戦争は否応なく全ての住民の日常性を奪う。これは精神だけでなく、代謝においても同じだ。最も有名な例が、オランダ飢餓研究で、1944年の冬、ドイツ軍の封鎖により飢餓に襲われたアムステルダムの妊婦さんから生まれた子供が、中年に達してインシュリン分泌能が低下し、糖尿病リスクが高まることがわかった。同じように、妊娠中の代謝異常が子供のエピジェネティック変化を誘導する例は、逆の高脂血症や、高血糖でも報告されている。
今日紹介する中国浙江大学委学院からの論文はマウスを用いて妊娠中の高血糖から子供のインシュリン分泌不全までの分子過程を明らかにした研究で5月18日 Nature にオンライン掲載された。タイトルは「Maternal inheritance of glucose intolerance via oocyte TET3 insufficiency(母親から受け取ったグルコース不寛容は卵子の TET3 不足に起因する)」だ。
基本的にはマウスを用いた研究で、膵島を傷害して高血糖を発生させた母親の卵子を人工授精し、正常の母親に移植して、生まれてきた子供のグルコース代謝を調べている。従って、妊娠前の卵子に起こるエピジェネティックな変化を調べる実験と言える。結果は期待通りで、高血糖を経験した卵子から生まれた子供は、インシュリン分泌の低下による高血糖になる。
このように高血糖の卵子への影響に絞ることで、エピジェネティック調節因子の特定が容易になり、最終的にメチル化 DNA をハイドロオキシ化して脱メチル化に働く Tet3 の発現量が、高血糖により低下することを発見する。
高グルコースによる Tet3 の低下は試験管内でも再現できるし、また生殖補助医療で採取した卵子のドナーが糖尿病に罹患している場合も、Tet3 の低下が見られることから、ヒトでも同じエピジェネティック変化が起こることを示唆している。そして、おそらくこの効果として、インシュリン分泌経路に関わる多くの遺伝子で DNA メチル化が高まっていることを示している。
このメチル化変化が実際に Tet3 低下によるエピジェネティックな変化稼働か確かめるため、Tet3 遺伝子を卵子からノックアウトする実験により調べ、インシュリン分泌経路にある多くの遺伝子のプロモーターのメチル化が高まっていること、またその中でも膵臓のグルコースセンサーとして重要なグルコキナーゼ遺伝子プロモーターが、Tet3 の低下量に応じてメチル化が高まることを示している。
また、高グルコースを経験した卵子に Tet3 mRNA を注入すると、メチル化は正常化し、生まれた子供のインシュリン分泌能も上昇することから、Tet3 が卵子で起こるエピジェネティック変化の主要因であると結論している。
これまで、卵子のエピジェネティック変化についての論文は多く発表されているが、私が読んだ中ではメカニズムをここまではっきりさせたのは、この研究が最初だ。しかし、まだまだわからないことは多い。幸いこの系は、受精前の卵子に焦点を当てた研究なので、おそらく他の要因の影響も同じようにして調べることが出来るはずだ。研究の進展を期待する。