男女の脳に、解剖学的、機能的差が存在していることは間違いない。例えば、男性の方が脳が大きく細胞数も多いことが分かっているし、自閉症スペクトラムは圧倒的に男性に起こりやすい。ただ、これらの差が人間の発生過程でどのように生まれるのかについては分からないことが多い。
今日紹介するケンブリッジのMedical Research Council研究所からの論文は、ES細胞から脳のオルガノイドを形成させるときに、様々なホルモン環境にさらすことで誘導される変化を、分子生物学的、細胞学的に調べた研究で、男女の脳発生の差についての細胞学的違いを特定したという意味で、重要な研究だ。タイトルは「Androgens increase excitatory neurogenic potential in human brain organoids(アンドロゲンは人間の脳オルガノイドの興奮性ポテンシャルを高める)」だ。
実験自体はオス・メス由来のES由来オルガノイドを、dihydrotestosteron(DHT)、testosteron(T)および、estrogen(E)で刺激し、細胞学的、分子生物的に淡々と調べており、特に何かが目を引くことはない。しかし、笹井さんたちが始めたオルガノイドが、ここまで安定的に人為的操作が加えられるようになっているのかと、感心した。
DHTとTを別々に調べているのは、Tはエストロゲンに変換されエストロゲンとして働く一方、DHTはそのまま男性ホルモン受容体(AR)だけを介して働くため、AR特異的刺激として扱えるためだ。実際、マウス脳発生では、不思議なことにTが一度Eに変換されて男性化を誘導するという不思議なことが起こっているのが知られている。
幸い人間のオルガノイドでは、DHTもTも細胞学的には同じ効果を示し、自己複製能を持つradial gliaの数が上昇する。そして、男性ホルモン存在下でこの細胞は基底層にとどまっていることから、分化が抑えられていることが分かる。この結果、この倍養系では男性ホルモンが存在すると大体10%程度細胞数が上昇する。
次に、この変化を誘導する分子生物学的基盤を発現遺伝子の比較から検討し、分化に関わる遺伝子、および代謝のハブmTORに関わる遺伝子の発現が大きく変化していることを突き止める。この結果に基づき、ヒストン脱アセチル化酵素を阻害する実験、およびmTORを阻害する実験を行い、男性ホルモンの作用をそれぞれの阻害剤が抑えること、逆に言うと男性ホルモンによりHDACおよびmTORが活性化されることが、脳の男女差を発生させる原因になっていることを示している。
感心したのは、オルガノイドの性質を変化させる培養法が存在することで、皮質培養から、もう少し背側側の脳オルガノイドを誘導し、自閉症スペクトラムや統合失調症に機能的に強く関わる抑制性神経の発生に及ぼす男性ホルモンの効果を調べる実験が行われている。驚くことに、この条件下での抑制性ニューロンの発生は、ほとんど男性ホルモンに影響されない。
この結果は、基本的に興奮性ニューロンだけが男性ホルモンで上昇することを意味しており、これが男が興奮しやすい原点かもしれない。
以上、言ってみれば男性ホルモンを培養中に加えるだけの実験だが、これだけの変化が発生で生まれることに驚く。この原稿を書きながら、「男と女の間には・・・」と歌っている野坂昭彦を思い出していた。