2022年8月29日
このブログでも、サルから人間の進化、特に脳の進化については論文を紹介してきているが、この目的のために single cell RNA sequencing を用いた論文は、今日紹介するイエール大学からの論文が初めてだと思う。タイトルは「Molecular and cellular evolution of the primate dorsolateral prefrontal cortex(霊長類の背外側前頭皮質の分子細胞学的進化)」で、8月25日 Science にオンライン掲載された。
これまで人間の脳の進化を調べた論文のほとんどは、脳各部の遺伝子発現を調べた研究だった。しかし、脳細胞は同じに見えても多様化して居ることを考えると、細胞レベルと分子レベル同時に進化を調べることが出来る single cell RNA sequencing(scRNAseq はうってつけの方法で、今まで調べられなかったのが不思議なぐらいだ。
ただ、異なる種の scRNAseq のデータを同じ土俵に展開し、詳しく比べるアプリケーションの開発など、決して簡単ではなく、大変な研究だと思う。実際には、死亡したヒト、チンパンジー、アカゲザル、そしてマーモセットの前頭葉、特に背外側前頭皮質を切り出し、そこから核を取り出し scRNAseq を行って、ヒトへの進化で見られる細胞種の変化、あるいは同じ細胞種での遺伝子発現の変化を捉えようとしている。
出てきたデータは、膨大で、しかもそれぞれの変化の生物学的意味については到底理解するには至らないので、実際には説明しづらい。とりあえず、面白いと思った点だけを列挙することにする。
それぞれの種特異的に存在する細胞があるか?という点についてまず検討が行われている。その結果、5種類の種特異的な細胞が特定されている。その中にはマーモセットだけに見られるものもあり、新しい細胞種が進化とともに増えるというわけではない。ただ、霊長類のみに見られる細胞は、アストログリア系の細胞で、神経細胞自体でないのは面白い。 興奮神経、抑制性神経、アストロサイト、ミクログリアなど、ほとんどの細胞種やそのサブタイプは、全ての種で共通に存在するが、発現する分子でははっきりとした違いが見られる。今後それぞれの違いの意味について調べる長い道のりが待っている。 中でも面白いのは、人間だけに見られるソマトスタチン発現抑制性神経の中に、ドーパミン産生に必要な分子を全て備えたグループが存在し、ソマトスタチンからドーパミンへのスイッチ可能な細胞が脳全体に分布していることで、ひょっとしたら大化けする発見になるかもしれない。 もう一つ、この方法を用いることで、これまで言語に関わり、神経に発現している遺伝子 FOXP2 が、神経だけでなく、ミクログリアに発現していることも明らかになった。 さらに、神経細胞での FOXP2 発現の調節機構を探ると、霊長類の進化とともに、FOXP2 の発現調節機構、及び FOXP2 による遺伝子発現調節変化が見られており、この生物学的意味を言語誕生と合わせて調べる価値は十分ある。 最後に、自閉症やパーキンソン病と言った神経疾患と相関する分子についても、発現に進化に連動した変化が見られる物があるので、今後重要な課題になる。
以上、答えはないが、今後調べるべき多くの問題を提示した重要な研究だと思う。
2022年8月28日
睡眠中に目だけがキョロキョロ動くRapid eye movement sleep(REM睡眠)は、発見の当初から夢を見ていることと関係があるのではないかと考えられ、REM睡眠中に覚醒させると見ていた夢を語れるチャンスが高いという発見につながった。ただ、注意深く実験を行えばREMと夢とは関係がないという結果も発表され、議論が続いていた。
今日紹介するカリフォルニア大学サンフランシスコ校からの論文は、REMが少なくとも覚醒時の行動を反映しているという仮説を、REMから行動をデコードできるかという野心的な課題に置き換え、覚醒中の頭の動きをREMが反映していることを示した研究で、8月27日号 Science に掲載された。タイトルは「A cognitive process occurring during sleep is revealed by rapid eye movements(睡眠中の認知過程はrapid eye movementに表象されている)」だ。
少し大げさに言うと、このような研究は脳や身体の研究から夢は再現できるかという試みの一つだ。これまで、脳自体の興奮を夢と関連付ける研究は行われてきているが、REMからどこまで夢をデコードできるかという研究はめずらしい。
この研究では、覚醒時のマウスの頭の動きと目の動きを詳細に記録し、さらに頭の動きを視床のADN核の神経の興奮と相関させることで、頭が動かない睡眠状態でも、目の動きからAND核の活動、そしてその背景にある頭の動きを推定できるかについて実験している。
もう少しわかりやすく言うと、右に首を向けたとき、当然それに合わせて目も動き、強い運動ではサッカードと呼ばれる振り子運動を起こす。この時、ADNの神経活動は首の動きと相関する。寝ているときは、首は動かないが、夢で首を動かすと、ADNが同じパターンで興奮すると考えられるが、そのときそれに会わせた目の動きが観察できるはずで、これが正しければ、目の動きを追えば、夢の中での首の動きが追えるというわけだ。
結果は予想通りで、睡眠中も左右の目は協調して動き、目が大きく動くと、それに相関して頭の動きに対応するADNの興奮パターンが観察できることから、頭を動かす夢を見たとき、目もそれに合わせて動いていることを示している。
面白いのは、夢の場合、外界からの刺激がないので、大きく動いた目でサッカードは観察されず、400msの間に中央に戻る。
結果は以上で、脳の活動に合わせて、目が動くことからREMの少なくとも一部は夢での行動を反映していることを示している。
現在、脳内電極を設置した患者さんで夢の研究が行われているようになっており、一度ジャーナルクラブでまとめてみたいと思っている。
2022年8月27日
21世紀に入ってから、急速に病気のゲノム解析が進み、それぞれの病気について、相関する多くの遺伝子多型が特定されている。このパワーの威力については、今回 Covid-19 の様々な病態に対し、詳細な遺伝子多型マップが完成していることからわかる。ただこのような研究は、それぞれの多型、あるいは多型セットが病気につながるメカニズムを明らかに出来て初めて役に立つ。
