生命科学の目で読む哲学書、第20回は、デビッド・ヒュームだ。個人的感傷だが、ついにヒュームに辿り着いたという気分でほっとしている。と言うのも、座右において何度も読み返したというわけではないが、彼の著作を最初に読んだとき以来、ヒュームは私にとっては最も信頼でき、親近感がある哲学者だった。だから今回は当然ベタ褒めになる。と言っても、これまで読んだことがあるのは世界の名著「ロック・ヒューム」の中に掲載されている人間本性論だけだが、一目惚れするには十分だった。ほぼあらゆる点で彼の言葉に納得したし、彼以前の哲学者に必ず感じる違和感が全くなく、極めて現代的な思想だと思った。ただこれまで所有していた彼の著作はこれ一冊で、収録されているのは若きヒュームが「人間本性論:Treatise of Human Nature」として残した3部のうちの、ほんの一部の抜粋だけだった(それでも面白いので、彼の思想を理解するという目的にはこの本か、本性論から10年後に書かれた短い著作「人間知性の研究」でいいと思う)。
ただ、私はこの機会に、生命科学者として過ごしてきた視点からもう一度ヒュームの重要性を理解しようと、古本も含めて六冊を購入して読み通してみた。そして、ヒュームがそれまでの哲学を突き抜けて、現代の生命科学から見ても十分納得できる思想へと高めるのに成功していることに感心し直した。そこで、現代生命科学の考えも引用しながら、ヒュームの思想紹介を試みた。
写真は今回読んでみた著作だが、宗教についての二冊を除くとそれぞれ大部で読み応えのある本なので、個別に解説することはしない。代わりに生命科学者としての視点から見たとき、なぜ私がベタ褒めしたくなるのか、ヒュームの素晴らしさ、特に生命科学の目で読んだ時の素晴らしさを紹介したいと思う。その前に、それぞれの本の成り立ちを少しだけ解説しておこう。
ヒュームは1711年、スコットランド生まれで、最初の重要な著作「人間本性論」三冊はなんと28歳で書き上げ出版している。内容については追々説明するが、若干28歳の若者が、それ以前の哲学者が全く到達できなかった思想的地点に到達し、その内容を見事に伝えているのを見ると、まさに天才が生まれたとただただ驚く。とはいえ書き方のスタイルは成熟していると言うより、若いエネルギーに満ちた感じだが、他の思想を皮肉っている箇所も多々ある。これほどの著作なのに、残念ながら18世紀初頭という思想状況では早熟すぎたのか、見向きもされなかった様だ。これだけの著作を書き上げて無反応では腐るのも当然だ。その後は哲学から身を引き、保守的政治信条を持つ行政官として、政治論や、有名な「イングランド史」の執筆にあたり、この業績により有名になる。それでも哲学を諦めたわけではなく、30代では「人間知性についての哲学的試論」をまとめ直した「人間知性研究」を発表、そして晩年、死後に発表される宗教論集をまとめている。死後に発表された宗教論集と「人間本性論」を読んでわかるのは、28歳から亡くなるまで、彼はみじんも揺れることのない思想を持ち続けていたことだ。そして、どんなに合理的な装いをかぶっていても、彼以前の哲学が最後のところで捨てられなかった、目的論や先験的因果性といった超越論的的思考の残滓から完全に解放されていることだ。
イギリス経験論でのデビッド・ヒュームの位置
本来イギリス経験論は、先験的な生得観念を否定する革新的な思想で、もちろん現代にも通ずるし、個人の経験からスタートするという意味では、科学と最も親和性がある。しかしロックやバークリーでは、生得観念や先験的概念からの脱却が目指されたにもかかわらず、その作業は中途半端で終わってしまた。例えば以前ロックについて紹介したとき、彼の人間悟性論から以下のフレーズを引用した。
「私たちの理知は次の絶対確実で明白な心理すなわちある永遠の、もっとも力能あり、最も知るものがいるという絶対で明白な心理の知識へ私たちを導く。誰かある人がこのものを神と呼びたがるかどうかは問題でない。そうしたものがいるというそのことは明白だ」
この様にロックは、神のような先験的概念を簡単に認めてしまう時がある。これがロックを読むときのフラストレーションの原因だ。
さらにバークリーに至っては、生得観念を排除し、個々の経験のみに基盤を置いたときに必然的に向かうべき問題、「私の世界とあなたの世界に共通性はあるのか?」という問題に対し、実在世界の存在をためらうことなく否定して、人間は神により提供されるバーチャルリアリティーの中に生きているとする、極めて非常識な思想のジャンプを平気で行った。問題設定という点では優れていても、信頼できない。このように、ロック、バークリーまでは、経験論は現代の科学から見て納得できない部分が多かった。
これに対し、ヒュームは、ロックのように思考の矛盾をそのままにしない知性を有しており、またバークリーの様に思いつきに遊ぶことなく、極めて常識的に思考をすすめることができる天才だった。この結果、生得観念を否定し、個人的経験からスタートしたとき必然的に生じる経験論の様々な問題を解決することに成功している。
