇を動かそうとしているらしい。いろいろ議論はしているが、私から見ると目からウロコというわけにはいかないようだ。言語の異なる対象者で調べるべきだろう。今回の対象である英国人は、寒いところで口を開かず唇音を多用することに慣れている。日本人で調べてみたい。しかし、当たり前と思っていることを疑問に思って、実験を構想し、なんとかそれを実現できる時代が来たことは確かだ。言語解明に向け「若者よ大志を抱け」。
2月7日:WHIM症候群(Cellオンライン版掲載論文)
現役時の仕事の関係で、異常の原因になる分子CXCR4については普通の血液学者よりは熟知しているのに、この遺伝子が突然変異を起こして起こる病気WHIM症候群が存在することは全く知らなかった。今日紹介する米国NIHからの論文は、経過観察中に病気が自然に治ったWHIM症候群の患者さんが治ったメカニズムを解析した臨床研究で、Cellオンライン版に掲載された。タイトルは「Chromothriptic cure of WHIM syndrome(クロモスリプシスによるWHIM症候群の治癒)」だ。まずWHIM症候群から説明しよう。WHIMとはその主症状、Wart, hypogammaglobulinemia, infections and myelokathesis(いぼ、低ガンマグロブリン血症、感染症、骨髄性白血球貯留)の頭文字をとって名前がつけられた病気で、調べてみると、2003年、CXCR4遺伝子の優勢突然変異によってWHIM症候群が起こっていることが報告されていたようだ。当時は私の研究室でもまだCXCR4について研究を続けていた時で、全くこの論文に気づいていなかったのは恥じ入る。CXCR4は京大の長澤さんが初めて見つけたケモカイン受容体で、長澤さんによってこの分子が骨髄の血液幹細胞やB前駆細胞の増殖、移動を調節する分子であることが示された。WHIM症候群で血液細胞が骨髄に貯留するのは、CXCR4の活性が強くなり、血液が骨髄から移動しにくくなるためで、長澤さんの研究結果を裏付けている。次にクロモスプリシスだが、突然起こる染色体の大きな崩壊と再構成で、試験官内で増殖するガン細胞で初めて観察されたが、全ゲノムレベルの解析が行われるようになり、これによる様々な病気が報告されるようになっている。さて予習はこのぐらいにして研究を見てみよう。この研究は、すでに様々な雑誌に報告され、生まれた2人の娘さんも同じようにWHIM症候群にかかっている遺伝性のWHIM症候群の女性の症状が、35歳ぐらいから自然に改善し始め、50歳ぐらいからほぼ完治したという観察から始まっている。20代には何度も感染を起こして入院を繰り返し、身体中にパピローマビールスによるイボが出ていた患者さんが、30を越した頃から全く感染を起こさなくなり、その後全く病院の世話にならなくなった。宗教なら奇跡と大騒ぎするのだろう。しかし、この患者さんについては科学的に自然治癒のメカニズムについて様々な可能性を追求した結果、患者さんの血液が、リンパ球は異常だが、他の系列が正常化した一種の正常細胞と異常細胞のキメラ状態になっていることが分かった。さらに正常化した白血球ではCXCR4遺伝子突然変異が消えており、この遺伝子が存在する第2染色体が短くなっていることを発見した。即ち、大きな染色体変異により突然変異型のCXCR4遺伝子を失った細胞が出現し、この細胞が異常血液幹細胞を徐々に置き換えた結果、白血球の骨髄貯留などの症状が治ったことが明らかになった。この大きな染色体変異の原因をゲノム解析で調べた結果、第2染色体がいわゆるクロモスプリシスにより崩壊、再構成を経たことでCXCR4を含む多くの遺伝子が失われ、この結果クロモスプリシスを起こした血液幹細胞が骨髄では優勢になり、一見病気が治った状態に至ったことを示している。著者らは、CXCR4遺伝子の量が半分になる方が、骨髄に居座って血液を造る能力が高いのではと仮説を立て、マウスを用いてそれを証明している。すなわち、患者さんで突然変異遺伝子が失われるとともに、CXCR4の量が半分になり、骨髄に居座る力が高まった結果、突然変異細胞が骨髄から駆逐され、治癒が起こったと考えられる。