2017年8月16日
昨日に続いてCRISPR/Casを用いた研究の広がりを紹介しよう。
CRISPR/Casシステムの最も重要な点は、DNAでもRNAでも特定の塩基配列に活性を持った分子をリクルートできる点だ。従って、ノックアウトやノックインといった遺伝子編集への利用はほんの入り口で、このことを理解できないと、胚操作の議論もCRISPRのポテンシャルのほんの上澄みだけの寂しい議論に陥ってしまう。
今日紹介するカリフォルニア大学サンディエゴ校からの論文は、このシステムを使って生きた細胞で特定のRNAを可視化するということと、特定のRNAを分解するという機能を組み合わせ、トリプレットリピート病のような短い核酸配列の繰り返すRNAを発現する病気を治療する可能性を追求した論文で8月24日発行予定のCellに掲載された。タイトルは「Elimination of toxic microsatellite repeat expansion RNA by RNA-targeting Cas9(RNAを標的とするCas9を用いてミクロサテライトの繰り返し配列が増加する病気を治す)」だ。
3−6塩基の配列が繰り返すリピート病は、様々な病気の原因であることがわかっている。ハンチントン病のように特定の遺伝子のCAG配列が増大して、その結果翻訳されるポリグルタミンが細胞内に蓄積して細胞死を誘導するものと、翻訳とは無関係にリピートを持った長いRNAがスプライシングを阻害することで遺伝子発現の大きな異常が引き起こされるケースがあるが、いずれもリピートを持つRNAが原因で、これを壊せば病気は食い止められる。
このグループはRNA を標的としたCRISPRの開発をずっと行ってきており、今回は核酸分解能を失わせたCas9に蛍光マーカーを結合させた分子を用いて、塩基リピートを持つ長いRNAが核内に粒子状に蓄積されることを可視化できることを示している。すなわち、これが細胞内にリピートを持つ RNAの存在を示す診断になる。
次にCas9にRNA分解酵素を結合させて利用すると、リピートを持つRNAを特異的にほぼ完全に壊せることを示している。
このように、診断と治療が組み込まれたシステムを用いて、異常RNAの集合やポリグルタミンの産生が抑えられることを示した後、筋ジストロフィーをモデルにこの治療法を用いることで、リピートを持つRNAが壊され、スプライシングが正常化し、筋細胞が正常化することを示している。
さらに、将来の遺伝子編集治療に向けて、アデノ随伴ウイルスにこのシステムを組み込めることも示している。
現在リピート病についてはアンチセンスなど、様々なトライアルが進んでいるので、この方法の応用も近いのではと期待する。
2017年8月15日
CRISPRを使ったヒト胚遺伝子改変論文が発表され、我が国で議論が行われているようだ。個人的な意見だが、クローン個体作成問題と同じで、実際に実施に必要な施設、人材などの問題を考えれば、実際の応用に関しては現実的に抑止が効いており、あらゆる実験の記録と開示を条件にしておけば、CRISPR使用に制限をかけなくとも問題はないと思う。どの国にも犯罪者はいるが、それを除くと我が国は十分成熟している。「そもそも」などと自分の意見をかざして議論してもほとんど結論は出ない。
それより重大なのは、我が国で倫理問題ばかりの議論が盛んで、この技術を自由な発想で使いトップジャーナルに掲載されるような研究が今も皆無である点で、議論に参加している専門家と称する人も、この技術の本当の深さやポテンシャルの生の声を聞くことができず、表面的な議論に終わってしまうのだろう。
今日紹介するニューヨーク大学からの論文はCRISPRでハリアリの遺伝子を改変し、社会行動の変化を調べた論文で8月10日号のCellに掲載された。タイトルは「An engineered orco mutation produces aberrant sociall behaviour and defective neural development in ants(Orc遺伝子の人為的変異誘導によりアリの社会行動と神経発生の異常が誘導される)」だ。