もちろんヒュームも、ロックやバークリーの経験論の基礎的枠組みを高く評価している。これはヒュームの哲学書も「人間の性質(human nature)」や「人間知性(human understanding)」というタイトルを使って、経験論の本質は人間の経験と理解の解析から始めるべきであり、この作業が人間だけでなく世界の理解につながることをタイトルで表現していることからもわかる。例えば「人間本性論」の冒頭では、科学も含めて全ての学が人間本性論から始まるべきであると語っている。
「あらゆる学は、多かれ少なかれ人間の本性に関係を有し、人間本性からどれほど遠く隔たるように見える学でも、何らかの道を通って、やはり人間本性に結びつく。数学、自然哲学、および自然宗教でさえ、ある程度人間の学に依存している。」 (人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
バートランド・ラッセルの様に、ヒュームは科学の合理性を否定していると考える人もいるし、ヒュームも科学とは何かについて正面から議論した形跡はない。しかし上の文章は、科学が人間とは無関係な、何か絶対的基準に従っているのではなく、人間の本性から離れられないと言っているように読める。さらに驚くのは、自然宗教という言い方で、宗教すら人間から考えるべきであると、それまで誰も明言できなかったことを述べている点で、まさに時代を超えていた。
さて、これまでも議論してきたように、経験論を哲学的に完成させようとするときの最大の問題は、個人の経験と世界の普遍的実在(他の人と同じ世界を共有しているのかという主観主義の問題)との関係が曖昧になる点だ。繰り返すが、ロックはこの問題に全く取り組んでいないし、バークリーは我々観念が経験を通してしか形成できないことを認めた上で、経験が外の普遍的世界に由来することを否定し、神が起点となるバーチャルリアリティーに解決を求めることで、経験の普遍性を保証しようとした。
この課題を解決するためには、個々人の経験が異なることを認めた上で、個人の経験を当事者以外の人も納得できる普遍的経験へと高めることが必要になる。(本当はここまでややこしく哲学的考えなくても、私たちは他の人たちと生きる中で自然に普遍的世界を共有しているのだが、哲学では、「本当?」と問うため、どうしてもこんな議論になる。)
私の意見をまず述べると、厳密にこの個人の経験の普遍性の根拠を求めるとすると、ガリレオに始まる科学的方法以外はこれに成功していないと言うのが答えだ。残念ながらヒュームはガリレオの科学的方法について言及はしていない。しかし、普遍性も個人の経験から拡大していく以外にないとする点で、経験的普遍性を獲得するために科学が守っている重要な条件に気づいている。
彼の経験論が最初に問うのは、世界を認識する方法、すなわち私たちの観念がどう形成されるかで、彼の考えは現代の脳科学に近い。彼は知覚を、直接の知覚認識としての「印象:Impression」(例えば一次感覚野までの認識に近い)と、印象やその他の感覚や記憶を総合した結果としての「観念:idea」(最終的に脳内に形成される表象)にわけている。この区別についてヒューム自身が読書を例にして、「我々が本を読むとき、視覚や触覚から直接生じるインプットが印象で(例えば紙や文字の形)、印象として得られたイメージに関する記憶も含めて、その印象に誘発されて現れる全てが観念である」とわかりやすく説明している。
そして最も重要なのが、印象と観念の階層性をヒュームが厳密に規定している点だ。これがヒュームの経験論を現代の脳科学に近づけている。まず人間は印象なしに観念を得ることはない。彼は羽を持つ馬ペガサスを例として使っている。ペガサスなど誰も見たことがない。馬や羽の印象は直接得ることが出来ても、ペガサスを印象として得ることはない。しかし、馬や羽の印象は観念へと統合されたあと、観念の中で自由に組み合わされて、羽を持つペガサスを構想することは出来る。重要なのは、馬や羽の印象なしに、ペガサスの観念はない点だ。
このように、印象(感覚による直接表象)と観念の階層性・順序を厳密にすることで、生得観念や宗教をはじめ、観念に由来するあらゆる概念を拒否することが出来る。これは観念として存在できるからと言って、その観念が印象と結びついていない限り、実在性を主張できないことを意味する。例えば私も神の観念を有しているが、これは印象を通して得たものではなく、様々な印象や記憶、そして観念が合わさって脳内に形成された観念だ。もし神が直接印象として現れたことがないなら、神もペガサスと同じで、その実在は否定されることになる。
ただ、ここまでは個人の認識についての話で、次に立ちはだかるのが、個人が経験する印象を、客観的・普遍的な世界の印象として他の人と共有できるかという問題だ。この問題は、印象にとどまらず他の人から習った知識とは何かという問題にも拡大する。
何度も繰り返すが、例えばバークリーは、この問題に対して、共有出来る共通の世界が実在することを完全否定している。代わりに、人類が共有する神(あるいは人類が等しく支配される神と言ったほうが良いかも)が存在し、そこから共通の印象が供給されているという、かなり非常識な答えをひねり出した。これはバークリーが神以外に万人に共通性の存在を思い付かなかったためだろう。
