昨年9月、Chemistry and Biologyに掲載されていた、たんぱく質同士の相互作用を阻害する薬剤の開発についての総説を読む機会があった(Chemistry & Biology 21, September 18, 2014)。まだ理研の後藤創薬プロジェクトを手伝っていた頃だが、その後藤さんが開発したタクロリムスのようにタンパク質同士の結合(FKBPとカルシニューリンの結合)を阻害する化合物の開発は、リン酸化反応などの酵素反応自体を標的とする化合物と比べると極めて困難だと理解していた。しかしこの総説を読んで、40種類を超える化合物が様々なタンパク同士の相互作用を阻害薬として開発され、一部は治験にまで進んでいると知って考えを改めた。これを裏付けるかのように、2月18日号のScience(347,779, 2015)、そして4月13日号のCancer Cell(27, 1, 2015)に、染色体転座でできた発がんキメラ分子とパートナー分子との結合を阻害する薬剤の開発についての研究が報告されていた。最初の論文では、急性骨髄性白血病の原因であるキメラ分子CBFβ-SMMHC とRunx1分子の結合を阻害するリード化合物を、タンパク同士の結合により蛍光を発するFRETと呼ばれる技術を使って特定し、その化合物を改変して動物を用いた前臨床試験で効果を示す薬剤を開発した研究、2番目の論文は、遺伝子転座により様々な分子とキメラを作ることで発現してガンを誘導するMLL分子とmeninとの結合を阻害するリード化合物を分子の立体構造解析に基づき設計・合成し、この化合物を改変して最終的に動物実験で薬効を示す薬剤の開発に至った研究だ。詳細は省くが、これらの研究から、発ガンに至る分子間相互作用についての生物学が分子構造も含め完全に把握できていること、最初にヒットしたリード化合物を作用機序や分子構造に合わせて改変していくためのメディシナルケミストリーと呼ばれる化学により生物学をバックアップ体制が整っていること、の2点が揃っておれば、これまで対象にしてこなかったプロセスを標的とする薬剤の開発が可能であることがわかる。もちろん、ras分子のようにもともと化合物の設計が困難な分子もあるが、真面目に取り組めば創薬標的はまだまだ拡大できることを示している。また個々の分野を取り上げればわが国も高いレベルにある。しかし繰り返すが、このようなプロジェクトの成功は創薬化学と生物学、そして何よりも臨床側からのニーズと材料提供を一つのチームにまとめ上げられるかどうかにかかっている。発足したばかりの日本医療研究開発機構の末松さんや菱山さんは個人的にもよく知っているので花向けとして激励するとすると、新しい機構に求められるのは提案をただ選んで助成するのではなく、目的のためにシーズを持つ大学やベンチャーが、臨床、生物、化学のまとまった三位一体のチームを作るための強い指導を行うことだろう。さらに創薬標的が拡大することで取り組むべきもう一つの重要問題にも取り組んでほしい。すなわち開発された薬剤の薬価の問題だ。Journal of Economic Perspectives(29:139,2015)に掲載されたPricing in the market for anticancer drugsとタイトルのついた論文の分析では、最近開発された抗がん剤の値段は5年の生存を50万ドルで買う計算になることが示されていた。すなわち根治が保証されない延命にどこまでお金をかけられるかという問題の解決がないと、創薬研究自体が意味を失うことになる。ちなみに、今日紹介した新しい化合物の論文に示された動物実験結果を見ると、これらの薬剤は根治ではなく延命をもたらす薬剤であることもはっきりしている。抗がん剤だけではない。新しいC型肝炎ビールスの根治薬が1錠10万円を超すと知って、すでに患者さんから抗議の声が上がっている。長く生きていたいという切実な希望を創薬の対象にするためには、これまでとは異なる新しい発想のファイナンスの仕組みが必要だ。創薬の成功を20世紀型ビジネスの成功としか見ない視点では、解決法はない。科学の可能性と人間の希望を結びつける創薬の仕組みを構想することも新しい機構の重要な課題だと思う。これからも見続けて率直な意見を述べようと思っている。
4月8日:タンパク同士の相互作用を阻害する薬剤(Cancer Cell 4月13日号、Science2月13日号掲載論文)
4月7日:クリスパーを用いる遺伝子治療の可能性(Natureオンライン版掲載論文)