ほぼ同じ内容の論文が同じ号にもう一編掲載されていることは、CRISPRを利用するために長い時間をかけた準備が必要な研究を、ほとんど同じ系進めてきたラボが少なくとも2つはあるということだ。このようにCRISPRの可能性は野生生物の遺伝子改変が可能になったことで、この方向の仕事は爆発的に拡大するだろう。
それでもアリの遺伝子改変は簡単ではない。というのも一匹の女王アリだけが生殖可能な点で、実験室で操作するハードルになっている。今回研究に使われたハリアリは、この問題が自然に解決されている種類で、女王アリから離すとどの働きアリも女王アリに変身し卵を生むことができる点だ。この特徴を使って、簡単に採取できる働きアリを女王アリに変身させ、オスアリと掛け合わせて得られた卵にCRISPR/Casを導入、核だけが分裂する合胞体時期にそれぞれの核で遺伝子編集が進み、生まれたアリが改変細胞と、非改変細胞のキメラになるという系を使っている。
キメラでも、一部の個体は生殖細胞が置き換わっているので、あとはハプロイドのオスで変異体を分離して、交配を繰り返して突然変異態を分離している。
標的に選んだのは、女王からのフェロモンを感じるための嗅覚受容体と結合して機能を助けるOrc遺伝子で、これをノックアウトするとチャンネル型の嗅覚受容体を介する嗅覚が欠損する。
おそらく条件を設定するのには時間がかかったのだと思うが、鼻のきかない働きアリから以下のようなことが明らかになっている。
1) 群れから離れる時間が長くなるが、狩りの能力は嗅覚がないため全くない。
2) 他のアリとの交流がなくなる。
3) 普通は抑えられている女王になるための触覚の動きを示す。
4) しかし、他のアリがいる巣の中で女王になるための競争には参加できない。
5) 女王になってもオスを無視して自然に生殖ができない。
など、様々な発見が行われている。
これに対応して、嗅覚と行動をつなぐ中枢領域の大きさが低下しているが完全になくなっていないことなど、解剖学的変化も明確になっている。
はっきり言って、他の動物のノックアウトと同じで、形質は面白いが、これを完全に理解するためには解析にまだまだ時間がかかるという印象だ。しかし、このような遺伝子ノックアウトを野生生物に広げることが可能であることが示され、実際そうなっていくだろう。
最後に、野生生物の遺伝子改変の条件として、研究室内への封じ込めの問題は大至急指針を作る必要がある。特に、野外の行動の観察が必要な場合の封じ込めをどうするのか、私は受精卵問題より先だと思う。
2017年8月14日
RNAの3’末端のpolyAが短くなるとポリA結合タンパク質との結合が弱まりTUT4/7によりユリジン化を受け、おそらくRNAの分解を促進していることはよく知られているが、実際にこの機構が細胞の翻訳レベルの調節にどのような効果を持つのかについてはあまり考えたこともなかったし、実際研究も進んでいなかったようだ。
今日紹介するエジンバラ大学からの論文はユリジン化が卵成熟過程でおこる初期発生に必要な母性RNAの蓄積に重要な役割を持つ可能性を調べた面白い研究でNautreオンライン版に掲載された。タイトルは「mRNA 3’ uridylation and polyA tail length sculpt the mammalian maternal transcriptome (mRNA 3’末ユリジン化とポリAの長さを指標に哺乳動物母性RNAが構成し直される)」だ。
この論文ではユリジン化に関わるTUT4/7と結合するRNAを回収し3’末のRNA配列を調べる方法を用いて排卵前の卵と他の細胞のRNAのポリAの長さとユリジンの数を調べている。結果、成熟卵のみでポリAの長さが短ユリジンの数が多いRNAが濃縮されていることを明らかにする。
そこでTUT4/7を卵細胞だけでノックアウトしてその機能を調べると、卵成熟や排卵は起こり、おそらく受精も起こるのに卵割や卵発生が起らず。基本的には卵が第一減数分裂を終えられないことを明らかにする。一方、普通の細胞やES細胞でノックアウトしても、細胞の増殖などには影響がない。