これに対し、ヒュームはそれまで誰も考えたことがないウルトラCの答えを提示する。これが、「世界と対峙する自己」の否定だ。「世界と対峙する自己」はデカルト以来、合理主義哲学の核心だったが、ヒュームはこれを全否定するところから始める。「え!どうして自己を否定できるの?自己を否定するとは非常識ではないか?」とほとんどの読者は意外に思われるだろう。これについて、まず第一巻の最終章「人格の同一性」に書かれている彼の言葉を聞いてみよう。
「我々が精神(mind)と呼ぶ物は、ある諸関係によってむすびつけられ、間違ってではあるが、完全な単純性と同一性を付与されていると想定されているところの、互いに異なる諸知覚の、堆積または集合である」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
「精神は、様々な知覚(表象)が次々とそのうちに現われる、一種の演劇 (theatre) である。そのうちにおいて、様々な知覚が、通り過ぎ、引き返し、滑り去り、限りなく多様な姿勢と位置関係でたがいに交わるのである。正しく言うならば、そこでは、一つの時点にはいかなる単純性もなく、異なる時点を通してはいかなる同一性もない。 われわれが、そのような単純性と同一性を想像しようとする、どのような自然な傾向をもとうとも、そうである。 [しかし、] 演劇の比喩に騙されてはならない。精神を構成するのは、たがいに継起する知覚(表象)のみであって、われわれは、これらの情景が演じられる場所 (舞台)についても、その場所を構成する素材についても、ほんのおぼろげな観念をももっていないのである。」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
このようにヒュームは、ロックのタブラ・ラサ=何も書かれていない紙、の考えを徹底させ、自己の精神が外界と独立して存在するのではなく、自己の精神も、外界からの印象や観念、そして記憶の集合にすぎないと言い切っている。すなわち、自己の精神は外界と一体で(我々自身も自然の一部といった意味)、外界なしに「自己」も存在し得ないと明言している。この結果、個人の経験は多様でも、その経験は自己より以前に存在する共通の世界に由来しており、自己といえども共通の世界から独立することはできない。
少し現代生命科学的に考えてみよう。例えば、私は生物38億年進化の結果であり、自然の産物以外の何物でもない。こうして生まれた私の脳には、他の人とは異なるインプットが入り続けた結果、現在の自己が形成されている。この意味で私の身体も脳も、自然の中の唯一無二といえる存在になっている。しかし、決して私の身体も精神も自然から独立して存在することはない。そもそも時間から独立して不変の自己など存在しない。ヒュームの考えは、この生命科学の視点とほぼ一致する。
ヒュームはこの刻々変わる自己の精神の舞台(ロック的にはタブラ・ラサ=自己)については結局何もわかっていないと言っているが、現代の脳科学から考えると、この舞台こそが我々の脳で、経験が集まってアイデンティティーを形成する基体になる。確かに、私たちは自分の脳を対象として覗くことは出来ない。しかし現代の脳科学者は、発生過程で形成された脳内神経ネットワークとよぶ舞台の上で、多くの経験を通して自我が形成され、時間と共に刻々変化していると考えている。そう考えると、脳科学をほとんど知らないヒュームの言葉は革新的だ。
ヒュームの答えは、経験の共通性を確保するため、自己を残して対峙する世界を否定したバークリーと真逆だが、個人が他人と同じ世界を共有しているのかという問題には見事に答えている。すなわち、自己は世界と一体化しており、世界が自我より先に存在し、自我の形成に寄与する。これは世界の実在を否定するバークリーの考えより遙かに常識的ではないだろうか。自己を世界や自然から生まれた産物と認めれば、共通の世界は存在しなければならない。
以上、印象と観念の階層性、そして外界や自然と直結した観念や記憶の集合としての自己という原則に立つと、合理主義哲学にも影響を及ぼしていた宗教的残滓は思考の枠から追放される。その結果、それ以前の哲学者と比べると、ヒュームは宗教や身体から独立した魂などに対して、徹底的に否定的だ。
「人間精神が思念(観念)を形成することができる任意の対象の、作用に関するものであれ、持続に関するものであれアブリオリな結論には、何の基礎もない。どんな対象も一瞬後に、完全に非活動的になること、あるいは消滅することが想像できるのであり、そして、 「われわれが想像できることは(現実にも)可能である」ということは明白な原理である。ところがこのことは、物質について真であるばかりでなく、精神についても真である。すなわち、延長する複合的な実体について真であるばかりでなく、単純で延長していない実体についても真である。いずれの場合にも、魂の不死性を主張する形而上学的議論は等しく非決定的であり、いずれの場合にも、道徳的議論と自然の類比性からの議論とが等しく強力で説得的なのである。」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
