17世紀を振り返る最後に、ガリレオ・ガリレイに登場いただこう。生命科学の目で読む哲学書の読者にガリレイについて説明する必要はないはずだ。また、彼の著作は哲学書ではない。しかしこれから述べるように、私は近代哲学の産婆役を果たしたのがガリレオではないかと考えている。すなわち、直感や憶測に基づく独断的知識(=ドクサ)ではない、理性のある人間であれば共通に認め合うことができる客観的な真知(科学的知識=エピステーメー)のあり方(これに匹敵するものは他の分野ではまだ現れていない)を彼が示したことで、哲学の大きな変革を迫り、また哲学と科学、ドクサとエピステーメーの二元論に道を開いたのでないかと考えられている。
これまでデカルト、ライプニッツ、スピノザと17世紀の哲学者を取り上げてきたが、実はデカルトでもガリレオと比べて30歳以上若い。3人の哲学者も当然ガリレオの仕事を読んでいる。そう考えると、哲学とは全く無関係の男が、突然真知のあり方を示したことが、17世紀近代哲学の引き金になったと考えても、時間的には問題はない。
これまで私自身はデカルトの二元論を、心と身体の二元論としてではなく、追求すれば理解できること(=身体)と、追求してもわからないこと(=心)の二元論として勝手に解釈してきた。私の解釈がデカルトの意図と同じだったかどうかはわからないが、このエピステーメーとドクサの二元論にとって、間違いなくガリレオの影響は大きい。このように、哲学とは全く独立していても、科学は哲学に開かれ、哲学に変革を迫る。このインパクトを最初に受けたのがデカルトと言っていい。
ガリレオ以降も、科学から哲学へのインパクトの例を探すことができる。生物学からのインパクトの例は、何と言ってもダーウィンの進化論だろう。しかし、21世紀に入って脳科学が進展することで、さらに多くの同じような哲学へのインパクトが生まれるのではと期待している。他にも重要な最近の例をあげると、論理学とチューリング理論の関係がある。エピステーメーへの方法論を目指してきた論理学は、ギリシャ以来哲学の重要な分野として続いてきたが、20世紀に入ると数学者バートランドラッセルにより数理の枠組を融合して、無矛盾とは何かを求める研究が行われた。20世紀を代表するとされているヴィトゲンシュタインの著作も、この延長にある。これに対し、アラン・チューリングはチューリングマシンを提案し、現実世界(物理世界)の機械的動作に変換できる論理かどうかが無矛盾の基準となりうることを示し、見事に検証できる論理とは何かについての基準の確立に成功する。この結果(私の印象だが)、現代哲学から論理学という領域の重要性が低下したように思う。現実の物理世界や生物世界を説明することは科学だが、このように当然哲学にも大きな影響がある。
ガリレオ以前も、哲学とは独立した科学の萌芽は多く存在した。しかし、哲学や宗教の力は大きく、科学が考える世界は、決して哲学から独立することはできなかった。そこにガリレオが登場し、客観的とは何かを体系化していく。この過程は全く科学者ガリレオの個人的な活動だったが、逆説的にも、それが宗教裁判を経ることで、自然科学は新たに現れた新しい哲学から独立した知識体系として哲学に認識され、対峙することになった。この哲学と科学の二元的関係を確立したのがガリレオと宗教裁判の意義だ。
以上が、今回ガリレオについて私が言いたかった全てだが、まず彼の著作をざっとおさらいして見てみよう。
この稿を書くにあたって、ガリレイの著作三冊、「星界の報告」(講談社、Kindle版)、「偽金鑑識官」中公クラッシック、そして「新科学対話」岩波文庫を新たに読んでみた。
今回はそれぞれの内容について詳しく解説することはやめる。17世紀に書かれたといえども基本的には科学を通した自然の探究方法と理解が議論された本だ。このことは、今回続けてこの三冊を読んではっきり認識できた。読み進むと、ガリレイがまさに現代に生きる科学者と同じで、哲学を特別に意識することなく、純粋に科学から得られる知識を熱心に述べていることがわかる。まさに純粋の科学者がそこにいる。しかも現在の科学者と同じで、人間臭く、野心に満ちている。