次にユリジン化を抑えることで卵のRNAにどのような変化が起こるのかを調べるためRNA-seqを行うと、予想通りほとんどのRNAが分解されずに残る一方、一部のRNAの発現量が低下する、すなわちユリジン化により逆に安定化しているRNAも存在することを明らかにする。
安定化するRNAと分解されるRNAを比べると、短いポリAを持つRNA、すなわち母性遺伝子として必要な多くのRNAがこの安定化されるRNAに属することを明らかにしている。
この研究では、確かにTUT7/4ノックアウトで、これまで注目されていたlin28やlet7のプロセッシングの異常が起こるものの、細胞の増殖や分化には大きな影響がないこと、さらにノックアウトマウスも数ヶ月までは正常に成長し生存することを示し、この機構がストレスのような緊急時以外は必要ないことも示している。
これまで見聞きした中ではRNAユリジン化について最も明確な答えを出した研究だと思う。
2017年8月13日
生物の進化を約40億年と考えると、原核生物や古細菌から、核を持った真核生物が生まれるまでにその半分が費やされている。細胞の構成は真核生物と他とでは大きく異なり、核が存在するだけでなく、細胞骨格、細胞小器官、有糸分裂などに必要な様々なメカニズムが進化している。情報を担うDNAも核内に収まるというだけでなく、最初環状だったDNAは一本の2重螺旋になり、ヒストンによりコンパクトに折りたたまれ、染色体を作る。ここで活躍するのが様々なヒストンで、複雑な染色体構造を維持しつつ、転写を調節する。
もちろんこれだけ様々なメカニズムが、一度に登場できるはずはなく、ヒストン、アクチン、チュブリンなど基本となる分子の先祖は全て原核生物や古細菌に見つけることができる。ただ、私が知る限り、この先祖型分子の機能を詳しく調べた研究はそう多くない。
今日紹介するコロラド大学からの論文は、古細菌に存在するヒストンの先祖分子を構造的、機能的に調べた研究で8月11日号のScienceに掲載された。タイトルは「Structure of histone-based chromatin in Archea(古細菌のヒストンを基盤とするクロマチンの構造)」だ。
真核生物では多様化したヒストンが転写や複製のダイナミズムを損なうことなく染色体構造を形成するために働いている。特に、ヌクレオソーム構造を支え、転写を調整するヒストンの基本構造はH2A,H2B,H3,H4の四量体からできている。一方ヒストンの先祖分子を持つ古細菌では、DNAは環状のままで、異なる古細菌から何百種ものヒストンが見つかっているが、一つの細胞内では同じヒストンの2量体が基本ユニットであることが知られていた。
この研究ではまずDNAと結合したヒストンの2量体を結晶化し、詳しい構造解析を行い、真核細胞のヒストン4量体構造と比べている。期待通り、DNAが巻きつくための構造はよく似ており、2量体に約90bpのDNAが巻きついている。また、5’端の飛び出しを使って、一つのユニットが繰り返すポリマーを形成することができ、これにより長いDNAと結合することができている。さらに、真核生物のヒストンと同じように、DNase処理で、DNAの分解を防ぎ、30bpの倍数のラダーを形成する。この意味でも、真核細胞と機能的に似ている。
こうして明らかにした構造解析に基づき、ヒストン2量体のポリマー形成を阻害する突然変異を古細菌で導入し、硫黄が存在しない培地に移した時、代謝がリプログラムされ増殖がリスタートする系を用いて機能的変化を調べている。結果だが、様々な突然変異体を作っても、硫黄なしの培地で古細菌が死滅することはなく、硫黄非存在培地に移すとリプログラムが起こり増殖するが、スタートまでの時間、増殖速度は低下している。すなわち、明らかに細胞活性に、ヒストン2量体がポリマーを作ることが重要だ。さらに、硫黄非存培地に移した時に必要な分子の転写を調べると、ヒストンの突然変異体では低下しており、またDNaseによる分解で、長いDNAはプロテクトできない。