「私の持つ諸知覚が、深い眠りなどによってしばらくでも取り除かれるとき、その間は、私は自己を知覚していず、私は存在していないと行っても間違いではない。また、死によって私の諸知覚が全て取り除かれるなら、すなわち私の身体が命を失った後、私が考えることも、感じることも、見ることも、愛することも、憎むことも出来ないならば、私は完全に消滅するであろう。」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
このように、身体と精神は一体で、死により身体とともに精神も自然から消失することを明確に述べてしまうと、宗教の入り込む余地はない。そして、晩年彼は「宗教の自然史」を著し、宗教を人類の歴史の一環として捉える極めて近代的宗教観に至る。特にこの本の中で、多神教と一神教を文明史として捉え、一神教の残酷性を指摘したり、多神教の合理性を指摘したりしているのを読むと、その先進性に驚く。読んだことはないが、彼が「イングランド史」で示した歴史家の視点を晩年に宗教に向けたと思える素晴らしい著作なので、一読を勧める。
自分も他の人間も全て自然とつながっており、外界=自然が個人の存在に先行して存在することを認め、さらに宗教のような観念ファーストの世界を否定すると、我々自身も含めて世界や自然が、理解すべき対象として改めて現れ、それらについて共通の理解を追求する基盤が整い、自然に観念ファーストのねつ造や作り話は排除される。ヒュームは科学について何も語っていないが、このことこそが私が、ヒュームは科学の成立条件に気づいていたと思う理由だ。世界について、普遍的・客観的理解に到達できるかについての議論を可能にする土台を用意したと言う点で、ロックからヒュームまでのイギリス経験論の果たした役割は大きい。
知識と蓋然性
以上述べた条件を確認した上で、理性による普遍的理解とは何かを議論したのが、「人間本性論」第一巻、第3部「知識と蓋然性」だ。ヒュームは普遍的理解を、哲学や科学の問題にせず、我々はどうすれば正しい理解を得られるのかと言う、身近な問題として議論している。ヒュームは「正しい理解」を「信念(belief)」とわかりやすく表現した上で、「信念は因果関係からのみ生じる」として、因果性が理解できているかどうかを普遍的理解の原則に置き、この章で様々な例を挙げて詳しく解説している。
あまりに身近な問題を取り上げて議論しているので、哲学的議論が好きな人には少し回りくどい感じはあるかも知れない。詳細をすっ飛ばして、全体から得られるメッセージをまとめてしまうと、「正しい理解かどうかを決めるためには、その現象の原因が何か?を探り続ける以外に方法はない」という結論になる。言い換えると、原因がわからないことは、決して普遍的な正しい理解に到達できないというわけだ。理解にとっての因果性の重要性というと、世界の4因を提案したアリストテレスが有名だが、ヒュームの因果性は、因果性の判断が必ず経験を通してしか可能でなく、判断のための先験的で絶対的な基準というものはないとする点で、従来の因果論とは全く異なっている。例えば以下の文章。
「我々が全ての新たな算出に対する原因の必然性(必要性)の意見を導出するのは、知識からでも、学問的推論からでもないのであるから、この意見は、必ずや観察と経験から生じる物でなければならない」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
勿論ヒュームも、代数学や物理学で、経験を超えた法則や公理が存在する可能性を理解している。しかし、ヒュームは公理や法則も、結局人間の経験を通して得られたことを説明するために考案されたもので、観念に先験的に埋め込まれているわけではないという立場を貫いている(これについては後に)。
ではどのようにして経験から正しい因果性の理解が生まれるのか?難しく考える必要はない。個人的経験から判断される因果性とは原因と結果という順番がはっきりした関係(隣接と契機と読んでいる)なので、当然自分で見たことが最も確かだ。例えばAさんがBさんを押したこと、その結果Bさんが倒れたという二つの現象を見るとする。この時、Aさんが押したのが原因でその結果Bさんが倒れたというのは誰もが正しいと理解する。このように印象を通した直接的経験は、原因と結果の連結を確実に判断しやすい。
印象を通して理解した因果性のみ認める立場をとることで、観念的因果性を否定することが出来る。例えば、自分の住む世界は神が創造したと言う考えは、神が原因で世界があるという多くの宗教で見られる因果性だが、神が印象を通して得られた観念でない以上、神が原因であるというあらゆる議論は観念的因果性で、正しい理解ではないことになる。