3月25日「CRISPRの倫理問題」と題して、現在大きな問題になりつつあるこの技術を用いた生殖細胞系列の遺伝子改変についての議論を紹介した (http://aasj.jp/news/watch/3113)。わが国で倫理議論が進んでないのはおそらく科学者との対話が進みにくいわが国の問題を反映しているのだろう。わが国の状況とは無関係に、これまでの議論のおかげで、ヒト生殖細胞への応用は世界中で見合わせられると思う。しかし一方でこの技術は体細胞の遺伝子改変を可能にする技術として大きな期待を集め、ベンチャー企業も活発な活動を始めている。ではどこまでトランスレーション研究が進展しているのかを知るため論文を集めていたら、Natureオンライン版に動物モデルではあるが、すぐにでもヒトに使えるところまで来ていることを示す研究がマサチューセッツ工科大学から発表された。タイトルは「In vivo genome editing using staphylococcus aureus Cas9(黄色ブドウ球菌のCas9を用いた体細胞ゲノム編集)」だ。CRISPRがいかに効率の良いゲノム編集ツールだと言っても、人や動物の体の細胞の遺伝子を直接編集するためには、遺伝子を体細胞に導入するベクターが必要だ。幸い、20年以上にわたる研究の結果、実用にこぎつけた様々な遺伝子治療ベクターが開発されている。例えば肝臓細胞に遺伝子を高率に誘導するために、アデノ随伴ビールス(AAV)をベクターに用いる高効率の方法がある。ただ、CRISPRにはCas9とガイドRNAを同時に細胞に導入する必要があるが、このCas9遺伝子は大きい遺伝子で、AAVベクターには入りきらない。このため、通常用いられる連鎖球菌のCas9よりもっと短い同じクラスのCas9が必要とされていた。この研究では、様々な細菌のタイプIIと呼ばれるCas9を検討し直し、黄色ブドウ球菌のCRISPR系ならガイドもCas9も全て一つのAAVに組み込めることを見出した。書けば簡単だが大変な仕事で、長さだけでなく、実際特異的な遺伝子切断を行うためにはどのガイドがいいのか、また無関係の遺伝子を切らないかなど、膨大な基礎実験を繰り返している。その結果、この技術の特異性についての問題も指摘している。専門家にとっては、ここで用いられる方法は極めて重要で、CRISPRを単に便利な道具として考えず、原理から理解するためにもゆっくり読んで欲しい論文だ。また、これをしっかり理解しないと新しい発想は生まれない。いずれにせよ、AAVに詰め込むことができる全く新しいシステムが開発された。この肝臓遺伝子編集の効率を確かめる意味で、2つの遺伝子につい調べている。このうちとくに重要なのは、治療に利用できるかどうか試す意味で試みられたPCSK9遺伝子の編集だ。この遺伝子が欠損すると、LDLコレステロールが低下し、冠動脈障害を予防することができることが知られており、早速、阻害薬剤も開発されている。AAVを注入してこの遺伝子を編集しその効果を調べたところ、驚くべきことに40%の染色体で遺伝子編集が起こり、血中に流れるPCSK9分子は90%減り、コレステロールが40%低下した。肝臓細胞の編集なら明日からでもヒトに応用できるところまで技術は進んでいることを示している。このシステムを中心に様々な病気治療の可能性が続々示されることだろう。様々な問題を乗り越えながら、しかしこの技術は確実に臨床応用へ歩を進めている。
4月6日:母親の血液で診断できる胎児染色体異常検査の信頼性(4月2日号The New England Journal of Medicine掲載論文)
羊水診断でダウン症などの染色体異常を胎児期に診断することが可能になってすでに50年近くになる。このような診断を望まれる両親の多くは、異常が明らかになった胎児を中絶するという選択をする。ただ、この方法は針を刺して羊水を取る必要があり、検査による流産の危険性があるので、実際に行われる頻度は1%に満たないのではないだろうか。ただ超音波診断の進展で、例えば頚部の浮腫や母親の血清検査(いわゆるクアトロテスト)を組み合わせダウン症の危険性を予測し、羊水検査を勧めることが行われるようになった。当然命の選択を迫られるので、リスクを告げられた両親の苦悩は測り難い。昨年夏クロアチアを旅行していた時、街を案内してくれた35歳のガイドさんが、私が医学部にいたことを知って、今妊娠中で検査でダウン症のリスクがあると告げられたと相談された。その時は、羊水検査をしないとはっきりしたことは言えないこと、超音波とクワトロテストだけでは偽陽性率が高いこと、そして母親の血清中に流れる胎児DNAを使って診断する方法が普及してきたことを伝えた。その後彼女がどのような決断を下したか知る由も無いが、今日紹介する論文はこの新しい検査法の診断率についてアメリカを中心に行われた大規模調査の結果で、4月2日号のThe New England Journal of Medicineに掲載された。