たとえば・デビュー作と言える「星界の報告」を見てみよう。これはガリレオ44歳の時に出版され、オランダで開発された望遠鏡を天文学に導入する重要性と、これによる様々な観察、それに基づく考察が淡々と書かれており、天文学の面白さを一般の人(あるいはスポンサー)に伝えようとする意図が伝わる著作だ。現在の科学コミュニケーションの走りと言ってもいい。
そして最大のスポンサーだったコジモ・メディチにあてた謝辞で、彼が初めて発見した木星の惑星の命名について、
「庇護者であられるコジモ殿下、過去のいかなる天文学者にも知られていなかったこれらの星を発見しましたので、全く正当なこととして、それらに殿下の神聖なる仮名を付けようと私は決心したのです。私がそれらの星を最初に見つけたのであるなら、またそれらに名前を与、メディチ星とよぶとしても、誰が私を非難する権利を持つというのでしょうか」(講談社 星界の報告 伊藤和行訳)
と述べている。大変なごまのすりようだ。
科学者としてこの短い文章を読むと、「科学はすぐに金にならなくとも、名誉や名を後世に残すのに役立つと」熱っぽく語り、今後の研究支援を要求しているように見える。研究のために権力者にこびるのをいとわない。この点でも、現代の科学者も基本的には違うところはない。
その後、彼は教皇にも直接面会するトップサイエンティストとして世界に名を知られるようになる。今で言えばノーベル賞級の学者になる。しかし有名になったが故に、否応なしに地動説をめぐる論争に巻き込まれる。そして1615年には第一次ガリレオ裁判で、地動説を封じられる。この時はある意味で温情に満ちた判決を受けている。一次ガリレオ裁判がこの程度で済んだのは、彼の業績をバチカンも権力者も高く評価していたからだと思う。しかし科学者にとって、宗教的ドグマを理由に自説を自分で否定することは忸怩たるものがあるはずだ。おそらくやりようのない気持ちで毎日を過ごしていたはずだ。そんな1619年に始まったのが、イエズス会・ローマ学院教授グラッシとの彗星を巡る問題についての論争で、表向きは彗星とは何かについての論争だが、その背景にある宇宙観(=科学観)が直接戦わされることになる。この論争の中で書かれたのが「偽金鑑識官」だ。
ガリレオの生涯については、私が大学生の頃出版された中央公論社「世界の名著・ガリレオ」の責任編集者であった、当時、名古屋大学教授の豊田利幸先生が書かれた200ページにわたる解説(この本が一般に手に入らないのは残念だ)が優れている。その中で偽金鑑識官について面白いコメントを述べておられるのでまず紹介したい。(下図は私が医学部を卒業した時に出版された世界の名著に挟まれていた付録。豊田先生と、何と湯川先生の対談が掲載されている。)
「(最終的に書き上がってきた本は)、毒舌の雄で、しかも筆力にかけては当代並ぶものがないとされたガリレオが、いったん決意して筆を取ったのであるから、その文章は、これ以上相手を怒らせるものはない、と思われるくらい、誠に痛烈なものである。この本が、古来、「論争のバイブル」と言われる所以である。」
私が「偽金鑑識官」を読んで感じたのも、全く豊田先生が書かれているとおりだ。このように、「偽金鑑識官」を読むと、名を遂げた有名な科学者が、彼から見ておおよそ科学者とは思えない小物、偽科学者グラッシの致命的誤りを容赦無く罵倒するアグレッシブな研究者の姿が浮かんでくる。実際このような有名科学者によるアグレッシブな論調は現在でも多く見ることができる。
しかしこの論争の場合、現代と違って問題は科学的論争で止まらない。グラッシは科学者としては小者でも、イエズス会、そしてその背後のカソリック教会の権威を背負って論争に参加している。結局科学的論争は、必然的に教会のドグマ批判へと向いてしまう。
そんな中で、プロレマイオスのような過去の権威をかさに、宇宙を説明しようとするグラッシに対し、この本の最も有名な一節が述べられる。