それまでの哲学では、原因と結果の間に必然的性が認められれば因果性があると考えた。例えばアリストテレスの目的因のように、時間的順番が逆になっていても良かった(目的が原因になることは、まだ見ぬ未来が原因になること)。すなわち、必然性の判断基準は我々の経験とは無関係に存在していた。現代の科学者の中にも、宇宙の始まり様に原因を遡れないものについては、宇宙の法則は神が決めたものだと、超越的に決められた必然的関係を認める人もいる。また我々も「宇宙の法則」などと簡単にいってしまう様に、我々の頭は超越的必然性を認めてしまうよう出来ている(この点の脳科学については元旦に紹介したところだ:https://aasj.jp/news/watch/21240)。その意味で、ヒュームが先験的因果性を否定し、因果性は経験でしか判断できないと言明したのは革新的だ。
ただ印象を通した因果性のみ認める立場に立つと、個人的な因果性経験と判断以外を認めない主観主義に陥る心配がある。これに対し、ヒュームは「個人の印象を超えた」因果性についても理解する方法が存在することも様々な例を挙げて示している。例えば、昔の経験の記憶を呼び起こすことによる因果性の理解や、経験はしていないが知識に基づく因果性の理解だ。歴史的事実を例に、ヒュームは個人の経験によらない因果性の可能性を次の様に述べている。
「精神は、原因または結果からの推論において、それが見ているか記憶している対象を超えたところに目を移すが、それらの対象を全く見失ってはならず、印象あるいは少なくとも印象と等価である記憶の観念を全く交えずに、それ自身が持っている観念だけに基づいて推論してはならない。原因から結果を推論する時、我々はこれらの原因の存在を確立しなければならない。これを行う方法は、ただ二つである。一つは我々の記憶か感覚の、直接的な知覚作用による。もう一つは他の原因からの推理によるのであり、我々はこれらの原因を、上と同様に、現前している印象か、それらの原因からの推理かによって確かめなければならず、あとの場合には同じ過程を繰り返して、最後には我々が見ているか記憶しているある対象に至るのである。」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
と直接の印象に基づかない因果性を我々は推論できると述べた上で、
「このことの例を挙げるためには、歴史の任意の一コマを選び、いかなる理由で我々がそれを信じたり否定したりするのかを考察すれば良い。例えば、我々はシーザーが3月15日に元老院で殺されたことを信じるが、それはこの事実が、この事件にまさにこのときとこの場所を指定することに同意する歴史家の一致した証言に基づいて確立されているからである」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
と個人の印象を超えた因果性の理解が可能であることを述べている。重要なのは、歴史的事実を認める際も、原因は必ずだれか個人の印象として発生している必要があり、それをたどっていければ、誰もが共有できる事実として判断できるというわけだ。この考えは、一定の手続きに基づき経験(実験結果)を共有し、それを共通の事実として積み重ねていく科学に身を置く我々には当たり前のことだ。
言い換えると、我々は身近な因果性についての経験を繰り返すことで、何を正しい因果関係かを判断する体系を精神に形成することが出来、何事もこの体系に沿って考えることで、真実について直接経験していないことの因果性を推論することも可能になると述べている。そして、因果的判断力により裏付けられた知識は、人類全体に共有され、また歴史を超えて共有できるとヒュームは考えている。結果、見たこともない過去の因果性についても私たちは知ることが出来る。この点は、以下の文章で最もわかりやすく述べられている。
「私は、見てもいず覚えてもいないローマの観念をいだくが、この観念は、私が旅行家や歴史家の話や本から受け取ったことを覚えている印象に、結びついている。このローマの観念を、私は、地球と呼ばれる或る対象の観念の上の特定の位置に、位置づける。私は、その観念に、特定の政府や宗教や風習の観念を結びつける。 過去を振り返って、それの最初の建国、さらには、幾度かの変革、成功、失敗等を考察する。 これのすべて、また私が信じる他のすべてのことは、観念にほかならないが、習慣や原因と結果の関係から生じる勢いと定まった秩序によって、それらの観念は、単に想像力の産物である他の諸観念とは異なるものとして、際立つのである。」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
実に常識的、フレキシブル、そして近代的な考えではないだろうか。要するに、観念的な問題、例えば世界は現実か、幻想かといった問題から、完全に自由になっている。事実ヒュームは「このような観念的問題は全く重要でない」と以下の様に一蹴している・