タイトルはCell free DNA analysis for noninvasive examination of trisomy (非侵襲的トリソミーのための血中DNA検査)」だ。この研究では遺伝子検査にAriosaLaboratoryの方法を用いている。母体の血清中の胎児DNAを次世代シークエンサーで全て配列を決める代わりに、21、18、13染色体の一部の遺伝子に焦点を絞って増幅したあとシークエンスを行う方法だ。従って、原理的に100%の確度はないが、コストは大幅に抑えられる。この研究では、約15000人の妊娠女性についてクワトロテストと、超音波による診断と、Ariosaの診断法の診断率を比べている。結果はきわめて明快で、圧倒的にAriosaのテストの方が診断率、偽陽性率で優れている。21染色体で見ると、対象となった15000人のうちトリソミーを持っていた38例全例がこの方法で診断できたが、従来法では30例に止まっていた。問題は陰性を陽性と判断した偽陽性率で、この方法では9例にとどまっていた一方、従来法では854例と多い。すなわち従来法では5%近くの人が悩ましい選択を強いられることになる。また、羊水検査による流産率は300人に一人ぐらいと言われているので、もし従来法でリスクを告げられた全ての方が羊水検査をするなら、2人以上正常児が失われる心配もある。さらに21染色体だけでなく、診断率が低いのではと心配されていた18、13染色体でも陽性を陰性とまちがう確率は12例中1例だけだった一方陰性を陽性と判断した例も両方合わせて2例にとどまっていた。この結果から、特定の配列に絞った検査法でも羊水検査の結果にほぼ匹敵する診断が可能であると結論できる。結果は以上で、一見めでたしめでたしだが、これが一般検査として保険適用されていくかどうか、コストの問題とともに、検査の目的が目的だけに今後議論を呼ぶような気がする。しかし、経済界は大きな期待をしているようだ。ある経済紙は当面の検査費用(保険会社との契約)は800ドル程度で、1億人がアメリカで保険対象になると予想している。また、5月には20万キットが売れると分析している。事実、この予想を超える結果は会社の戦略上大きな意義があるようだ。すでにホームページでは、この結果を大きく宣伝し、昨年暮れにAriosaはロッシュにより買収された。ゲノムビジネスは予想を超える速度で浸透している。
4月5日:メラノーマの究極のプレシジョンメディシン(Scienceオンライン版掲載論文)
ちょうど1年前AASJチャンネルに出てもらった岸田徹さんは、今自身の活動サイト、ガンノート( http://gannote.com/ )を通して活発な情報発信を行っている。ほぼ毎週と言っていいほどニコ生やユーストリームでガンを経験した人たちと対談を重ねており、今日は3時からメラノーマを経験された徳永さんと対談をする予定だ(http://live.nicovideo.jp/watch/lv216198423、or http://www.ustream.tv/channel/gannote)。ちょうどいいタイミングでメラノーマの免疫療法についての画期的論文が出ていたので紹介することにした。ワシントン大学からの論文「A dendritic cell vaccine increases the breadth and diversity of melanoma neoantigen-specific T cells(樹状細胞ワクチンがメラノーマ特異的なT細胞による免疫反応の幅と多様性を増大させる)」だ。昨年11月27日「論理的にガン免疫療法を進める手段が整った」とNature掲載論文を紹介したが(http://aasj.jp/news/navigator/navi-news/2505)、今日紹介するワシントン大学の論文は論理的免疫治療が実際に可能であることを、メラノーマの患者さんで示している。この研究の目的は、メラノーマのゲノムを調べて、突然変異を起こした分子の中からガン特異的抗原を探し出し、これを樹状細胞と一緒に患者さんに投与してガンに対する免疫反応を誘導できるか調べることで、いわば究極のテーラーメード治療の可能性を探っている。研究では特定のHLA抗原を持つ進行したメラノーマの患者さん3人のガン組織を取り出し、蛋白に翻訳されるエクソームで起こった突然変異を全てリストしている。進行性のメラノーマでは250−500種類の突然変異が積み重なっている。次にこのガン特異的突然変異から、キラーT細胞免疫の抗原になりうるペプチドをコンピューターで割り出す。