今日紹介するハーバード大学からの論文は、2010年頃から様々な免疫性炎症や、細胞内寄生に対する抵抗力の異常に関わることがわかってきた遺伝子 sp140 の作用機序を明らかにし、クローン病など炎症性腸疾患の新しい治療戦略を示した遺伝子多型から病気のメカニズム、そしてその治療まで明らかにしたお手本のような研究で、8月18日号 Cell に掲載された。タイトルは「Epigenetic reader SP140 loss of function drives Crohn’s disease due to uncontrolled macrophage topoisomerases(エピジェネティック状態を監視する sp140 の機能異常は、マクロファージのトポイソメラーゼの調節不全に起因する)」だ。
この研究が注目した sp140 は、免疫系細胞に発現すること、そして免疫性炎症の異常に関わることが知られているが、その機能はインフラマソームや自然免疫シグナルに関わる分子ではなく、H3K27me3 といった遺伝子発現を抑制するヒストンと結合する分子で、これが何故炎症のリスク遺伝子になるのかは、免疫学的にも面白い課題だ。
これを解くため HEK293 T細胞株を用いて、sp14と結合する分子をスクリーニングし、トポイソメラーゼ(TOP)1、TOP2といった DNA を緩める働きがある分子と直接結合していることを発見する。
一方で、クローン病患者さんの遺伝子多型 rs28445040 により、sp140 の機能が低下していること、また sp140 の機能が低下すると、TOP1、2の活性が高まり、転写のリプログラムだけでなく、ヘテロクロマチン領域の DNA 断裂が起こることを示している。
この過程をさらに詳しく解析し、sp140 は、遺伝子発現を抑えるヘテロクロマチンに、TOP や他のクロマチン再編成分子を寄せ付けないようにして、いったん完成したエピジェネティックな遺伝子抑制システムを維持するための重要な分子であることがわかった。また、sp140 発現レベルが低い遺伝子多型では、この防御が破れ、エピジェネティックな転写抑制が乱れることで、主にマクロファージの活性化が起こり、免疫性の炎症が起こることが示唆された。
以上の結果は、sp140 が低下して発症する免疫性炎症は、それにより活性が高まる TOP を抑制することで治療できる可能性を示唆している。そこで、sp140 をノックダウンしたマクロファージを TOP 阻害剤で処理すると、転写のプログラムが正常化し、細胞内寄生体に対する抵抗力が回復することを明らかにした。また、同じ正常化を、クローン病患者さんのマクロファージでも観察している。
最後に、硫酸デキストランで腸を傷害して誘導するマウス腸炎で、sp140ノックアウトマウスで見られる炎症の重症化を、TOP阻害剤で抑えることが出来ることも示している。
以上、人間の臨床例の研究はまだだが、病気の遺伝子多型から病気の治療法開発にまで至ったお手本と言える研究だ。いずれにせよ、慢性炎症性疾患でもゲノム解析が必須の時代はすぐそこにきている。
2022年8月26日
核酸配列を使ったバーコードを用いて、Single cell レベルでトランスクリプトームやクロマチンの状態を調べる方法は、生命科学分野の大きな変革をもたらしたと思う。このバーコード技術を、組織学と合体する試みも進んでおり、最初に紹介したのは今から5年以上前の2016年で、バーコード付きの RNA トラップを、スライドグラスにタイル状に張り巡らせ、バーコードから二次元的位置関係を再構成して、組織情報と統合するという方法で(https://aasj.jp/news/watch/5490 )、その後同じような方法を用いた研究も何回か紹介した。
ただ、single cell を液滴にトラップする方法と異なり、このような二次元スポットを用いる方法では、標的の核酸を調整するためにプロセスする方法は使えない。そこで考え出されたのが、組織切片上で様々な処理をした後、バーコードを後から結合させる方法で、最初はX軸、その後Y軸と異なるバーコードを組織上で反応させて、処理された標的核酸をバーコード化する方法だ。一次元ずつバーコード添加するので、あるスポットに存在する細胞は、2種類のバーコードでラベルされることになるが、この方法により切片を処理して準備した標的核酸にバーコードを添加することが可能になった。
この方法はイエール大学で開発され、今年の2月、ヒストンコードを解析する Chip-seq を組織上で行う方法、Spatial-Cut&Tag として発表された。
この方法では、リン酸化ヒストンに対する抗体を組織上で反応させた後、抗体の存在するゲノム部位にトランスポゾンをリクルートすることで、その部位をカットしてから、X、Y 軸それぞれバーコードを流し、最後は組織全体のヒストンコードを調べる方法で、職人技を超えるほど大変そうな方法だった。
今日紹介する論文も同じグループからで、今度はもう少し単純な Atac-seq をこの方法と組みあわせられないか調べている。タイトルは「Spatial profiling of chromatin accessibility in mouse and human tissues(マウスとヒト組織上でクロマチンアクセシビリティーの空間的プロファイルを解析する)」で、8月17日 Nature にオンライン出版された。今回の論文はオープンアクセスなので、方法については、下の論文からカットアンドペーストして以下に示す。
上の図からわかるように、スライドグラス上の凍結切片にトランスポゾンを反応させ、オープンクロマチンがトランスポゾンでラベルされた後切り出されるようにする。そのあと、バーコードA、バーコードBを順番に DNA に結合させ、最終的にトランスポゾンラベルとともに、A、B それぞれのバーコードから、DNA 断片の由来する場所を特定する。この DNA 断片は全て核内で生成されるので、核の組織上の位置を記録しておけば、組織とバーコードの位置を対応させることが出来る。
さて結果だが、2月の Cut&Tag の結果よりさらにわかりやすく、組織学の情報(例えば肝臓といった臓器の情報や、そこに存在する細胞の情報)が、見事にクロマチンアクセシビリティーの結果と対応し、single cell 浮遊液では得られなかった情報が満載されている。
読者の多くは single cell technology で得られる何千次元もの情報を二次元圧縮した、tSNE と呼ばれる細胞マップを覚えていると思うが、転写の様子から想像される、細胞の種類の情報が、見事に組織上で再現されテイルのを見ると、感心する。オープンアクセスなので是非自分で写真を見て欲しい(https://www.nature.com/articles/s41586-022-05094-1 )。
このように将来確実に使用が拡がること間違いのない方法が完成したというのが結論だが、それだけでは素っ気ないので、2つ例を挙げてみておく。
一つはオリゴデンドロサイト系列で、成熟前は脳全体に拡がっているが、分化に伴い白質に移動すること、また人間の扁桃でT細胞がTfhへと分化する間に、エピジェネティックな変化を繰り返すことなどが見事に示されている。 現役をやめて10年になるが、この間のテクノロジーの進展は目を見張る。我が国でも、これに匹敵する様々な方法が開発されることを願っている
