化合物の作用を手がかりに、生化学的過程を明らかにすることを chemical biology と呼ぶ。実際アスピリンなど、現在使われている多くの薬剤は、まず化合物の作用が発見され、薬剤として利用された後、その作用の生化学的過程が明らかにされたものだ。一方、分子生物学が発展して、特定の過程に関わる分子が明らかになった後、その分子の機能を抑制する化合物を開発することが、21世紀に入って加速している。例えば、新型コロナウイルスのプロテアーゼに対するパクスロビドや塩野義 S-217622 などはその例だ。特に最近注目されているこの種の薬剤には多くのガンのドライバーとして働いている変異型 K-ras 阻害剤があり、アムジェンのソトラシブや、Mirati のアダグラシブなど、実際の治験が進んでいる。
今日紹介するテキサス South-Western Medical Center からの論文は、エストロジェン受容体に対する標的薬を修飾するうちに、エストロジェン受容体への反応が消失する代わりに、ERストレスを誘導できる薬剤が開発できたという話で、標的薬開発と Chemical biology が合体したような研究だ。タイトルは「Targeting LIPA independent of its lipase activity is a therapeutic strategy in solid tumors via induction of endoplasmic reticulum stress(LIPAのリパーゼ活性とは異なる部位を標的にすると、固形腫瘍の小胞体ストレスを誘導して治療する薬剤になる)」で、6月2日 Nature Cancer に掲載された。
すでに述べたように、エストロジェン受容体に対する化合物 E-11 を様々に修飾しているうちに、エストロジェン受容体を全く発現していないトリプルネガティブ乳ガンの増殖を抑える薬剤 E-RX41 が出来てしまったところから、この研究は始まっている。即ち、化合物がまず存在し、その作用に関わる生物学的過程を明らかにする chemical biology がこの研究の柱になる。
この論文を読むと、chemical biology はこうあるべきだというお手本になる重厚な研究であることがわかる。順を追って、解説しよう。
- まず、エストロジェン受容体を発現しないトリプルネガティブ乳ガン(TNBC)に効果があることを確かめた後、ERX-41 により誘導される遺伝子発現から TNBC のERストレスを誘導して細胞死を誘導している可能性を発見、この可能性を生化学的、細胞学的に確かめている。
- 次にクリスパー/Cas9によるノックアウト解析で、ERX-41 抵抗性になる分子を探索、lysosomal acid lipase Aがその標的になっていることを突き止める。即ち、ER で LIPA の機能が阻害されるとERストレスが誘導され、ガン細胞の細胞死が誘導される。
- 幸いなことに、LIPA は正常組織での発現は少ない一方、多くのガンで発現が高まっており、今後様々なガンを抑える薬剤として使える。
- ERX-41は LIPA のリパーゼ活性ととは異なる、LXXL モチーフに結合し、これにより何らかのメカニズムで、タンパク質の折りたたみに関わる分子の発現を抑制し、その結果 ER に折りたためないタンパク質がたまってストレスが誘導され、ガン細胞が殺される。
以上、構造解析を含む可能な全ての方法が総動員され、LIPA への ERX-41 結合が、分子折りたたみに関わるシャペロンなどの発現を低下させ、ERストレスを誘導することで、多くのガンの弱点を突けることを明らかにしている。
実際には、副作用などについてさらに詳しい解析が必要とは思うが、是非 K-ras 阻害剤や、BRD阻害剤などに続く、新しい抗がん剤として発展してほしい。