これにより、50−100種類のガン特異的抗原候補が特定できるが、さらにその中から実際にメラノーマで発現しHLA抗原に結合できるペプチドを選んでいる。もともと突然変異の多い進行性のメラノーマでは、この方法で確実に数種類のガン特異的抗原を見つけることがしめされ、嬉しい結果だ。詳しいことは省くが、こうして選んだ抗原の中にはワクチン免疫前から免疫が成立しているものが見つかる。ただ、反応は強くない。ところがワクチン投与後はこの反応が大きく増強される。また、これまで反応がなかった抗原に対しても免疫反応を誘導することができる。もちろん、誘導された免疫反応によりメラノーマが殺されることも試験管内の実験で確認している。他にも実際に特定されたガン抗原がガンに発現していること、反応する側の抗原特異的T細胞の特定や、ワクチン免疫後この細胞が体内で増加することなど詳しく調べた力作で、読んでいて本当に感心する仕事だ。しかし、一般の人にとって重要なことは、進行性メラノーマのほとんどで、ガン特異的抗原を見つけ、ワクチンとして免疫することで、ガンを殺すオーダーメード型のガン治療が可能であることを実際に示した点だ。今のところ治療を受けた患者さんに問題になる副作用は出ていないようで、もう少しすれば実際の治療結果も報告されるだろう。今回の研究は、抗CTLA4治療と組み合わせて行われているが、抗PD1も利用可能だ。いよいよ、ガン特異的抗原を特定した論理的免疫療法でガンを撲滅することができるかもしれないと期待を持たせる研究だった。
4月4日:心室中隔欠損発症を予防する(Natureオンライン版掲載論文)
心臓の発生過程を学ぶと、その巧妙な仕組みに驚嘆し、様々な発生異常が発症しないほうがおかしいとさえ思ってしまう。実際、自然に治るケースも含めると新生児の1%になんらかの奇形が見られるという。あらゆる発生現象と同じで、この先天性心疾患が発症する基盤に様々な遺伝子変異が関わっていることは間違い無いが、発生時の母体が置かれた偶発的な条件が発症の大きな要因となると考えられている。いずれにせよ、100%の因果関係を示すような要因はないため、これまでの研究は疫学調査が中心で、母体の要因を調べるための動物実験が行われることはほとんどなかった。この意味で、今日紹介するワシントン大学からの論文は先天性心疾患における様々な母体要因の影響を実験的に確かめられるようにしたという点で意義は大きく、Natureオンライン版に掲載された。タイトルは「The maternall-age-asociated risk of congenitall heard disease is modifiable(年齢に相関した先天性心疾患の発症を予防することはできる)」だ。この研究ではマウスをモデルに用いているが、いくらネズミ算で子供が多いと言っても、普通のマウスで先天性心疾患の発症を調べるのは頻度が低く並大抵のことではない。この研究では、先天性心疾患の頻度を上げることがわかっているNkx2.5遺伝子を染色体の片側だけで欠損したマウスを用いることで、この問題を解決している。この結果、1−2割の新生児で心室中隔欠損症が起こる実験モデル作成に成功している。このモデル系で発症する心室中隔欠損はNkx2.5分子の発現が相対的に低下している遺伝的変化を基盤にしているが、それ以外の遺伝的要因はほとんどないことが確認されており、中隔欠損発症に及ぼす母体要因を調べることができる。この研究では、1)年齢、2)遺伝背景、3)肥満・糖尿、4)運動の影響が調べられた。まず最も気になる年齢だが、高齢になると中隔欠損の頻度が1.5倍に上昇する。これが、卵子自体の老化によるのか、母体の老化によるのかを調べる目的で、卵巣移植を行い若い卵巣を高齢マウスに、また老化卵巣を若いマウスに移植して中隔欠損発症の頻度を調べると、卵子の老化ではなく、母体の老化が最も重要な要因であることを突き止めている。すなわち、若い卵巣も老化マウスの中で発生すると、中隔欠損頻度が上がる。確かにこんな実験は、モデル動物がないと不可能だ。次に遺伝背景だが、マウスの系統によって頻度は変わるため、ゲノム上の小さな変異が積み重なると中隔欠損発症につながることがわかる。これらの要因は一種の運命で、変えることはできない。次に、予防可能な要因としてまず肥満や糖尿の影響を調べるている。母親に高脂肪食を食べさせて肥満や糖尿を誘導した後、中隔欠損の頻度を調べているが、意外にもほとんど変化がない。少なくともこのモデルでは、従来疫学的に指摘されていた肥満や糖尿が重要な要因になることはなさそうだ。最後に、マウスが遊びながら運動できる回しぐるまをケージに入れて運動の影響を調べてみると、運動させる期間に応じて中隔欠損発症が大きく低下する。