以上のことは、私たちが真核生物のヒストンに見る基本機能は古細菌にほぼ揃っていることがわかる。ただ、古細菌の場合は特殊な構造単位を作らず、そのままDNAに結合して、転写などの活動をスムースにしている役割があるようだ。
私が気づかなかっただけだと思うが、ここまでヒストンの機能進化研究が進んでいるのに驚いた。染色体の進化研究の基盤が十分揃っているように思う。最近、ヒストンテールを持つヒストンまで古細菌で見つかっているようで、面白いシナリオが続々生まれる予感がする。
2017年8月12日
一つの遺伝子ユニットを描くとき、転写開始複合体とRNA ポリメラーゼが結合するプロモーター領域から一方向に転写が進むように描くのが普通だが、この方向性はどう決まっているのか、私自身考えたことはなかった。しかし言われてみると、同じゲノム上にコーディング領域がどちらを向いて並んでいるかはまちまちだし、ノンコーディングRNAでは両方に転写が起こる場合もあるので、重要な問題であることに気づく。
今日紹介するハーバード大学からの論文はプロモーターからなぜ一方向にだけ転写が起こるのかという基本的な問題を問うた研究でCellの8月24日号に掲載予定だ。タイトルは「The ground state and evolution of promoter region directionality(プロモーター領域の方向性の基底状態と進化)」だ。
しかしこのように重要だがマニアックな研究ですらハーバード大学から出てくるのには驚くが、この研究では教科書を鵜呑みにして当たり前と考えてしまう問題に着目した。と言っても、プロモーターの方向性が決まっているからこそ普通に転写の実験ができている。方向性を持たないのではと着想したとしても、方向性がないという状況をまず示す必要がある。
この研究では様々な種類の酵母を使い、それぞれの種で方向性を持って転写されているプロモーターが、他の種類の酵母の中では方向性を失うことを発見し、転写の方向性が決して一義的に決まっていないことを明らかにした。
RNAポリメラーゼ結合サイトから転写されたばかりのRNAを正確に解析できるNET-seqという方法を開発して一種類の酵母の中で働いているプロモーターの方向性を調べると、ほとんどははっきりと方向性があるが、一部のプロモーターでは両方に転写が進んでいることも明らかになった。
次に大きな染色体領域を導入するYACベクターをD.hanseiiという酵母から作り、これをS.cervisiaeに導入したとき、普通なら転写が起こらない領域から転写が始まる「偶発的プロモーター」を43種類YAC上に特定し、そこからの転写の方向性を調べると、やはり方向性が失われていることを明らかにした。
この結果は、プロモーター領域には本来方向性がなく、転写開始に必要な分子を集めるだけの役割を演じているが、進化とともに転写因子の結合の非対称性が生まれ、これが方向性を決めていることになる。実際、D.hanseiのYAC上に見つかる「偶発プロモーター」は、K.lactisのYACには存在せず、この差は転写因子結合部位とプロモーターの関係により決まることを明らかにし、新しくできたプロモーターに転写因子の結合部位が加わることで方向性が生まれるのがプロモーターの進化であることを示唆している。
最後にこの可能性を確かめるため、酵母ゲノム中で現在も方向性が明確でないプロモーターが、進化的に比較的新しく生まれていること、また方向性がしっかりしているプロモーターでは、他の転写因子の結合部位の位置が保存されていること、最後に人間の肝臓だけで働き、他の哺乳動物では働いていないプロモーターでも転写の方向性がはっきりしないことを示している。
結論としては「プロモーター領域自体に方向性はなく、進化で転写因子結合サイトが周りに集まることで方向性が出る」とまとめられる。また新しいことをひとつ勉強した気になる論文だった。
2017年8月11日