「サルシ(グラッシが偽名で論争に参加している)さんとやら、そうは問屋がおろしませんぞ。哲学は目の前にたえず開かれているこの最も巨大な書(すなわち宇宙)のなかに、書かれているのです。しかし、まずその言葉を理解し、そこに書かれている文字を解読すること学ばない限り、理解できません。その書は数学の言語で書かれており、その文字は三角形、円その他の幾何学図形であって、これらの手段がなければ、人間の力では、その言葉を理解できないのです。それなしには、暗い迷宮をむなしくさまようだけなのです。それにしても、たといサルシがいうみたいに、私たちの知性は、誰か他の人間の知性の奴隷にならなければならないと仮定し、天体の運動を考察する際には、誰かの説に同意しなければならない・・・・・」(中公クラッシックス:山田慶兒、谷 泰訳)
ガリレオの考える真知とは何かが、この一節に集約されている。すなわち、
1) 理性のある人間なら共通の理解に到達できる哲学(自然世界)が存在する。
2) これまでの権威やドグマといった人間の力(人間の憶測や思いつき)にだけ頼っては、自然は本当に理解できない(=ドクサの否定)。
3) 代わりに、数理や実験など他の人と共有できる方法を用いて、世界の共通理解を目指す必要がある。
と主張している。
ここでは自然の言葉として数理や幾何学の話が引かれているが、要するに人間が勝手に想像する世界とは異なる数理や幾何学を適用できる世界が存在すること、そして正しい手続きを踏めばこの世界についての共通の理解が得られること述べている。ただ注意して欲しいのは、ピタゴラスのように世界が数理でできていると主張しているのではない。逆に、数理や幾何学は、世界を理解するための我々が設定する一種の仮説で、数理が当てはまるかどうか検証するための実験が必要になる(ガリレオは多くに実験を行なったことで有名だ)。
現在、科学は様々に定義されているが、突き詰めていくと、理性を持つ人間であれば共通の理解が可能な世界を、他の人と理解を共有するための哲学や宗教とは異なる明確な手続き(数理であったり実験であったり)を設定し、それにもとづいて世界の理解を不断にアップデートしていく過程と言っていい。こうして生まれる知識は、完全に個人の憶測や思いつき(ドクサ)を排除した知識で、決して絶対的ではなく、常に未完ではあるが、発展的だ。このような観念を生み出すためのプロセスが科学だ。重要なことは、この科学知識を得るプロセスは、それまでの哲学や宗教から全く独立している。
しかし、独立しているから宗教や哲学と無関係とはいかない。逆に哲学や宗教から全く独立しようとしたからこそ、ガリレオは最終的な迫害の対象になり、公開の第二次ガリレオ裁判で厳しい判決を受け、引退生活を強いられる。
この隠遁生活の中で書かれたのが「新科学対話」で、引退した老科学者が若い学徒に科学とは何かについて、アリストテレス を信奉する学者を交えて話し合うスタイルで描かれている。そして、この本で彼は、歴史的にも宗教や哲学から切り離すのが難しかった天文学ではなく、彼が多くの実験を重ねて体系化してきた力学に焦点を当てて教えている。
これまで天文学者ガリレオについて主に述べてきたが、ガリレオを科学の父にしたのは「新科学対話」や「機械学(レ・メカニケ)」にまとめられた力学研究かもしれない。事実、ガリレオの実験として最も有名なのは、ピサの斜塔から大小異なる重さの球体を落とした、落下の法則を示すための実験、教会で揺れるランプを見て発見したとされる振り子の等時性の実験のような力学実験だ。この研究により、彼は加速度や、慣性といった、後にニュートンにより体系化される力学を準備した。
このように「新科学対話」はガリレオの到達した地点がまとめられた教科書と言える。かっては野心に満ち、アグレッシブな科学者だったガリレオも、物静かな純粋な科学者として、彼が到達した知識を後進に伝えようとしているのがしみじみわかる。