したがって、他の患者さんの骨髄細胞の突然変異を例えばクリスパーを用いた遺伝子操作で除去すれば、患者さんを完治できる可能性が生まれた。一方、今回報告された患者さんではクロモスプリシスの結果、様々な遺伝子が同時に失われリンパ球が作れない。これほど大きな変化が起こると、今後ガンなど他の問題が生まれる心配もある。今後の経過観察からさらに面白い話が聞ける可能性がある。リンパ組織形成に関わるこの分子の役割を研究してきた経験から言うと、この論文の解析はまだ不十分だ。リンパ球の状態を見ると、他の検査もしっかりやれば、この分子のさらなる重要性が明らかになるような気がする。不謹慎だが、人間の病気の奥の深さを思い知る論文だった。
2月6日:ボケない脳の秘密(1月28日号The Journal of Neuroscience誌掲載論文)
私の年になると、誰でもボケないで長く生きたいと望む。実際、認知症は高齢化日本の最重要課題で、研究にも多くの助成が行われている。ただ、これまで目にする研究は、アルツハイマー病を始めとする認知症、即ちボケた人を研究して、ボケの原因を探るものだった。今日紹介するシカゴ・ノースウェスタン大学からの論文は、この逆で、高齢になってもボケない人を集め追跡してボケない原因を探るコホート研究で、1月28日号のThe Journal of Neuroscienceに掲載された。タイトルは「Morphometric and histologyic substrates of cingulated integritiy in elders with exceptional memory capacity(記憶力の格段に優れた高齢者に見られる帯状束の形態的、組織学的状態)」だ。この研究では80歳以上の高齢者に認知テストを行い、成績が50−65歳までの平均より優れた人を選び出し、その方々をSuperAger(スーパーお年寄り)と名付けて追跡している。このスーパーお年寄りは、普通のお年寄りと比べて記憶力はスーパーだが、他の検査では特に変わりはない。これまでの研究で、こうして選ばれた人たちがMRI検査で皮質の萎縮が少ない、特に前帯状皮質と呼ばれる部分の厚さが中年の平均よりもまだ優っていることがわかっていた。この研究では、追跡中に様々な原因で亡くなった5人の対象者の脳の解剖、組織所見を調べて、ボケないことの秘密を探っている。経過中に亡くなった際の原因は特にコントロールと比べて変わりがないが、5人とも女性ということは、この研究はスーパーおばあちゃんについての研究になる。さて結果だが、まず予想通りアルツハイマー病で増えるプラーク及び神経繊維の絡み(Neurofibrillary tangles)は、普通の高齢者と比べると極端に低い。即ち、神経変性が起こりにくい人たちであることがわかる。一方、正常神経細胞の数を調べてみると、それほど大きな差はない。変性細胞は痴呆のある方で1ミリ平方に100個ぐらいだが、全細胞はその150倍も存在する。従って、認知症のある方でも脳細胞全体が変性するというものでないことがわかる。では正常細胞数で、スーパーおばあちゃんだけに増えている細胞はないのか?注意深く調べてついに、von Economo神経細胞が普通の高齢者よりはっきりと増えていることを突き止めた。この細胞はウィーン大学のフォン・エコノモ博士により発見された樹状突起の少ない細胞で、この論文によると、エコノモ細胞が神経変性疾患で選択的に低下していることが最近わかって注目されている細胞のようだ。結果はこれだけで、ではなぜエコノモ細胞がスーパーおばあちゃんでは元気で、エコノモ細胞が元気だと変性細胞が少ないのかは全くわからない。研究でも、動脈硬化危険因子については調べているが、血管の状態などほとんど記載されていないので、今後行われる詳しい研究が待たれる。特に、ゲノムについても明らかになるだろう。現在遺伝子検査であなたはボケないとは言ってもらえない。遺伝子検査も心配ばかりさせず、良い点も伝えられるよう工夫するのが大事だろう。いずれにせよ、私自身は記憶力テストで、最初からスーパーお年寄りには入れてもらえないと思う。