2022年8月25日
顔が似ている背景には、遺伝的な類似があることは誰もが認めると思う。何百万、何千万レベルのゲノム解読が進んだおかげで、顔の形を形成する遺伝子の研究が急速に進んでいる。例えば、今年4月21日、顔の形と関連する遺伝子多型を調べる復旦大学からの論文を紹介した(https://aasj.jp/news/watch/19529 )。これは、顔を様々な特徴に因数分解し、その点数と相関する遺伝子多型をリストし、最終的に200近くの多型を見つけるとともに、今度は遺伝子から東アジア人とヨーロッパ人を代表する顔を描くというところまで行っている。
顔の遺伝背景を知るためのもう一つの方法として、瓜二つと言えるほどの顔の似た人のゲノムレベルでの比較が考えられるが、瓜二つというペアを集めるのは簡単ではない。今日紹介するバルセロナ、ホセカレーラス白血病研究所からの研究は、カナダの芸術家 Francois Brunelle が集めて「I’M NOT A LOOK-ALIKE!(http://www.francoisbrunelle.com/webn/e-project.html )」というタイトルで公表している、瓜二つの他人ペアをあたり、協力した32ペアの唾液について、SNP アレー、メチル化 DNA アレー、腸内細菌叢とともに、様々な身体や生活状況についてアンケート調査を行い、顔が似ていることの原因や結果を詳しく調べた研究で、8月23日号の Cell Reports に掲載された。タイトルは「Look-alike humans identified by facial recognition algorithms show genetic similarities(顔認識アルゴリズムで類似が特定された人間は遺伝的にも類似が見られる)」だ。
この研究のハイライトはなんと言っても Francois Brunelle の写真集を使えると着想した点だろう。これはすごいと思う。
ただ、この類似は Francois Brunelle の主観によるので、次に3種類の顔認識ソフトを用いて、類似度を調べ、このフィルターを通った16ペアを、人間の印象でも、機械の分析でも似ていると判断されたペアとして、次の検討に進んでいる。
顔認識レベルの似方で言うと、似た人を探すソフトの場合、一卵性双生児より高い類似と判断される場合があるが、顔の一般的特徴や顔の分類を目的としたアルゴリズムでは、一卵性双生児と一般ペアの大体中間に来る。すなわち、人間の印象を十分反映していると言える。
次に、瓜二つの16ペアを、遺伝子多型から分類すると、驚くことに(予想通り?)9ペアが同じクラスターに集まる。すなわち遺伝的に似ていおり、これを Ultra-alike としている。しかし Ultra-alike ペアでも、一卵性双生児同士と比べると、類似は低く、親戚かどうかを調べる方法では、全く親戚でなないことがはっきりしている。
この互いに似ている同士でシェアされている遺伝子を調べると、19277個の SNP が、共有が見られる SNP としてリストされ、この高い共有はランダムなペアでは見られない。
このような多型の見られる遺伝子は、細胞レベルでは細胞接着に関わる遺伝子が多く集まっており、またこれまで顔形成に関わる遺伝子として特定されている遺伝子も1794種類含まれている。
次に、もう一つ顔が似る原因として考えられる DNA のメチル化を全ゲノムで調べると、残念ながら明確な相関は出てこない(これは唾液内の細胞を使っていることも影響している)。ただ、DNA メチル化は参加者のエピゲネティック年齢とは明確に相関しており、実際 Ultra-alike の人たちは年齢も近く、それを反映してエピゲノム年齢も近いことがわかる。
この研究のもう一つのハイライトは、ゲノムだけでなく、アンケート調査によるさ、参加者の様々な性質、例えば結婚、喫煙、アルコール、ペット飼育、運動、子供や家族などの類似性についての調査で、なんと顔が似ている人は生活スタイルも似ていることを明らかにしている。
一つの写真集から始まった面白い研究だ。
2022年8月24日
ジェンナー、パストゥール、ベーリング、北里など、感染症に対する人類の最初の戦いは、ワクチンと抗体(当時は抗毒素と呼ばれた)の導入だった。今回のCovid-19パンデミックを見ても、実際同じ順番で治療法が開発され、直接ウイルスの増殖を標的にする抗生物質は結局最後になってしまった。
今回のパンデミックで最初に実現した治療法が抗体薬だったが、問題は新しいウイルスバリアントが出現すると、多くの場合効果がなくなってしまうことだった。なんとか多くのバリアントに対応できる抗体はないのかと、身体の中で誘導された何千ものウイルスに対する抗体の構造と、ウイルスとの結合を調べることで、新しいヒントを探す試みが続けられてきた。ただこのような方向性の研究は、誰でも出来るわけではなく、抗体の構造や、その生成について深い知識が必要とされる。世界を見渡しても、そんな条件に合う研究者は多くないが、ハーバード大学の Fred Alt は、現役研究者の中でも最も長い抗体産生についての研究歴を持っている一人だ。
今日紹介する Fred Alt 研究室からの論文は、まさに彼の長年の抗体についての知識が凝縮した論文で、α株からオミクロンまでのウイルスを中和できる抗体を、さすがと思わせる方法で作って見せた研究で、8月11日 Science Immunology に掲載された。タイトルは「An Antibody from Single Human VH -rearranging Mouse Neutralizes All SARS-CoV-2 Variants Through BA.5 by Inhibiting Membrane Fusion(一個のヒト VH だけが再構成を繰り返すマウスは BA5 に至るまでの全ての新型コロナウイルスバリアントを、ウイルスの膜融合をブロックすることで阻害する)」だ。
この研究は、抗体の抗原結合部位の多様性が CDR3 多様性で決まるにもかかわらず、多くの SARS-CoV-2中和抗体のCDR3多様性が限られており、ウイルス感染したときに使える抗体レパートリーが限られてしまって、バリアント全体に効果のあるような抗体が出来ないのではないかと着想した。これもさすが長年抗体を見てきたまなざしと言うほかないが、さらにすごいのは、CDR3 の多様性をもっと高めた動物を作る方法を着想したことだ。
幸い SARS-CoV-2 に対する中和抗体の多くはヒトVH1-2、Vk1-33 を使っている。そこで、VHとVkはこのペアに限る一方、CDR3領域だけは、リンパ節の中で新しいレパートリーを生成し続けることが出来るマウスを作成している。このマウスにも、マウスのV遺伝子との再構成を止めるため、遺伝子のルーピングを防ぐ工夫を組み入れるなど、Alt の長年の知恵が詰まっているので、是非自分で読んで確かめてほしい。