通勤電車の中でスマフォを見つめている人の数の多さに驚くが、そのうちかなりの割合がゲームに興じている。私自身振り返ってみると、学生時代のパチンコとインベーダーゲームが最初で最後で、その後はほとんどゲームに興じるという習慣はない。しかし当時から、パチンコは言うに及ばず、インベーダーゲームで遊びすぎると脳が退化すると警告する人がいたのを覚えている。
その後ゲーム産業は右肩上がりで成長し、現在の総売り上げは4兆円に迫る勢いのようだが、同時にゲームの内容も多様化したようだ。
今日紹介するカナダ・モントリオール大学からの論文は、ビデオゲームの脳への影響をMRIを用いて調べた研究でMolecular Psychiatry にオンライン出版された。タイトルは「Impact of video games on plasticity of the hippocampus(海馬の可塑性に対するビデオゲームのインパクト)」だ。
同じような研究はこれまでも何度か行われてきた。その中でこの研究の売りは、1)ゲームを単純に早い反応を競う射撃ゲームと、3次元空間認識を磨いて攻略するナビゲーションゲーム(例えばスーパーマリオなどが使われている)を区別して調べている点、2)ゲーム歴のない学生に90時間ゲーム訓練を行い、反射を高めるゲーム、ナビゲーションゲームそれぞれの海馬への影響を見て、因果性を調べた点だ。実際のゲームの内容はスーパーマリオも含めてほとんど知らないので、間違ったイメージを抱いているかもしれないことを断った上で、結果をまとめると次のようになる。
1) まず週に6時間はゲームに興じる大学生をリクルートし、反射の速さを競うシューティングゲームのプレーヤーと、シューティングゲームは嫌いだが同じようにビデオゲームは週6時間以上プレーする大学生のMRI画像を比べると、シューティングゲーム群では記憶や空間学習に関わる海馬の灰白質(神経細胞体が存在する場所)が明らかに減少している。
2) 次にビデオゲームをほとんどしない学生を集め、半分にはシューティングゲーム、もう半分にはスーパーマリオのような3次元空間ナビゲーションゲームを90時間練習させてMRI検査を行うと、予想どおりシューティングゲームを訓練すると海馬の灰白質が低下するが、逆に空間ナビゲーションゲームの場合は海馬の灰白質が増大する。
3) シューティングゲームを訓練したグループは、感情に関わる扁桃体の灰白質は増大している。
結論としては、反射の速さを競うシューティングゲームに興じていると、確かに反射は訓練できるが、海馬の細胞が減少することは間違いがない。一方戦略を必要とするナビゲームは海馬を増大させるので、今後はシューティングゲームにも空間ナビの要素を加えたゲームを設計し、シューティングゲームの問題点を解決することが必要だと述べている。従って、ゲームは間違いなく脳の器質的変化をもたらす。
しかし、この論文を読んでいて、それまでゲームをしなかった学生が、お金をもらえるとはいえゲームの訓練を受け、その結果海馬の灰白質が減少したなら、かなり重大な介入実験と言える。人間の脳研究をどのように進めるのか、早急に議論が必要だと思う。
2017年8月10日
言語能力の低下、繰り返し行動、社会性の低下が自閉症の主要症状だが、これらは乳児期に能動的に様々な体験を求めようとする本能の低下が背景にあるように思える。事実、様々な研究で自閉症の人たちは、感情の受容や伝達が苦手なこと、すなわち失感情症を併発することが多いことが報告されている。またMRIを用いた研究からも感情に関わる島皮質の活動が自閉症では低下していることもわかっている。感情が私たちの行動を支配する最も重要な動機であることを考えると、これを回復させることは、自閉症治療の重要な課題の一つになる。
では、本当に自閉症の人たちは感情が低下しているのだろうか?一見失感情症のように見える自閉症の人たちが、しかし豊かな感情を持っていることが、音楽に対する様々な反応からわかってきた。音楽は人間特有の感情を伝達する手段の最高のものだが、自閉症の人たちが高い音楽能力を示すだけでなく、音楽に表現される感情をほぼ正常に理解していることも示されている。そこで、音楽をコミュニケーションのパイプとして使って、自閉症の人たちの社会性を高められないか、様々な音楽療法が開発され、効果があることが示されてきた。