2月5日:I型糖尿病早期診断(2月3日号Journal of Clinical Investigation掲載論文)
I型糖尿病は一種の自己免疫病で、インシュリンを分泌する膵β細胞が細胞障害性の免疫反応で殺されることにより発症する。従って、病気の根本的治療は免疫反応を抑え、細胞障害を防ぐことになる。しかし、ほとんどのI型糖尿病患者さんでこの免疫過程は症状なく進み、気がついたらβ細胞が失われてしまって重度の糖尿病になっていたというのが現状だ。現在のところ、失われたβ細胞を再生する方法がないので、発症すると治療としてインシュリン補充療法か、β細胞移植しか残されていないことになる。もし免疫反応を早期に感知して、早期に免疫反応を抑えることができればI型糖尿病の多くの問題が解決する。このために必要なのは、1)リスク予測、2)自己免疫反応早期検出、3)β細胞機能モニタリングだ。リスク予測についてはゲノム研究が進んでおり、一部のタイプでは予測が可能になっている。ただ、複数の遺伝子が複雑に絡むため、まだまだ正確性に欠ける。免疫反応については、幾つかの抗原に対する自己抗体検査が行われるようになっている。特にインシュリン自己抗体は発症のかなり前から検出できることが知られている。β細胞機能については、インシュリン分泌能を直接測れるようになり、グルコース負荷後のインシュリン分泌などが早期診断に役に立つことがわかってきた。しかし、肝心のβ細胞が死んでいるかどうかを診断することは、組織を取らない限り不可能で、細胞障害を直接検出する方法の開発が急がれていた。今日紹介するエール大学からの論文は、β細胞死に直接関わる指標についての研究でJournal of Clinical Investigation2月号に掲載された。タイトルは「β cell death and dysfunction during type 1 diabetes development in at-risk individuals(ハイリスク患者さんのI型糖尿病進展に伴うβ細胞死と機能不全)」だ。このグループは1型糖尿病の早期診断に集中して研究を続けてきたようで、最近血液を流れるインシュリン遺伝子のメチル化されたものとされていないもの(非メチル化)の比がβ細胞死と相関することを実験系で見出していた。この研究では、この発見を実際の患者さんで検証するため、親戚に1型糖尿病患者さんの存在、自己抗体の存在などから、糖尿病発症の危険が高い人達を選んで、5年経過観察を行い、メチル化されていないインシュリン遺伝子を調べた研究だ。リスクが高いとして選ばれた20人のうち、10人は経過観察中に糖尿病を発症している。ただ、最初の診断では空腹時血糖、グルコース負荷試験では異常ない人達が選ばれている。詳細は省くが、結果は有望で、糖尿病を発症した人の中の3割ぐらいで非メチル化インシュリン遺伝子の量が上昇する。また、初期の機能検査であるインシュリン分泌能と、血中の非メチル化インシュリン遺伝子とは明らかに相関している。ではなぜ最終的に発症した全ての患者さんでこの指標は上がらないのか?これについて、細胞死が常に起こっているわけではないこと、また非メチル化遺伝子の寿命が短いのではないかと仮説を立て、膵島移植を受けた患者さんでの非メチル化インシュリン遺伝子測定から、この遺伝子の血中寿命が3時間程度しかないことも突き止めている(移植された膵島の多くは定着せずに死ぬため細胞死のモデルとして利用できる)。他にも様々な検査を行っているが、重要な結果はこれだけで、まとめると非メチル化インシュリン遺伝子が血中に多いと、β細胞がまさに殺されている時点であることの指標になるというのが結論だ。もちろんこの検査をマススクリーニングに使うのは難しい。しかし、リスクの高い患者さんを選び、幾つかの検査を組み合わせて早期診断し、自己免疫反応を標的とした治療を行うことがこの病気の重要なゴールであることを考えると、さらに大きな規模の地道な検証が行われることを望む。しかし、出口の治療から、入り口の診断まで1型糖尿病に関しては着実に根治に向けて進んでいる。期待していい。