4ヶ月以上回しぐるまで遊んだグループでは実に頻度が3分の1に低下している。ただ、自由に遊ばせているので、体重や空腹時血糖には大きな差がなく、自由に運動することが重要であるという結論だ。これが本当かどうかは大規模な疫学調査が必要だが、遺伝的傾向があっても中隔欠損の発症を予防することができることが示されたことは大きい。一人でも中隔欠損児の誕生を減らせることになるなら重要な貢献だ。最後に、この研究では回しぐるまをケージに入れた効果を運動の効果としているが、ひょっとしたら回しぐるまで遊ぶことで精神的な安定がもたらされた結果効果があるのかもしれない。その点の確認も必要な気がする。
4月3日:新しい道を探す時の脳の働き(4月8日号Cell掲載論文)
想いのこもった論文はIntroductionを読むのが面白い。以前ここで紹介した媚薬としてのオキシトシンの作用を報告した論文は(http://aasj.jp/news/watch/780)、「愛と変わることのないロマンチックな絆は深い喜びと快楽の高揚をもたらしてくれると同時に、いったん破綻すると、深い悲しみと絶望に突き落とされる」という出だしで始まっていた。今日紹介する論文はロマンチックではないが、著者が明らかにしたいことが日常の風景として次のように描かれている。「ニューヨークの地下鉄の駅でどちらが北か知りたい時を想像してください。まずほとんどの場合あなたは方向を教えてくれる出口のサインを探すでしょう。これは騒々しい地下鉄駅で他のシグナルを全て無視して一つのことに集中することです。しかし集中すると他の可能性を忘れます。車の流れから北の方向を見つけ出せるかもしれません。このほうが地下鉄に限らずいろんな状況で使えるもっといい方法になるかもしれません」だ。即ち、決められた方法に集中している時、他の情報から新しい方法を見つけて、戦略を転換する決断をするときに脳のどの部分が働くかというのがこのプリンストン大学からの論文の課題で、4月8日号Cellに掲載された。タイトルは「Medial prefrontal cortex predicts internally driven strategy shift(前頭前皮質内側部の活動から自発的な戦略の転換が予測できる)」だ。さて例によってこの想いを研究にするための課題が重要だ。この研究では、被験者に緑か赤のブロックがちりばめられた白い枠を見せて、ブロックの分布がどちらのコーナーで混雑しているか聞く。誰もが正しい答えを出せるのだが、この簡単なトライアルを繰り返しているうちに、だんだん判断が難しいパターンを見せていく。この時、問題として示されるブロックの色と、答えが一致するようにしておく。すると、一部の被験者は、ブロックの色で判断して答えを出せばいいということに気づき、その後はパターンを気にすることなく、色で答えを出すようになる。これが使われた課題で、指示された方法から、自分で見つけた方法へと自然に変わる前後の脳の活動を記録し、脳のどの部分が方法を変える決断に関わるかを調べている。トライアル後聞き取り調査をすると、約30%の人が色で判断すればいいことに気づき、色で答えを出すようになる。一方残りは、言われた方法で最後まで判断する。両者について、どの部分の活動に大きな差があるかについて、判断の方法を転換した前後で見ていくと、色を指標に使い始めた被験者でだけ、前頭前皮質内側部が転換直前に活動を始め、転換と共に活動が低下する。一方視覚野を調べると、もちろん色を使い始めると活動は上がるが、戦略転換後も同じように高い。面白いことに、同じ時にブロックのパターン認識を行うときに使っている部位も一過性に上がり、その後はまったく使われなくなる。この結果から、一部の人では同じ課題を指示通りに行っている間も、自発的に他の可能性を探しており、最初パターン認識で使っていた領域の活動と視覚認識領域の活動を前頭前皮質内側部で統合できると、戦略転換するというシナリオを提案している。人間を用いた研究は、結果よりやはり課題設定が面白い。しかもこの課題は他にも使えそうだ。例えば民族間でこの課題を比べてみたい。今回の被験者たちは31%が指示された戦略を捨てて、他の戦略に転換した。日本国民の何割が転換する決断をするだろうか。私が現役なら、採用時にこのテストをして、指示以外の可能性を探せる研究者を選ぶだろう。
4月2日:生体腎移植を拡大することは可能か(American Journal of Transplantation掲載論文)