「感覚から生じる印象については、私の意見ではそれらの究極的原因は、人間理性によっては全く解明できず、それらが対象から直接生じるのか、それとも精神の創造的能力によって生み出されるのか、それとも我々の存在の創造主から得られるのかを確実に決定することは、常に不可能であろう。またこの様な問題はわれわれの現在の問題にとって、少しも重要でない。われわれは、われわれの知覚(感覚の印象)が真であるか、それらが自然を正しく表象しているか、それとも単なる感覚の錯覚であるのかを、われわれの近くの整合性から推理することができるであろう」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
要するに、私たちが感覚を通して印象を得られるメカニズムが理解できていないのに、自分が見ている世界がリアルか幻覚かなど問うことは意味がない。そして、経験のリアリティーについては、経験を重ねるうちに、自然に理解できる様になるもので、それについていちいち議論を繰り返すことは、何が正しいかを判断する議論の前提として何の重要性もないと言っている。こうしてついに、観念的に絶対的基準を設定してそれに頼ることをしない、科学的方法と重なる経験論の究極地点に到達している。
このヒューム思想の近代性をさらに高めたのが、蓋然性(probability)、すなわち「確からしさ」の概念を人間の判断の重要な要素として導入した点だろう。すなわち「正しさ」についても、100%真実であるかどうかにこだわる必要はなく、「まだ不確かさの伴う明証性」、すなわち「一定の確からしさ」があれば、十分共通の世界理解が可能だとした点で、完全に現代科学の思考と一致する。
なぜ蓋然性の導入が近代的なのか?最も重要な理由は、世界の理解から絶対的「確かさ」の必要性を排除できることだ。例えば現代科学では、どんな現象についても100%説明可能だとは誰も思っていないし、個人の経験は常に偶然かも知れないと疑ってかかるのが常だ。一方、宗教や超越論的議論には常に絶対的真実が登場する。アインシュタインは量子力学について「神はサイコロを振らない」と言ったそうだが、アインシュタインが神を信じていたかどうかは別として、神(宗教)とサイコロは相容れない。というのも神は常に決定論的原因になる。一方、量子力学を持ち出すまでもなく、科学、特に生命科学にとって確率の概念は自明のことだ。
ただ、ヒュームの言う蓋然性は、サイコロの目の様な偶然の出来事のみに関わる蓋然性ではない。偶然や蓋然性を扱う数理理論、すなわち確率論は17世紀には広く知られる様になっており、おそらくヒュームも16世紀に出版されたカルダーノの「サイコロ遊びについて」を読んでいたのではないだろうか。彼は蓋然性(probability)を、「偶然に基づく蓋然性と、諸原因から生じる蓋然性」にまず分けて、前者をサイコロの例えを使って、偶然おこる現象についての確率と(例えばサイコロの1の目が出る確率が1/6)定義している。
一方、「諸原因から生じる蓋然性」と定義された概念は、我々の理解や判断に関わる蓋然性を導入し点で重要だ。たとえば、サイコロを振って繰り返し1の目が出るとすると、何かいかさまの仕掛けが隠れていると思う。すなわち、何か原因があると勘ぐる。しかし、私たちはその仕掛けが密かに組みこまれた現場は見ていない。すなわち原因について直接経験はしていない。それでも、普通のサイコロの振る舞いについて知っておれば、原因を経験しなくとも、高い蓋然性でいかさまが仕組まれていることを確信できる。これこそが、諸原因から生じる蓋然性で、直接経験できない因果性についても、経験した結果と、記憶をすりあわせて判断することが出来る。
また蓋然性を導入することで、私たちの経験は時間を超えて未来の世界と関わることが出来るようになる。蓋然性が過去の経験を反映する様に、我々の現在・過去の経験は、経験していない未来についての判断も可能にする。すなわち、未来の多くは、過去や現在の経験の結果として存在することになる。こうして私たちは経験していない未来を、過去・現在の経験と結合することが出来る。過去・現在に繰り返す現象からその蓋然性が判断でき、私たちは未来の可能性を推論し、まだ経験していない未来のための現在の行動を可能にする。
このように、経験と観念の階層性を明確にし、自己を外界と一体化することで、他の人と経験を共有出来る様にし、蓋然性導入により過去、現在、未来の世界を連続させることで、ヒュームの人間のunderstandingについての追求は完成する。そして最後の決め言葉、
「精神は、単に蓋然的である。(ありそうな)事実についての推論を行うとき、その目を過去の経験に向け返すのであり、過去の経験を未来に投影することによって、その対象についての多くの互いに反対の像を提示されるのである。これらの像のうち、同種のものが結合し一つの精神作用へと融合することによって、この作用に力と精気を与える」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
以上がヒュームの「人間本性論 第一巻知性について」の私のまとめになる。なんといっても、若干28歳のヒュームが、私たち現代の科学者が共有している、世界と人間の知性についての理解に匹敵する、彼以前には見られなかった近代的理解に達しているのに驚く。しかし、こうしてうまれた近代思想は、早熟だったのか、あるいは社会に受け入れられなかったのか、その後の思想、例えばドイツ観念論と呼ばれる哲学はヒュームの近代性を後退させていった様に感じている。これについては次回カントを考えるときに議論したいと思っている。