その結果、2回のスパイク抗原の免疫だけで、αからオミクロンまで、ほぼ全てのウイルス感染を中和する抗体を作成するのに成功している。後は、なぜこの抗体だけがあらゆるバリアントに効果を持つのかを、構造的に詳しく解析し、一言で言うと、同じ VH/Vk を用いているのに、これまでの従来の抗体とは全く異なる部位に結合する抗体が作成できることを明らかにしている。即ち、最初にらんだように、抗体の多様性がほぼ100% CDR3 の多様性に集約できるようにすると、これまで見られない抗原反応性を示す抗体が合成できることを明らかにしている。
最後に、なぜこの抗体が現在知られているほぼ全てのバリアントに効くのかを調べ、この抗体によりスパイクの S1 と S2 切断後の完全な乖離が抑制されるため、ウイルスは細胞に感染し、エンドゾームに侵入するが、その後細胞膜と融合してRNAを細胞質に送ることが出来ないことを明らかにする。
結果は以上で、是非この抗体の臨床的効果を確かめ、今後の変異体出現に備えるとともに、同じようなヒト化マウスを用いた新しい抗体開発も進めてほしいと思う。ただ個人的には、さすが真打ち登場、本当に深い知識を持つことの重要性を認識した。
2022年8月23日
現在多くの病気のリスクについて、遺伝的多型がリストされているが、コモンバリアントの場合リスクレベルは高くないため、個々の多型の病気発症への関わりを解明することは簡単でない。コーディング領域にアミノ酸変異があっても、コモンバリアントの場合、それがリスクにつながるメカニズムを特定することは難しいのに、ましてやコーディング領域外となるとさらに解析が困難になる。
今日紹介するペンシルバニア大学からの論文は、7番目の染色体にあるパーキンソン病(PD)のリスク遺伝子多型について、この困難な解析をやり遂げたお手本とも言える研究で、8月17日号の Science に掲載された。タイトルは「GPNMB confers risk for Parkinson’s disease through interaction with a-synuclein(GPNMBはパーキンソン病リスクを αシヌクレインとの相互作用を介して高める)」だ。
この研究では PDリスク遺伝子多型の一つ rs199347を取り上げ、まずどの遺伝子の発現がこの多型で変化するかを探索している。脳での発現、さらには異なる多型の染色体での遺伝子発現を別々に調べる方法(アレル特異的遺伝子発現検出法)などを駆使して、最終的に rs199347は膜タンパク質GPNMBの発現レベルに関わる可能性を突き止める。
次に、iPS細胞の遺伝子編集を用いて、GPNMBを片方、あるいは両方の染色体でノックアウトし、神経まで分化させた後、その影響を調べ、GPNMBが αシヌクレインと直接結合して、αシヌクレインの細胞内への取り込みに関わることを明らかにする。以上の結果から、rs199347多型が PDリスク型の場合、GPNMBの発現が上昇し、その結果細胞外の αシヌクレインを取り込む量が高まることを示している。
実際、GPNMB発現が低下した神経細胞にαシヌクレインを線維化させて加えても、シヌクレインの細胞内取り込みが低下しているために、細胞内毒性が起こらないことを明らかにしている。
最後に、実際の患者さんで、rs199347多型と、GPNMB発現レベル、病気の程度などを相関させ、実際のPD発症にrs199347多型がGPNMBの発現量を変化させているか調べているが、一応相関は見られるものの、レアバリアントで見られるほど強い相関は示さない。しかし、コモンバリアントについて、ここまで機能をしかもヒトの細胞で明らかにしたことは、高く評価していいと思う。
結果は以上で、GPNMBとαシヌクレインの結合を阻害する様な化合物が見つかれば、大ヒットになるかもしれない。
2022年8月22日
イギリス経験論の哲学者として、教科書的には、イングランドのジョン・ロック、アイルランドのジョージ・バークリー、そしてスコットランドのデビッド・ヒュームの3人が挙げられている。残念ながらウェールズは入っていないが、うまく連合王国を形成する3つの国がバランスよく入っているのは(意味がないとは言え)妙に面白い。ただこれまで私の頭の中には、ほとんどバークリーの占める場所はなかった。と言うのも、イギリス経験論は「世界の名著」しか読んだことはなく、しかもこのシリーズではバークリーは省かれていた。
ともあれ、せっかくイングランド、アイルランド、スコットランドと3人がそろっているのにわざわざ省くこともないだろうと、系統的に読むと決めて「視覚新論」「人知原理論」「ハイラスとフィロナスの3つの対話」(下図)を読んだ。
結論から言ってしまうと、哲学の重要性としては紹介しなくても問題ないのではと思う。ただ、読んでいる間中、飛行機の中で見た映画、「マトリックス」や「Source Code」(下図)が頭に浮かんで来た。脳の中に直接インプットされる仮想現実の世界を何度も繰り返し経験するという話で、私たちの世代よりはるかに仮想現実に馴染みがある若い人と、仮想現実及び仮想体験とは何かを考えるのも、意外と面白いかもしれないと思い直し、取り上げることにした。また、バークリーの仮想現実は徹底した科学否定の立場に立っている点で、科学批判の思想的ルーツについて学べるという、反面教師的意義もある。
参照: https://www.warnerbros.com/movies/matrix
参照:https://film-vault.fandom.com/wiki/Source_Code?file=SourceCode.jpg
さて、3冊を読もうと思って、まず驚いたのは、ジョン・ロックの「人間知性研究」が新刊では全く手に入らなかったのに、上に写真を示したバークリーの3冊は、何の問題もなくネットで新刊を買うことが出来たことだ。なぜよりポピュラーなロックの翻訳は絶版で、バークリーは現在も販売されているのか?バークリーの方が我が国ではより多くの人に読まれているとは思えないので不思議だ。
ともあれ、バークリーの哲学もロックからスタートしている。「人知原理論」の最初にバークリーは、
「人間的知識の対象を吟味しようとする誰にとっても明らかなように、これらの対象は感官に実際に刻印される観念であるか、それとも精神の受動と能動に注意することによって知覚されるような観念であるか、あるいは最後に、記憶や想像力の助けによって形成される観念、つまり、元々今述べた仕方で知覚された観念を複合したり分割したりすることによって、あるいは単にそれらを再現することによって形成される観念であるかのいずれかである」(ちくま学芸文庫 宮武昭訳 認知原理論)