しかしこれまでの研究のほとんどは観察研究で、一般的な治療法へと発展させるためには薬剤の治験と同じように、音楽療法の効果を確かめる必要があった。今日紹介するノルウェイを中心とする9カ国の国際チームからの論文は「即興音楽療法」と呼ばれる治療法の一つの効果を調べるための国際治験研究で8月8日号の米国医師会雑誌に掲載された。タイトルは「Effects of improvisational music therapy vs enhanced standard care on symptome severity among children with autism spectrum disorder: The TIME A randomized clinical trial(自閉症スペクトラムの症状改善に対する即興音楽療法の効果:TIME-A無作為臨床治験)」だ。
この研究では4−7歳の自閉症スペクトラムの子供を、セラピストとともに即興で楽器を演奏したり、歌ったり、ダンスしたりするセッションから構成される即興音楽療法を5ヶ月受けさせている。参加した384人を無作為に3群にわけ、182人は一般的ケアプログラムだけ、91人に強めの音楽療法、91人に弱めの音楽療法を一般ケアプログラムとともに受けてもらい、5ヶ月後に効果を調べている。
判定は完全にブラインドで行い、医師はどのグループに属しているかを知らされていないという徹底した臨床治験だ。
結果は残念ながら、音楽療法ほ効果は症状改善にほとんどつながらなかった。従って、ここで使われた即興音楽療法は一般的治療として認められないという結論になる。このような治療も費用が生じるので、やはり思いつきだけで広めていくわけにはいかない。
しかし自閉症の人たちの音楽への感受性が高いなら、音楽療法自体が否定されたわけではないと思う。音楽が感情の伝達手段である限り、このつながりを使わない手はない。もっと自閉症の子供たちの音楽能力の科学的研究を推進し、そこから新しいプログラムを考案し、臨床治験で効果を確かめる、これを繰り返してほしいと思う。しかし、アメリカでは音楽療法のセラピストが7000人もおり、ヨーロッパでも6000人いる。この点では、我が国は後進国と言わざるをえないだろう。
2017年8月9日
病気に全くかからず一生を過ごす幸運な人もいるかもしれないが、普通は一生の間に様々な病気を経験する。私の約70年を振り返ると、おそらく他の人より多くの病気を経験したと思う。それぞれの病気には原因があり、それに応じて病気になる年齢も異なる。ではこの病気はどのように分類されているのか?
一般病理学では炎症、ガン、変性というように、病理組織の共通性で分類をしている。また微生物学では、何に感染するかが病気の分類になる。一方、診療部門ではどうしても臓器別、年齢別の分類が優先される。こう考えると疾病分類は簡単でないことがよくわかる。
今日紹介するシカゴ大学からの論文は保険会社の持っているビッグデータを用いて、病気を頻度、遺伝性、環境要因の面から分析して分類できないか調べた研究でNature Geneticsのオンライン版に掲載された。タイトルは「Classification of common human disease derived from shared genetic and environmental determinants(遺伝と環境要因の共通性からみた一般的病気の分類)」だ。
Nature Geneticsに論文を送ったのは著者らの選択だと思うが、Nature Geneticsに送ってしまって、本当は読んで欲しい多くの研究者の目に止まらないのではとまず思った。