情念と道徳
ヒュームの近代的思想を理解するためには、一巻で十分だと思うが、人間知性の研究は第二巻「情念について」、そして第三巻「道徳について」、と続いていく。人間の本性を知りたいというヒュームにとって、これは当然のことだ。そして何よりも重要なのは、情念や道徳は、ヒュームが「経験の集合にすぎない」と否定した「自己」を考えるために重要な起点となる。現代的に言うと、辺縁系に形成される感情やモチベーションの反応パターンが「主観的自己」として経験の選択などに関わるのと同じイメージだ。ヒュームも人間の精神を理解しようと考えを巡らせるうち、情念を核に自己を再定義できると気づき、続く2章を加えたのだと思う。
ただ、これに気づいたのはヒュームだけではない。以前述べた様に(https://aasj.jp/news/philosophy/18885)、快、苦という感覚から、愛や憎しみ、さらには道徳と言った観念が生まれ、私たちの精神を支配していることを明確に述べたのはスピノザだ。ヒュームがスピノザを深く読み込んでいたことは間違いなく、2巻、3巻で述べられた多くの思想もスピノザに負っている様に私は感じた。ただ、大きな違いは、ヒュームが「因果関係から形成する判断に伴う信念」、すなわち知性の形成を駆動する力動として、情念を位置づけた点で、これにより現代の辺縁系の脳科学に近いレベルに到達している。先に述べたように、ヒュームは自己という精神の基体を否定したが、近代的自己のありように既に気づいていた。このように、情念、道徳についての2巻は、彼の思想が完成するためには欠かせないのだが、大枠はほぼスピノザの思想に似ているので、特に注目すべきポイントだけに絞って簡単に紹介する。
ヒュームの情念はPassion の訳で、我々の精神を支配して動かす力動と考えればいい。また、情念は、誇りや卑下、愛や憎しみのような極めて複雑な様相をとるが、詰まるところ我々が感じる快、苦の感情に由来すると以下の様に述べている。
「快と苦は美しさと醜さに必然的に伴うものと言うだけではなく、まさにそれらの本質を成すのである。」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
この点はスピノザと同じだが、ヒュームは情念をより分析的に捉えようと努力している。例えば、
「我々が自己と呼ぶこの諸知覚の結合した契機は、常に情念の対象ではあるが、これがそれら情念の原因であることは不可能である」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
と述べて、同じ経験をしても、あるときは快と感じ、あるときは苦と感じることから、情念は決して外界からの印象や経験に直結することはないといった分析をおこなっている。そして、諸知覚が結合した契機は、常に情念の対象になると述べて、情念により諸知覚がまとめられていると考えている。その上で、情念は複雑だとはいえ決して理解不可能なものではなく、「印象と観念」と同じように、その原因について分析的追求が可能で、新たな方法が登場する未来では十分解明できると期待している点で、スピノザより近代的だ。例えば複雑な情念の例として、誇りと卑下を取り上げ、これらが私たちの精神に影響するとき、情念の原因を一つ一つたどって理解することは重要だが、利用可能な方法論では分析が極めて難しいことを明言している。
「仮に一つ一つの異なる原因が、異なる原理の組によって、誇りと卑下の情念に適合されているとしよう。その場合人間の精神は、これらの情念を引き起こすのに必要となる途方もない量の原理を背負い込むことになる。しかし、人間の精神は極めて限られた基体に過ぎないから、このようなことは不可能であると考えるのが正しいであろう。 だから、この点で精神哲学は、自然哲学がコペルニクスの時代以前の天文学に関してそうであったのと同じ状態にある。」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
この中で「人間の精神は・・・途方もない量の原理を背負い込む」が、「精神は極めて限られた基体だから」、原因を追求し統合すると言った従来の方法で理解できないと現状分析した上で、「コペルニクスの時代以前の天文学」を例に出して、方法論が整えば必ず追求可能であるという予想を述べているのに感動する。
これを現代の脳科学に移してみると、脳は有限だが、そこに存在する脳回路とその活動は無限なので、部分の理解は大事だが、それを積み重ねても脳全体の理解につながらないという認識と同じだ。そして21世紀に入ってコンピュータによるdeep learningを用いたデコーディングの技術で、脳のある領域の活動傾向を理解することが可能になり、特定のインプットに対する活動を予測することも出来る様になっている。すなわち、新しい解析手法により、理解が進むことになる。