以上、ガリレオの3冊の著作について、内容の紹介はスキップして、その雰囲気だけを短くまとめてみた。科学者も社会の中で生活し研究しており、ガリレオが世間と積極的に関わっていたことが最初の2冊からはわかる。しかし彼の研究の集大成と言える最後の「新科学対話」では、科学が政治、宗教、そして哲学からも完全に無関係な存在であることが示される。ただ、「新科学対話」に示された新しい方法論は、どれほど世間や哲学から独立していても、ガリレオがバチカンの法廷に引きずり出されたことで、哲学や宗教に新たな問題、すなわち「科学以外にドクサを排したエピステーメーに至る道はあるのか?」と問いをつけることになる。この問いを最初に受けとめたのが、デカルトで、近代哲学はこの突きつけられた問いから始まったと言っても過言でない。
独断的ガリレオの紹介はここまでにして、最後に、非哲学的であったが故に、哲学に対峙する科学という二元的構造の原因を作ったとしてガリレオ批判(=科学批判)を行った20世紀の2人について紹介したい。
「新科学対話」に書かれた、哲学や宗教から独立した新しい知識が、宗教裁判により裁かれたが故に、哲学からの完全分離を自ら求めたことが、人類に新しい問題をもたらしたのではないかと呼びかけたのが、ドイツの劇作家ブレヒトの「ガリレオの生涯」だろう。
この劇では、私が説明してきたように、野心に満ちた世俗的科学者としてのガリレオ、有名になったが故にバチカン法廷に引きずり出されたガリレオ、そして引退して「新科学対話」に取り組む静かなガリレオが描かれるが、劇の最後はガリレオの遺作「新科学対話」が、イタリアの国境を越え世界へと伝えられるシーンで終わっている。
この場面の最初に挿入されたソネットを見てみよう。
さて、この結末をどう考えよう。
知識は国境を越えて亡命し、
知識に飢えた我々は私も彼も取り残された。
いまこそ科学の光を監視して
悪用せずに、活用すること。
でないとそれがいつか火の玉になって
我々みんなを焼き尽くす、
そう、そんなことにならぬよう。
ブレヒト. ガリレオの生涯 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2618-2622). Kindle 版.
お分かりのように、ブレヒトは科学のインパクトを、「我々を焼き尽くす火の玉=原爆」と重ねている。すなわち、哲学から独立したことで、科学が我々を焼き尽くす火を造ってしまうことを予言している。そして「新科学対話」の入った木箱がイタリアの国境を抜けようとするとき、それを見た何もわからない子供達に、その箱を「悪魔の箱」と呼ばせ、その子供達に最後にガリレオの教えを受けた科学者代表アンドレアが次のように科学の可能性を語って終わっている。
アンドレア(振り向きながら)
違うよ、私がやったんだ。ちゃんと目を開けて見ることを学ばなくっちゃ。・・・・・・。そうだ、ジュゼッペ君、君の質問にまだ答えてなかったよね。棒っきれに乗って空を飛ぶことはできない。少なくとも、それには機械が必要だが、そんな機械はまだできていないんだ。もしかしたら永遠にできないかもしれない、人間は重すぎるからねえ。でももちろん、わからないさ。僕らの知識はまだまだ足りないんだよ、ジュゼッペ君。まだほんのとばくちに、立ってるだけだからね。
((光文社古典新訳文庫 ブレヒト作「ガリレオの生涯」 長谷川道子訳)
すなわち、「科学は、「目を開けてみることを学ぶ」ことから始まる。しかし、どこまで知識が深まり、技術が発展するかを予想することは科学ではない。すなわち、常に未完であることが科学の特徴と言える。そして、未完であることを認識するからこそ、科学は将来も発展し知識をアップデートし、新しい技術を創造し続けるのだ」と述べて終わる。
もちろんこの台詞は、20世紀までの科学の発展と、その戦争利用を実感したブレヒトが書いた、極めて現代的な台詞だが、ガリレオ以降、科学の社会や哲学へのインパクトは指数関数的に高まり、現在に至っている。
ガリレオにより示された新しい世界理解の方法論が、従来(例えばプラトンやアリストテレス )の自然理解と決定的に異なる点は、世界から目的や意味を排除した点だ。これこそが科学と哲学の二元構造が生まれる理由だが、このことをよく示すのが「科学の客観性」と「科学中立論」と表現されてきた概念だ。ブレヒトはガリレオだけでなく、原爆計画に関わったアインシュタインについても戯曲を書こうと計画していたようだ。これは「科学がナチスであろうと連合国であろうと、全ての人間が利用できる客観性と中立性を持つが故に、米国に原爆製造の重要性を説いた」アインシュタインを描くことで、客観性と中立性を掲げて世界から独立してしまった、原爆に象徴される科学の責任を描こうとしたからだと思う。