NPOをスタートする前から懇意にしている方に、兵庫県臓器移植推進協議会の川瀬さんがおられる。自らも腎臓移植を受けられ、我が国で臓器移植を進めるため、(失礼を承知で正直に気持ちを述べると)老体に鞭打って地道だが精力的に活動を続けておられる。10月に一緒にニコニコ動画を企画した時、他の国での腎移植の状況を是非調べてくれるよう頼まれ、調べると約束した。その後約束が果たせず今まで来てしまったが、The American Journal of Transplantationに掲載された会議のレポートを読んで、少しは約束が果たせる気持ちになった。この論文は主に腎臓移植のドナー不足対策を議論するために2014年夏に行われたシカゴ会議での議論を紹介するものだが、読んでみるとアメリカですら腎臓のドナー不足が深刻な問題になっているようだ。アメリカでは年間17000件の腎移植が行われており、我が国の10倍に当たるが、それでも移植件数の5倍の数が手術を待っており、平均で5年の待機年数になっている。また、待機中に亡くなる患者さんは4000人に達するようだ。そのため、海外にドナーを求める臓器売買も問題になっている。実際我が国でも腎臓移植でグーグル検索すると、最初に海外での臓器移植斡旋業者のサイトが上がってくる。アメリカの腎移植の3分の2は死体からで、我が国では8割以上を占める生体腎移植は3分の1に止まっている。それでも5000件は生体腎移植が行えていることを考え、死体腎移植数を増加させられない現状で、生体腎移植を増やすためには何をなすべきか議論が行われたようだ。とはいえ、生体腎移植のほとんどを占める肉親や親戚からの移植のように明確なインセンティブのない場合、臓器売買以外に親族以外からの生体腎移植を増やすための方策を見つけることは簡単ではない。議論の結果、1)アメリカでは臓器売買は行わない、2)ドナーとして手術を受け、リハビリをするための費用、及び休業補償は提供できるようにする、3)現在ある生体腎移植相談窓口を拡張し、このような補償をカバーできる財団にする、4)ドナーになることによる健康障害を徹底的に調査公表する、などがすぐに可能な対策として合意されている。ただ、これだけでは解決に程遠いことも理解されている。可能なアイデアとして、ドナーになった場合、友人や恋人といった関係者の移植待ちの順番をトップに移動させることのできるイスラエルの例などが議論されたようだ。ただこれ以外に状況を大きく変えるアイデアは出ていない。どれだけ安全で、将来の健康が保証されても、体にメスを入れる危険を冒して、あかの他人に腎臓を提供する人を先進国で見つけるのはほとんど不可能だろう。結局、一定の条件を課して、法的にも倫理的にも需要可能な臓器売買を認めるしか解決法はないと思う。2008年岩波書店の雑誌「科学」に、私はイランの腎移植についてレポートを書いている。経済制裁の続くイランで、透析を行うことはコスト面でほとんど不可能だ。したがって、国と民間組織が一体となって臓器売買を合法化し、移植待ちの全くないシステムを作り上げた。この時もっとも重視されたのが、レシピエントになれるかについて貧富の差をが影響ないようにすることで、経済的苦境にある人から臓器を買うという点は認められた。この会議でもおそらくこのような例は討議されたはずだ。その上で、生体腎移植を促進するための小さな団体を作って様々な可能性を実験的に試そうという踏み込んだところまで議論している。いずれにせよ、現在の患者さんと医師だけの組織をもっとオープンにし、一般の方が参加できる組織にする必要がある。我が国やアメリカの状況を考えると、イラン型の仕組みを導入することはほとんど不可能だと私は思うが、医師のイニシアチブでタブーを恐れず、可能性を議論する態度は我が国も見習う必要があるだろう。川瀬さんたちとも改めて議論を始めてみたいと思った。
4月1日:人類特異的遺伝子(3月27日号Science掲載論文)
3月26日に、サルから人間への進化過程で、脳細胞の増殖に関わる遺伝子の発現を調節している領域が人間特異的な変化を遂げ、皮質の拡大に貢献していることを示した論文を紹介した。その時、転写調節領域の変化が積み重なってサルから人間へのスイッチが徐々に起こるだろうが、サルには存在しない新しい遺伝子の出現でこの進化を語ることは難しいと言ってしまった。しかし、1週間も立たないうちに、そんな遺伝子が存在することを示唆する論文がドレスデンのマックスプランク研究所から3月27日号発行のScienceに報告された。私の不用意な予想を訂正する意味でも是非紹介したい。タイトルは「Human specific gene ARHGAP11B promotes basal progenitor amplification (人間に特異的なARHGAP11Bは脳の基底部の前駆細胞増大を促進する)」だ。