さらに情念の追求にあたって、ヒュームは実験的研究の重要性すら言及しており、自分の思考を重ねて答えを得ようとするスピノザとは、この点で異なっている。例えば情念について、
「誇りや卑下を生み出すのに必要な全ての内的原理が全生物に共通であり、これらの情念を引き起こす原因は同一であるから、これらの原因が動物全体を通じて同じ仕方で作用すると結論することは正しいであろう」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
と述べて、動物と人間を比べている点、あるいは誇りと卑下、愛と憎しみという4種類の情念の関係を理解するために、「新たな実験をいくつか行うことが適切だろう」として、なんと7つの心理実験まで提案している。
このように人間の情念についてこれからも研究を続けていくべきであるとした上で、第三巻で、人間を支配するもう一つの因果性、道徳の理解へと進む。
深入りしないで、簡単に彼の道徳論のポイントだけを整理しておこう。道徳は、個人の行動を最終的に決めるときの基準と考えられているが、1巻での知性と、2巻での情念が交わり合う接点でうまれると言うのがヒュームの考えだ。しかしながら、ヒュームは道徳とは知性により支配される基準だなどと単純には考えない。実際、第三巻は「道徳的区別は理性から引き出されるのではない」というタイトルではじめ、「道徳は判断されると言うより感じ取られるという方が適切である」、あるいは「道徳的な善と悪を区別して知らせる印象は、特定の種類の苦あるいは快に他ならない」と述べて、人間が感じる感情が自然道徳の源泉であると述べる。
ただ、道徳は感情そのものではない。当然、情念により経験が整理され自己の形成が進むにつて、知性や理性が情念と相互作用しはじめ、優位に立とうとする。この相互作用の中で、それぞれの自己に道徳が生まれるが、道徳は決して理性を代表していない。重要なのは、より人間の本性に沿った自然の道徳が生まれることだ。
この理性との相互作用についてヒュームは
「理性が我々の振る舞いに影響し得るのは、2つの仕方でだけである。理性が、情念の本来の対象である物の存在をわれわれに知らせることによって情念を引き起こす場合か、理性が、情念の本来の対象である物の存在を我々に知らせることによって情念を引き起こす場合か、理性が原因と結果の結合を見つけ出し、それによって、我々が何らかの情念を活動させる手段が得られるようにする場合かである。」(人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
と述べている。わかりやすく言ってしまうと、情念はより自然的感情に由来するが、そのルーツを知り、その発現を理性によりコントロールできることを述べている。繰り返すが、間違ってはいけないのは、道徳は理性から生まれ決められるのではなく、あくまでも理性が情念と相互作用する中で生まれる点だ。
そして、こうして生まれる自己の道徳基準は、当然社会と相互作用で変化させられる。この時、社会の基準は、個人の理性の基準に影響し、これを通して情念の活動に影響する。これが社会の正義や道徳と言われるものだが、ヒュームは理性ファーストで個人の道徳を支配する正義や社会の道徳は、決して自然道徳ではないと明言し、なんと王権の優位性すら明確に否定している。最後にこの論理について彼の言葉をつないでみてみよう。
「道徳についての、我々の最初の、最も自然な心情は、我々の情念の本性に基づいていて、我々自身や我々の友人を見知らぬ人よりもひいきする。だから、対立する情念が人々を反対の方向に突き動かし、何らかの合意ないし一致によって抑制されない間は、肯定した権利や所有などと言うものが自然に存在することはあり得ない」
「私が既に述べたように,正義は人間の合意から生じる。そしてこの合意は、人間の精神のある性質と外的な対象の配置とが一緒になって働くことからいくつかの不都合への対策となることが胃とされている」
「つまり上記の法(財の所有法)は、どれほど必然的であるにしても、全く人為的な、人間の考案にかかる物であること、また従って、正義は人為的な徳でアリ、自然な徳でない。」
「利益が統治に直接の承認を与えるのであるから、利益がなくなれば統治も存続し得ない。公の権力者による抑圧が厳しくて、その権威が完全に耐えがたくなる場合はいつでも、我々は最早その権威に服従する拘束を追わない。」(全て 人間本性論 木曽好能訳 法政大学出版社)
このようにヒュームは、正義とか法自体は、理性に起因する道徳で、個人の情念に由来する道徳を抑制しようとすると明言している。そして彼の理想のは、おそらくスピノザと同じで、個人の情念かを抑圧しない、しかし理性と相互作用の結果生まれる自然道徳が、社会全体と共通性を持つこようになることだったと思う。だからこそ、これを実現するためには、我々は人間の本性を探る手を休めてはならない。
以上が私の考えるヒュームの哲学で、生命科学の目で見たとき、よくここまで現代を見通していたとただただ感心する。カントはヒュームを読んで眠りから覚めたと言われているが、ドイツ観念主義は本当にヒュームを発展させることができたのか?この視点で、次はカントを読んでいきたい。