研究では医療保険会社が持っている疾患と会員のデータを使って、親子兄弟で同じ病気が起こる確率、同じ環境で暮らす夫婦で病気が起こる確率を計算し、統計学的に、疾患の頻度、家族性から計算される遺伝性、環境依存性などを計算しプロットしている。難しい病気でなければ、金を払う側の米国の保険会社の診断は性格だ。また、子供も25歳までは親と同じ保険でカバーされるので、家族内での病気の発生を正確に抽出できる。
実際には4000万人分のデータから、約13万家族と、50万単身者を抜き出し、遺伝的一致率(遺伝)、環境を共有する夫婦での一致率(環境)、環境を共有する兄弟での一致率(遺伝+環境)に基づく数理モデルを作って、149種類の一般的な病気の遺伝要因、環境要因を算出している。
膨大なデータで詳しく紹介する気は全くないが、遺伝要因では一番高いのは自閉症スペクトラムで、一番低いのが脂肪腫になり、一方環境要因が高いのは皮膚の腫瘍になる。一般的に多くの病気では遺伝的要素の方が環境要因より高い影響力があるが、例えば統合失調症のような神経系疾患では、環境要因と遺伝要因の寄与は同程度になる。
これを聞くと、統合失調症は最も遺伝性の高い病気ではなかったかと質問が来ると思うが、この研究は単純に遺伝性を調べているわけではない。個人的には、統合失調症でも脳のような複雑なシステムの病気に環境が大きく影響することは当然だと思う。
この研究の面白さは遺伝と環境要因の寄与度を指標に病気の間の関係を知ることができる点だ。例えば偏頭痛は普通脳や脳血管の病気として分類されてしまうが、この方法で分類すると腸炎のような免疫疾患と関連が高い。あるいは、1型糖尿病と高血圧がよく似ていることになる。このような意外な結果こそ、将来面白い結果につながる可能性がある。
他にも、病気の発症年齢との関係など疾病分類を考える上で面白い話が満載だが、それぞれの興味を念頭に直接読んで欲しい。はっきり言って、意外性はあっても、「なるほどビッグデータも役にたつ」程度で終わる仕事だが、今後家族関係や環境要因がスマフォなどのデータを通してリンクされてくると、さらに精緻な環境と遺伝に基づく疾患分類法の開発につながるのではと期待している。
2017年8月8日
生活習慣病に基づく肥満が進む過程で、肝臓に脂肪がたまる脂肪肝も進行するが、これを基盤に完全に理解できてはいないスウィッチが入り炎症細胞が浸潤し、線維化がおこると非アルコール性肝炎(NASH)と呼ばれる。わが国を始め世界中でNASHは増加しており、肝細胞死と線維化のサイクルが始まると、他の肝炎同様に肝ガンの発生まで進行してしまう重大な病気で、現在までこの病気に特異的な薬剤の開発はできていない。
これまでの研究で、NASHの原因の一つとして飽和脂肪酸蓄積による肝細胞死があると考えられ、この過程に関わるセリン/スレオニンリン酸化酵素mixed lineage kinase type 3(MLK3)ノックアウトマウスでは、NASHの進行を止めることがわかっていた。
今日紹介するメイヨークリニックからの論文は、MLK3阻害剤を開発してNASHの進行を止められないか調べた研究で8月3日号のJCI Insightに掲載されている。タイトルは「Mixed lineage kinase 3 pharmacoogical inhibition attenuates murine nonalcoholic steatohepatitis(MLK3を薬理的に阻害することでマウスの非アルコール性肝炎を抑えることができる)」だ。
このグループはNASHで肝細胞死が始まると炎症が起こり、この結果ケモカインの一つCXCL10が分泌されマクロファージを肝臓に集め、肝硬変へのサイクルが促進すると考えている。
研究ではMLK3阻害剤として選んだ経口投与可能なURMC099を、マウスに脂肪を投与してNASHを誘導する段階から与え、NASH抑制効果を調べている。結果をまとめると、
1) URMC099は脂肪代謝自身には影響がなく、また脂肪肝の発生にも影響がない。
2) URMC099は肝臓でMLK3とその下流の反応を抑制する。
3) URMC099はマクロファージの浸潤を中心に、炎症の発症を強く抑える。