と述べて、経験を通して形成された観念とその処理以外に、私たちの観念は存在せず、生まれついて持っているとされる生得概念は存在しないと述べて、ロックの考えを100%認めるところから始めている。
これは感覚として経験できないことは、観念として持ち得ないことを意味し、例えば「神」の観念が生得的に存在しているとするキリスト教や、「形相」や「目的」のアプリオリの存在を認めるロック以前の哲学を真っ向から否定する。世俗のロックやヒュームと異なり、アイルランド国教会の司教にとっては禁断の思想ではないかと思うが、バークリーがこれをどう解決したかは追々述べる。
前回ロックを脳科学の始まりと位置づけたように、経験論は近代的な思想だ。最近の脳研究に触れたことがある人なら、私たちの観念が全て感覚器を通して形成される「表象」と、それを統合していく記憶や連合により形成されていることについては、ほぼ異論はないはずだ。さらに、脳内に様々な表象が形成されるプロセスを現代的に考えて見ると、生得観念も即座に否定する必要もないかも知れない。私たちの脳ネットワーク形成は遺伝的に支配されており、これが生まれついての傾向として、特定の観念形成へと導くこともあり得る。網膜の像を最初からうまく地球上の事情に適合させられるのも、視覚優位の感覚系を形成できるのも、まさに我々のゲノム進化の結果だ。いずれにしても、感覚なしに経験はない。
このように、経験論は我々の活動に即した自然な考え方だ。おそらく経験論の問題は、生得概念があるかないかではない。経験論の最大の問題は、経験論により、全ての認識は個別で主観的であるという主観主義が際立つことで、生得観念はおろか、私たちの脳内に今観念を形成しつつある物質や事象以外に、自分の感覚とは独立した世界が存在するという確証が持てないと言う点にある。
私たちは通常、私たちの観念とは独立した世界が確かに存在し、私は神戸にいても、東京での事象は実在のことだと確信しており、また東京に行けばそこにいる人達と同じ経験を通して、共通の観念を形成できると考えている。しかし、なぜそう確信できるのかと問われると、結局見たわけではないので、そう思って全く矛盾はないと言う以外の答えはない。実際には、この確信出来ないという不安を動機として、世界の事象を情報化し、現場にいない人にも仮想体験させる技術が、文字の発明以来現在まで発達し続けてきた。その結果、今経験していない事象が確かに私たちに影響できる=因果性を持つことを、ほとんどの人が実感している。例えばウクライナへのロシアの侵略については、実際に戦争を体験しているわけではないが、メディアが提示する仮想体験を介して、現実として理解し、将来を憂う。とはいえ、現代の報道のように、情報化や仮想体験手段がほとんど存在しなかった時代、経験論の立場に立つことで、「経験し考える自分」という主観論が際立ってしまい、今経験していない世界は本当に実在しているのかという問題についての議論が続いていた。
現代人から見ると、馬鹿げた問いに見えるだろう。しかし、仮想体験を提供する報道に囲まれて生きており、仮想体験を事実として実感できる現代と違い、直接経験しないことの実在性は、当時結構深刻な問題だったと思う。この問題へのアプローチの違いが、経験論の3人を分ける。
ロックは、この問題を追求することを諦めていたようだ。ロックは極めて現実的な人で、現在わからないことも、将来探求が進めばわかる様になるのだと明言し、この問題に明確な回答を出すことにこだわらなかった。おそらくロックは、現代我々が経験する時間や空間を超えた仮想体験がいつの日か可能になり、仮想体験も現実と確信できる時代が来ると思っていたと思う。ただ、18世紀に仮想体験を、しかもリアルタイムに体験するなど夢のまた夢で、当時としては考えたところでわからないという割り切りをせざるを得なかった。ロックの「人間知性論」が新しい領域を開いているにもかかわらず、首尾一貫性がないように感じてしまうのは、この曖昧さに起因する。しかし、経験主義を追求することで生まれる主観主義の議論を避けることで、ロックは人間の知性に関する実に様々な問題について考えることが出来、経験論の基礎を打ち立てることが出来た。
これに対しバークリーの答えは「世界は神により与えられる仮想現実以外の何物でもない」と明言することで、経験論という宗教にとっては禁断の思想をキリスト教と両立させているが、彼の考えに進む前に、この問題を科学者の私はどう考えるのか述べておこう。
科学では、脳に形成される主観的観念の外に、万人に共通の世界(リアリティー)が存在するという仮説から始める。仮説と書いたが、この仮説が正しいかどうかを議論することはしない。科学の手順を個別の事象に適用して、私とあなたの間にコンセンサスを積み重ねていく。また世界は個別の脳の中に表象されているとする主観主義も認める。脳科学が進んだ今では当然の話と考えて良い。繰り返すが、科学では、私が主観的に捉えている世界が、万人共通の世界として実在するのかについてはロックと同じで議論しない。代わりに、科学では一つ一つの世界の事象について、主観的観念をすりあわせてコンセンサスを形成する。すなわち科学の究極の目標は、主観的観念に対応する世界が実在しているかを議論することではなく、最終的に地球上の全ての人間が、世界の事象について同じ観念を持つと納得するまで作業を続ける。この作業とはまさに、自分の経験を同じように経験して(例えば実験)もらうことでコンセンサスをとることなのだが、あらゆることを実験で確かめる必要はない。代わりに、自分の経験を他の人にも仮想体験してもらう。例えば科学論文はその例だ。
このように、共通のコンセンサスを得る作業は、わかるまで議論すると言った、話し合いや民主主義ではなく、17世紀初めにガリレオが示した、実験、測定、数理といった、共通の手段の枠内で行われる(これから外れると全てねつ造になる)のが科学だ。これによりロックが人間の理解の基盤に据えた、感覚を通してだけ形成できる主観的な観念を、個人を超えて間主観的に共通な観念の形成へと広げることが可能になる。すなわち、万人共通の理解に到達することが可能になる。だからこそ、例えば重力場のように、私たちの直感を完全に超える観念すら共有できる。
一見この作業は科学者だけの世界に見えるが、人類100億人が科学というシステムに参加する必要は全くない。科学的成果の一部は技術化され、生活世界に導入され、科学的発見を仮想体験できる。すなわち地球上で携帯電話を利用する人間の数だけ、その技術が反映する世界の理解を仮想体験していることになる。どんなに宗教的な人でも、携帯電話を神の道具とは考えないだろう。このように、あなたと私の世界理解が共通であることを確かめ合う能動的な過程を導入することで、私の頭の中の観念が脳の外に本当に存在するかというやっかいな問題に、一つの解決方法を示したのが科学で、これはガリレオ以来現在まで変わることなく続いている。