このグループは、人間への進化で脳の新皮質が拡大するためには、まずニューロンやグリア細胞へ分化できる多能性を持った前駆細胞の増殖が必要だと考え、胎児期皮質に存在する前駆細胞(RGC:radial glia cellと呼ばれている)に人類だけで発現している分子を探索していた。このRGCが皮質の表面にコンタクトしているという性質をうまく使って胎児皮質に存在する神経細胞を全て分別できるようにし、セルソーターでマウスとヒトから集めてきた細胞で発現する遺伝子を比べている。詳細は省くが、マウスとヒトとの比較の際にあらかじめ設定した条件に合う遺伝子は結局1つに絞られる。この遺伝子がARHGAP11Bで、なんとチンパンジーには存在しない、人間特異的遺伝子に到達できたのだ。進化的に見ると、ARHGAP11BはARHGAP11A遺伝子がヒトへの進化の過程で重複してできた遺伝子で、この過程で重複後遺伝子の4分の3近くを失い、代わりに新しい47アミノ酸がC末に付け加わった構造に変化している。この結果、元の遺伝子にあったRhoGAP活性は欠損し、まだ機能が完全に特定できてはいない全く新しい遺伝子に生まれ変わっている。さらに驚いたことに、この遺伝子はドレスデンの近く、ライプチッヒのマックスプランク研究所のペーボさんたちが核酸配列を決めたネアンデルタール人や、デニソーバ人ゲノムにも存在する。ついに、ヒト属に特異的遺伝子が発見された。この遺伝子をマウス胎児脳に直接導入すると、RGC細胞が増殖し、マウス脳にはないシワが発生する。試験管内でさらに詳しく調べてみると、マウスのRGCは対称的に分裂し非対称に分化するのが、分化しながら対称的に分裂するように変わる。まさに、細胞レベルでも大きな変化をもたらす分子であることが分かった。ついに人類だけに存在する、新しい機能を持つ遺伝子が見つかった。おそらく今ドレスデンは大きな興奮に包まれているだろう。サルからヒトへのスイッチ遺伝子があるという単純な信念を実現したグループにエールを送りたい。もうすでにサルにこの遺伝子を導入する研究が行われているはずだ。猿の惑星もエープリールフールの話ではなくなってきた。
3月31日:基礎研究結果を新しいがん治療へ(Natureオンライン版掲載論文)
昨年の9月15日にも取り上げたが、小児の白血病のなかで最も多いのが急性リンパ性白血病(ALL)だ。化学療法が進み、現在では完治可能な白血病だが、フィラデルフィア染色体陽性型のALLだけは治療が厄介だ。このタイプのALLは、もともと異なる染色体にあるBcr遺伝子とAbl1遺伝子が、Bcr-Abl1融合遺伝子を形成することが原因となって起こる。不思議なことに、同じ融合遺伝子で起こる大人の慢性骨髄性白血病は、グリベックと呼ばれるこのBcr-Abl1分子機能を抑える薬剤の登場で、飲み薬でコントロールできる病気に変わった。なのに、なぜ小児のALLでは同じ薬剤が効かなくなるのか?これまで積み上がった基礎研究結果を手掛かりに、この原因の追究が行われている。今日紹介するカリフォルニア大学サンフランシスコ校を中心とする国際チームによる論文は、長年の基礎研究により積み重なった知識や材料を新しい治療へとつなげるお手本のような研究でNature オンライン版に掲載された。タイトルは「Signalling thresholds and negativeB-cell selection in acute lymphoblastic leukemia (急性リンパ性白血病にシグナルの強さをかえて細胞のネガティブセレクションを誘導する)」だ。通常がん遺伝子が働いて細胞が増殖し始めると、様々な防御機構が働きだす。ただ、同じ融合遺伝子で細胞が増殖する場合でも、細胞が異なると、この防御機構は異なる。このグループは未熟B細胞でおこる防御反応をこれまでの知識から洗い出す中で、抗原受容体からのシグナルに注目した。B細胞では抗体が細胞膜に発現して抗原受容体の役割を担っている。この時、細胞膜上の抗体と結合して様々なシグナルに変える分子(Igα/Igβ)が知られている。20年以上前に東京工業大学の工藤さんや、熊本大学の坂口さんがバーゼル研究所で発見した分子だ。この分子を介するシグナルがある閾値を越えると細胞はネガティブセレクションを受けて死ぬ。このグループはALLではIgα/Igβシグナル分子の発現が低下していることを見出した。Igα/Igβの発現を回復させて白血病細胞殺す可能性を追求すると、期待通り細胞は死ぬ。意外なことに、グリベックで融合遺伝子の機能を阻害してやると、Igα/Igβ発現による細胞死誘導効果は薄まる。