4) その結果肝臓の線維化(肝硬変)も抑える。
5) URMC099はマクロファージ活性化を抑炎症誘導物質を抑えるとともに、肝細胞からのCXCL10ケモカインの分泌を抑える。
以上の結果をまとめると、URMC099は肝細胞死を防ぐとともに、CXCL10分泌を阻害しマクロファージの浸潤を止める。さらにマクロファージの活性化を止めて、炎症物質の分泌を阻害し、炎症を止める、といういいことずくめの結果だ。
メカニズムから考えると、発症後のNASHにも効く様に思えるが、今回の実験からは明らかでない。また、半年という長期投与を行って問題のないことを示しているが、これほど多様な作用を持つキナーゼの阻害に副作用がないとは思えない。今後より臨床に近い状態で調べることが重要だろう。
しかしNASHに対する特異的治療法がないところで、肝細胞死から肝炎への過程についてのある程度信頼できるモデルができたのは大きい。今後ケモカイン阻害も含め、新たな治療可能性が生まれることを期待させる。
2017年8月7日
70歳近くになるとずいぶんたくさんのオペラを鑑賞することができたが、オペラを鑑賞するだけでヨーロッパ文化にいかにギリシャ文化が深く根を下ろしているか分かる。バロックオペラにギリシャの題材が多いのはわかるが、多くの題材があると思える19世紀以降でも例えばリヒャルト・シュトラウスの「エレクトラ」「ダナエ」、あるいはベルリオーズの「トロヤの人々」など多くがギリシャを題材にしており、ストーリーについての素養のない私たちの鑑賞を阻む要因になっている。
さてこのギリシャ文明は、青銅器時代に栄えたクレタ島を中心とするミノア文明と、ギリシャ本土を中心とするミケーネ文明に由来すると言っていいだろう。両方共線文字を使いまた、ギリシャ神話のミノス王はミケーネ文化に由来するし、トロイの木馬のトロイや「エレクトラ」に出てくるアガムメノンが支配したミケーネはホメロスの叙事詩に書かれており、ホメロスの叙事詩を事実に基づくと確信したシュリーマンにより発見された。
線文字の使用などほぼ親戚とも言える2つの文明は、そのルーツとなるとまだよくわかっていない。今日紹介する米国ハーバード大学、ワシントン大学、そしてドイツ・ライプチヒのマックスプランク研究所からの共同論文は、このミノア、ミケーネの青銅時代の遺跡に残された人骨のゲノムを解析し、両者の関係、ルーツ、そして現代ギリシャ人との関係を調べた研究だ。
論文を読むと、すでにヨーロッパとその周辺で出土した様々な時代のゲノム解析が急速に進んでいることがよくわかる。これらの蓄積があって初めてこの研究も成立している。この周辺の民族と比べると、ミノア人とミケーネ人は極めてよく似ており、トルコ地方のアナトリア人を含め同じルーツのエーゲ・アナトリア青銅器文明とひとくくりにできる。
とはいえ、両者のゲノムは分離可能でもある。ミノア人は石器時代のアナトリア人に中東の民族が交雑して形成されている。一方、ミケーネの方は同じ土台に東欧やシベリアなど北方の民族との交流により形成されている。現代ギリシャ人は当然だが、ミケーネ人に近いが、さらに他の民族が交雑して形成されている。
もちろん、これはゲノム上の交雑の話で、実際にどのように交雑が進んだのかは今回の解析からは明らかになっていない。おそらくミノア、ミケーネ相互の交雑もあり、他の民族との持続的交流もある。稀にしか交流がなかったネアンデルタールと現代人のような単純な図式で決めることはできない。一つの文化が多様化したのか、あるいは多様な文化が合わさって共通文化ができたのかについてすら、まだまだ研究が必要だろう。その意味で、ゲノムと遺物解析を基盤とした全く新しい考古学が生まれるように思う。
文化的に重要なのは、今回解析されたミケーネ王族のゲノムは他のゲノムとほとんど同じで、国家の階層が同じ民族から形成されていたこともわかる。
考え出すと収拾がつかないのでここでやめるが、おそらく西欧思想のルーツとなる初期ギリシャの思想的多様性のルーツも、なんとなく理解できる日が来そうに思える。