このように、主観論の問題に対する科学からの答えの鍵は、世界の仮想体験の可能性になるが、これに対しバークリーは、世界を全て神の造った「仮想現実」とすることで、この問題を解決しようとした。
繰り返すが、主観的観念にだけ立脚して世界を考えると、この世界には私以外に存在せず、他人も私の頭の中にだけ存在するゾンビでしかなくなる。しかもその私も死とともに消滅するとなると、今度は世界そのものがないことになってしまう。ロック以前、この主観論の罠を解決する唯一の方法が、例えば「世界の存在は神が保障している」と、世界の絶対的実在の保証を神に頼る方法だ。既に紹介した17世紀合理哲学はこの例だ。国教会の司教だったバークリーも、世界の実在の問題を神に頼る点では同じだ。
しかし、世界の実在の根拠を神に頼る場合、通常は神が私より先に世界を造り、それを私が経験しているという順序が普通だ。旧約聖書に限らず、多くの天地創造伝説はこれに当たる。この考えは、突き詰めていくと、私(現世)と神(来世)の二元論になり、当然経験論とは相容れない。この矛盾を、私の観念(主観)を認めつつ、現世を否定できるアイデア、すなわち「神による仮想現実」というアイデアを着想したのがバークリーになる。
彼の考える世界は融通無碍でわかりにくいが、論理をまとめると次のようになる。「心すなわち知覚するもの以外の実体は存在しない」けれども、私の心と、あなたの心に形成される世界はそれぞれ実在しており、ただあなたの観念の世界が本当にあるかは私にはわからない(屁理屈でしかないのだが)。しかし、世界について他の人と話し合ってみると、それぞれが持つ別々の世界もうまく統合がとれており、個人個人の世界が集まるカオスでは決してない。これは全ての人が知覚を通して実感している世界の全ての観念を持つ永遠の存在者がおり、世界は「この永遠の存在者の精神の中で存在してそれぞれに提供されるからだ」。物質世界が私の外にあるかどうかはどうでも良く、「永遠の存在者」が私たちに、仮想現実(バークリー的には現実になるが)をインプットして、個人個人の観念を形成させている。
これだけ聞くと、何のことやらさっぱりわからないとお叱りを受けそうだが、この辺について「人知原理論」に加えて、プラトンの著書を模して対話形式で自分の考えを説明した「ハイラスとフィロナスの3つの対話」(戸田剛文訳 岩波文庫)も参照しながら、彼の言葉をたどってみよう。
「ハイラスとフィロナスの3つの対話」は、私が知覚するもの以外に実体は存在しないと語るフィロナス(すなわちバークリー)に対し、世界が存在しないなど信じられないと一般の意見を代表するハイラスとの対話を通して、バークリーの世界が説明されている。これを読むと、バークリーとは才気煥発だが鼻持ちならないナルシストだという印象を持つ。一方、こんなペダンティックな本まで書かざるを得なかったのは、彼の仮想現実の世界を当時の人に理解して貰うことに、彼自身苦労していたことがよくわかる。
では、彼にとっての世界とは何か?
「世界という巨大な構造物を構成している全ての物体は、精神の外では自存出来ず、それらが存在するというのは知覚されるあるいは知られるということであり 、従って、それらが私によって実際に知覚されない限りは、あるいは私の精神の中に存在しない限りは、もしくは私以外の何らかの被造的存在者の精神の中に存在しない限りは、それらはそもそも全く存在しない」
この回答は、おそらく科学と同じ懐疑論的立場だと捉えれば良い。主観的に感覚され経験されているものは実在と言ってもいいが、今経験していないことや、知覚できていても理解できないこと(宇宙)については、実在しているかどうかはわからないという立場だ。
では、私とは独立して世界は存在するのか?外の世界が私の観念を形成しているのか?
同じ引用の後半に書かれているように、「私以外の何らかの被造的存在者の精神の中」に存在する世界があることは認めている。すなわち、世界は私だけのものではなく、他の人の精神にも存在し、普遍的に存在する何かがある。たしかに、ここで私の世界しかないと言ってしまうと、世界は私とともに消失することになり、議論は中断するので当然の答えだと思う。
では、彼の言う普遍的な世界は、神が創造した独立した世界とどう違うのか?天地創造の後、私たちが生まれてきたとする一般的な宗教的世界観ではなぜだめなのか? この問題に対し彼は、
「物体が精神の外に存在することが可能だとしても、実際に存在すると主張することは、極めて当てにならない意見でしかないに違いない。それというのも、そのように主張することは、神は全く不要なものを、つまり何の役にも立たないものを無数に創造したと何の根拠もなしに想定することだからである。」
すなわち、私の外の世界は神により創造されたものなのだが、生きている人間それぞれに合わせてわざわざ世界を実在させるのは無駄な苦労でしかないと、独断的で勝手な言い分を展開している。
では、神が示す普遍的世界とは何か? ここでついに、私たちがそれぞれ感覚を通して得る経験は、神によってそれぞれの人間の感覚に提供される仮想現実であるという結論が出てくる。
「・・・・私は私が知覚する全ての可感的な印象を、いつも私に作用して持たせる心があると結論づけるのです。その(経験の)多様性と秩序と様式から、私は、実在物の作者が、私たちの理解を超えるほど、賢明でで、力強く、善良であると結論づけるのです。その点によく注意してください。私は、神の知性的な実体で事物を表すものを知覚することによって、事物を見ると言っているのではありません。 それは、私には理解できないことです。私が言っているのは、私によって知覚されているものは、無限なる精神の知性によって知られているのであり、その意志により生み出されていることです。 」
これを読むと、人工知能により経験が提供されるというマトリックスの世界と同じというのもわかってもらえるだろう。まず、神により与えられる経験は、リアリティーかどうかを問う必要のない神の世界で、この真実性は疑えないという極めて宗教的議論だ。このため、バークリーにとっては、私が仮想現実と決めつけている世界も、現実になるのだが、ここでは仮想現実として続ける。
そして、仮想現実(現実?)を用意する神について、
「すなわち神とは、絶えず我々の元に運ばれてくる多種多様な観念あるいは感覚を我々の精神の中に生み出すことによって我々の精神に親密に現前する精神、そして我々が絶対的かつ全面的に依存している精神、つまりは我々がその中で生き、動きそして存在している精神だからだ」
と述べて、神がマトリックスをつくりその仮想現実の中で私たちが生きていると明確に述べている。
しかし、バークリーはれっきとしたアイルランド国教会の司教でカルトではない。私の観念が神により提供される仮想現実だとする彼の考えは、伝統的キリスト教とは相容れない。例えば、創世記に書かれている天地創造は、私とは独立した世界の創造ではないのか?