もう一人ガリレオ批判として紹介したいのが、「本当に科学と哲学の関係はこのままでいいのか?」について、ガリレオにまで遡って考えた20世紀前半を代表する哲学者、エドムンド・フッサールとその著書「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」だ。
この本はナチス政権が始まった時期に、ウィーンとプラハで行われた講演をベースにまとめられた著作だ。本の出だしの第4章のタイトルは、「新たな学は初めは成功したが、結局挫折した。その動機は解明されていない」というセンセーショナルなもので、
「人間が、みずからの理想とする普遍的哲学と新たな方法の有効性に対する生き生きとした信頼を喪失したためであろう。そして実際その通りことは進行した。この方法が確かな成果を上げ得たのは、実証科学においてだけだということが明らかになったのである。形而上学、したがってまた特別な意味で哲学的な諸問題―そこにも一見成功を収めて希望に満ちた端緒がないわけではなかったのだがー諸々の事実事情は違っていた。この哲学的な問題を諸々の事実学に結びつけた普遍哲学は、強烈な印象を与える体系哲学という形をとったが、残念なことにそれは一つの哲学に帰一することなく、相互にバラバラな多くの哲学となった。」
と述べて、デカルト以来のヨーロッパ哲学が、彼が「我々が驚嘆してやまない純粋数学や精密自然科学」(=事実学)を統合できずに、結局「バラバラな多くの哲学」に分散してしまった原因を探ろうとしている。
重要なのは、このヨーロッパ哲学史の分析が、ガリレオの実証科学の方法論のインパクトの分析と、これを受け止めたデカルト二元論の失敗から始まっている点だ。すなわち、科学は、「経験によって自明なものとしてあらかじめ与えられている世界を基盤としてその「客観的真理」を問い、世界にとって、つまり全ての理性的存在者にとって無条件に妥当する」エピステーメーへ到達する方法論を確立したが、その過程で、知識から意味や目的を排除したことを問題視している。
まず、
「ガリレイは幾何学と、感性的な現れ方をし、かつ数学化されうるものから出発して世界へ眼を向けることによって、人格的な生活を営む人格としての主体を、またあらゆる意味での精神的なものを、さらに人間の実践によって事物に生じてくる文化的な諸性質を全て捨象する。」
と述べて、ガリレオが「事実学」にただただ集中するだけで、主体としてその目的や意味を求めることは全くなかったと明言し、返す刀で自然科学者についても、
「だが、せいぜいのところ方法の最も優れた技術家――彼がひたすら追求する発見もその方法のおかげをこうむるーーでしかない数学者や自然科学者は、このような省察を遂行する能力を全く持っていないのが普通である」
と、これからも自然科学の側からもう一度普遍的哲学を目指すことは絶対あり得ないと結論している。
このように、ブレヒトやフッサールからみると、科学自体が意味や目的を科学に取り戻すことはないことを強調している。もちろん私自身もこの批判は重く受け止める。要するに科学は科学者を首から上のない機械にしてしまうと批判されている。しかし、私は科学者が哲学を勉強したら、首から上が自然にできてくるとは思わない。逆に、私から見て多くの哲学者は、首から下のない人間になってしまっており、フッサールが嘆くように普遍的哲学の可能性は失せようとしている。
楽天的な私は、おそらく21世紀、脳科学や生命科学がさらに発展することで、もう一度普遍的哲学、あるいは普遍的科学が可能になるように感じている。もちろん、これには科学と哲学の率直な対話は必要だが、世界の各所でこの動きを感じることができる。そして、この動きを伝えることが、生命科学の目で読む哲学書の使命だと思っている。
これで17世紀についての紹介を終わるが、次は大陸からのブレクジット、英国経験論の哲学者を紹介する。