この原因を探る中で、最終的にBcr-Abl1融合遺伝子が働くとIgα/Igβに結合してシグナルを伝えるSykキナーゼの機能を高め、実際には細胞を殺す防御作用が誘導されていることが分かった。即ち、Igα/Igβ分子の発現を抑えてこの防御機構を免れた細胞だけが白血病になることを突き止めた。詳細は省くが、この結果をもとに、Sykキナーゼを活性化する白血病治療の戦略を計画し、Sykキナーゼの機能を抑える脱リン酸化酵素INPP5D阻害剤を投与することで細胞死を誘導できること、またモデル動物系で生存を延長することが可能であることを示した。残念ながら、モデル動物系での実験ではこの方法では完治を得るところまではいかないようだが、治療の選択肢は間違いなく増えた。他にも様々な可能性がリストに上がっており、治療が困難だったフィラデルフィア染色体陽性ALLも根治可能になると期待している。それはともかく、1990年代、リンパ球の増殖や分化を調節するシグナルについては詳しい解析が進んだ。この成果を臨床に生かす研究が今加速していることを実感する。
3月30日:児童虐待についての調査(3月27日号Science掲載論文)
ScienceやNatureに論文を載せるのは簡単なことではないが、難関の一つが、エディターを十分惹きつけるトピックス性を論文が持つことを示すことだ。このことから、これらの雑誌は学術誌ではなく一般向けの雑誌だと批判的に語られることがよくある。しかしこれを裏返して考えると、編集者が社会の問題を認識して、科学者に媒介する役目、まさにメディアとしての役目を果たせることを意味する。特に昨年から、このメディア機能を発揮しようとする意思をこれらの科学雑誌に感じる。例えばこのホームページでも紹介したが、Natureは人工甘味料が逆に肥満を招くことや、最近では乳化剤が腸内細菌叢を変化させ、慢性炎症を招くという論文を掲載している。前者の方は科学的には些か問題を感じる論文だが、それでも自分のゲノムとの関係だけで捉えていたのでは食の安全性は保証できないなら、科学者は新しい課題にもっと取り組んでほしいという強いメッセージがこもっているように思える。またScienceは昨年5月に格差問題を特集し、これが科学の重要な課題だと強く呼びかけた。今話題の、トマ・ピケが巻頭総説を書いたのも象徴的だった。この延長が今日紹介するニューヨーク大学から3月27日号のScienceに発表された論文で、児童虐待問題を扱っている。タイトルは「Intergenerational transmission of child abuse and neglect: real or detection bias(児童虐待や育児放棄は世代を超えて伝わるという仮説の検証:事実か調査法のバイアスか)」だ。この研究課題は、児童虐待を受けた子供は、自分の子供に対して今度は児童虐待する可能性が高いというこれまで言われていた仮説を検証することだ。これまでももちろんこのような調査はあった。ただ、今回の研究は1967−1971年公的機関に児童虐待としての記録のある900人を超す対象を選び、これを1989年からインタビューを始め、その後次の世代が生まれた後、今度は本人とその子供についてインタビューや児童保護局の記録を調べるという、30年近い徹底した前向き調査を続けた点が重要だ。しかも、公的記録だけに頼るのではなく、インタビューを丹念に繰り返し、この仮説を検証している。特に、子供世代に直接インタビューしているのも重要な点だ。実際、自分が虐待されたことは語っても、虐待していることは語りにくい。そのため、子供世代のインタビューと、児童保護局のデータの両方を集め結論を出している点が重要だ。さて結果だが、児童虐待を受けた子供は、自分の子供に対して虐待する確率が高いようだ。面白いことに、育児放棄や性的虐待についてはこの傾向ははっきりしているが、暴力による虐待は伝わらないようだ。今後の施策からも重要な指摘だと思う。読んでみると、もちろん様々な問題がある論文だ。特に、児童保護局に記録されたケースだけを調べており、社会階層としては貧困家庭の調査と言える。したがって、心理的な遺伝性があるのかは、中産階級などについても調査をする必要があるだろう。しかし、Scienceの編集者の社会問題に科学で立ち向かうべきという意思を示すのには十分な論文を掲載したと思う。専門知識を誰もが理解するよう伝えるだけがメディアの役割ではない。社会の課題を科学者や、科学を志す人たちに伝えることもメディアの役割だ。残念ながら、我が国の科学メディアは未熟で、結局政府しか社会と科学を媒介するセクターはない。しかも、この点について政府の限界がはっきりしている以上、新しい科学メディアの創生が必要だ。