彼は従来の意味での天地創造を否定して、異端と言われても仕方がない答えを示している。
「ものが存在し始めたり、存在しなくなると(聖書により)いわれるとき、私たちは、そのことを神に関してではなく、神の被造物(人間の精神)に関して意味しているのです。全てのものは、神によって永遠に知られています。同じことですが、神の心に永遠に存在しています。でも、以前は被造物(である精神)には知覚できなかったものが、神の命令により知覚できるようになるとき、そのものは、作られた心に対して相対的に存在し始めるのです。・・・・・聖書には、期待や道具や機械因や絶対的存在について、どのような言及も考えも含まれていません。・・・・」
聖書の天地創造とは、神の心を通って、「物(世界)」が知覚可能な世界に転換されることに他ならず、必ずしも世界の創造は必要ない。もう一度聖書は新しく読み直すべきだと言っている。わかりやすく言うと、天地創造とは、マトリックスの提供する世界を人間が知覚できるようにスイッチを入れたのと同じという話になる。
ここまでバークリーと付き合うと、彼も17世紀以前の哲学にみられた、全てを頭の中で説明しきる悪弊にとらわれていたことがわかる。確かに仮想現実という着想は、経験論と主観主義の問題や、宗教的には現世と来世の矛盾を説明するためには good idea だったが、この思いつきを死守するため、17世紀、18世紀を通して発展してきた科学を完全否定せざるを得ない。最も反科学的哲学者にならざるを得なかった。例えば、
「物体的実態は思考できるのか、物質は無限に分割可能なのか、そして物質はどのように精神に作用するのかーーこうした探求やそれに類した探求はいつの時代も哲学者を困惑させてきた。しかしこれらの探求は物質の存在に依存しているから、(物質を認めない)我々の原理に立てばもはや生じようがない。」
さらに、おそらく当時英国ではスターだったニュートンの万有引力すら、
「今や大人気の機械的(力学的の間違いと思う)原因は引力である。石が地球に向かって落ちる、あるいは海が月に向かって膨らむのは、この引力によって十分説明されると思う人たちもいるかもしれない。しかし、こうしたことが引力によってなされると告げられたところで、我々はどれほど利口になるのか」
と、全く意に介さないし、さらにはユークリッド幾何学ですら、常識では考えられない無限分割概念を前提とする非常識と切って捨てる。そして、
「大変な能力と粘り強い勤勉を持ち合わせた人たち(自然科学者)がそうしたやっかいなことなど考えずに、生活の関心事にもっと密接に関わること、あるいは生き方にもっと直接に影響することの検討に思考を費やす方が、誠に望ましいことだろう。」
と述べて、科学者にもっと大事な日常に即した仕事に能力を生かせと、説教する。現実の否定は反科学以外にあり得ないことを示す例だが、彼は司教としてこの仮想現実をどう説いていたのか知りたいところだ。
以上でバークリーの紹介は終わるが、彼の不思議な仮想現実を中心にした思想については十分わかってもらえたとおもう。今回初めて3冊の著作を読んだが、何かを学んだという感覚はない。しかし、科学者として見たとき、バークリーが世界を仮想現実として説明できることを着想した、才気煥発のアイデアマンであると同時に、徹底的に反科学的だったことは、現代社会の科学や反科学、あるいはカルト宗教を考える意味で大変興味深い。
ロックを脳科学と絡めて紹介したが、私は経験論とガリレオの科学思想が合体することで初めて、主観主義の問題が克服できるようになったと考えている。しかし、バークリーを読むことで、科学的解決を拒否して仮想現実に走る解決法もあることを理解した。さらに、現代にもバークリーと同じ考えが脈々と生きており、常に反科学と一体となっていることも認識できた。
現在私たちが、世界の隅々の事象を、因果性のある現実として捉え、経験論を健全な形で受け入れることが出来る大きな要因は、時間と空間を超えて事象を経験できる、報道やSNSに代表される仮想体験の方法が確立しているからだ。しかし、この仮想体験の信頼性は、「フェイクニュース」という一言、すなわち君の頭の中の世界は現実か?を問う一言で揺らいでしまう。これは、どんなに技術が進んでも、精神内に生まれる主観的観念と客観的現実世界のギャップの問題が解決しておらず、簡単に蒸し返されることを意味する。考えれば当然の話で、仮想体験を支える技術が、同時に仮想現実をつくり、それを伝える技術にもなっている。技術が進めば進むほど、個人にとって現実か虚構かの区別がしにくくなる。これが、映画マトリックスやソースコードが伝えようとしていることだ。
仮想体験として提供される経験が、作られた仮想現実ではないことをどう保証できるのか、この問題の克服が、科学技術が進んだ現代ますます求められるのは皮肉だ。どれほど科学技術が進んでも、このギャップは残る。そんな隙間に、絶対的な真実を保証すると称する、宗教や神、あるいはイデオロギーが忍び込み、あなたの本当の生は、絶対者が保証している仮想現実の世界だとささやく。
今統一境界問題で世間は大騒ぎだが、カルト宗教のマインドコントロールというのも、機械に頼らない仮想現実と考えられる。実際、オウム真理教は機械を使った仮想現実も取り入れようとしていたことを思い出そう。政治家も同じことで、トランプのフェイクニュース論は、まさに彼が自身で造った仮想現実(もちろん現実かも知れないが)を信じろと迫っている。そして何よりも、現実を否定する仮想現実は、科学を否定することでしか成立しない。
バークリーを読んで、現実の仮想体験と、虚構の仮想現実という重要な問題を考えることが出来た。反面教師としてのバークリーが今回の結論になる。
2022年8月22日
多くのガンで、ガン抑制遺伝子 p53 分子の欠損が発ガンの条件になっている。P53 は様々な機能を持っている分子だが、ゲノムの安定性を維持するチェックポイント機能が発ガン抑制に最も重要だと考えられている。とはいえ、p53 が失われた後、ゲノム不安定性がどう表れるのか、まだまだわかっていないことが多い。
今日紹介するスローン・ケッタリング ガン研究所からの論文は p53 が欠損した細胞を他の細胞から区別できるようにしたマウス膵臓ガンモデルを用いて、p53喪失後の過程をゲノム解析や、single cell RNA sequencingをベースにした遺伝子コピー数の変化を調べる手法を用いて調べた研究で、8月17日 Natureに オンライン出版された。タイトルは「Ordered and deterministic cancer genome evolution after p53 loss( p53 喪失移行の発ガン過程の順序が決まっており、決定論的に進む)」だ。
方法は割愛するが、この研究では発ガン遺伝子 ras を発現して発ガン過程にスイッチが入ると、ras 遺伝子領域にリンクして赤い蛍光が出るようにしたマウスで、p53 遺伝子喪失の影響を調べている。そのために、片方の p53 が欠損し、もう片方の p53 遺伝子領域にリンクして緑の蛍光分子が発現するように、マウスを改変している。このマウスでは、ras にスイッチが入った時点で、細胞は赤と緑の蛍光を発し(会わせると黄色になる)、その後 p53 が欠損すると、赤の蛍光だけが発現する。このマウスを用いて、膵臓ガン発生後、あるいは前がん状態で、p53 (+/-:黄色)とp53 (-/-:赤) 細胞を分離し、それぞれのゲノムを調べている。
結果は極めて単純で、まず発ガンには p53 の欠損が必須であることがわかる。そして、p53 欠損前と後のゲノムを比べると、欠損細胞ではほとんどの細胞で、遺伝子のコピー数の変化(CNA)、すなわち遺伝子欠損や、遺伝子重複が見られるが、欠損前には全く CNA は起こらない。すなわち、p53 欠損に続く、様々な CNA が膵臓ガンの発生に必要であることがわかる。
次に、p53 欠損後に起こる CNA を調べると、決してランダムではなく、これまで膵臓ガン発生に必要とされてきた遺伝子領域の欠損が、繰り返し起こっていることがわかる。すなわち、CNA はランダムに発生するが、発ガン過程で特定の CNA が強く選択されていることがわかる。
まだガンが発生していないステージで p53 欠損した細胞を調べると、CNA のほとんどは遺伝子のロスの方で、ゲインはほとんど見つからない。また、遺伝子ロスの種類はほとんど同じで、p53 によりゲノム安定性が傷害されると、その結果起こってくる遺伝子ロスやゲインのうちから、特定の遺伝子がロスした細胞が強く選択され、これが CNA を繰り返しながら、さらに悪性度を増していくという過程が浮き上がってくる。すなわち、膵臓ガン発生には、p53 に続いて、できるだけ細胞の増殖を抑えるガン抑制遺伝子をロスした後、その上に遺伝子ゲインも積み重なるという順序で発ガンが進行することがわかった。
最後に、新しい発見を念頭に、人間の膵臓ガンのゲノムを再検討して、人間でも同じことが言えると結論している。
以上が結果で、CNA の中でも、遺伝子ロス型とゲイン型の順序がこれほど明瞭に分かれていることは重要だと思う。すなわち、膵臓ガンの発生にはまず、p53 に続いて、ガンの増殖を阻む分子を取り除く過程が必須で、ここで取り除かれる遺伝子の種類は限定されている。今後、この過程を調べ直して治療標的を新しい観点から探して欲しいと思う。久しぶりに p53 について勉強できた。
2022年8月21日
昨日、口唇期、まだ目がよく見えない時期に、自己の母親との同一化が起こることを述べたフロイトの一説を紹介したが、この目の見えない時期にも、実際には光を感じることが出来る。これは光受容分子を持つ intrinsically photosensitive retinal ganglion(iPRG) が、視覚に関わる rod や cone細胞以外に網膜に存在し、光の存在を感じるからだ。この機能については、光を浴びて概日リズムを調整するなど様々な可能性が示唆されているが、今日紹介する中国科学技術大学からの論文は、iPRGを介した光刺激が、皮質のシナプス形成に重要な働きをすることを示した研究で、8月8日 Cell にオンライン掲載された。タイトルは「Melanopsin retinal ganglion cells mediate light-promoted brain development(メラノプシンを発現する網膜ガングリオン細胞が光り刺激依存性の脳発達を媒介する)」だ。
iPRGを介する光刺激が、新生児大脳皮質の発達を促進するのではと着想したのがこの研究の全てだ。
まず、iPRGの持つ光反応分子 Opn4 をノックアウトしたマウスと正常マウスで、大脳皮質の神経活動を調べ、Opn4(-)マウス、すなわち光を感じられなくしたマウスの視覚野や体性感覚野のみならずほとんどの皮質領域で、自然興奮活動が低下していることを確認する。そして、これが皮質錐体神経のシナプス数の減少の結果であること、さらに光依存的にシナプス数が高まることを確認する。すなわち、乳児期には外界を識別するための視覚は存在しないが、iPRG を介して光を感じ、この光刺激により皮質のシナプスを高めて、脳発達を助けることが明らかになった。
次に、iPRG からの神経投射をたどり、昨日にも話題になった視床の中で、オキシトシンを分泌する視索上核(SON)に直接シナプス結合し、さらに SON は同じ視床室傍核とも相互結合を持っており、このサーキットにより乳児期の光刺激によりオキシトシンが分泌され、これが脳に流れて、シナプス形成を高めていることを突き止める。
そして、この光刺激によるシナプス形成促進が、個体の学習能力に影響することを示し、光が私たちの脳の発達を助け、その後の学習に備える役割を演じていることを明らかにしている。
結論は以上で、光によって私たちの脳の能力が準備されるというのは面白い。しかも、この過程にオキシトシンが関わるのも、様々な連想を引き起こす。今後、人間の発達についても、この結果を下に見直されることになるような気がする。
いずれにせよ、視力にかかわらず iPRG の正常な乳児に光を浴びさせることの重要性がよくわかる。マウスでは生後10日で目が見え始めるが、人間では遅いことを考えると、光による脳発達誘導も、長く続く可能性がある。是非明らかにして欲しいものだ。