音や光といった物理的刺激に対する感覚細胞は、発生及び成長過程で確立されると、ほぼ置き換わることはない。しかし、嗅覚の入り口にある嗅細胞は一定の期間で新しい細胞に置き換わる。それにもかかわらず、匂いの感覚が変化せず維持されるのは、バラバラに存在する嗅細胞が、発現する受容体に合わせて嗅球の特定の場所に投射し、そこからつねに一定の感覚サーキットを再構成できるからとされてきた。すなわち嗅球で形成されるパターンが匂いの認識の基盤になっていることになる。実際、先天的に匂いが感じられない人では、嗅球は存在しない。
今日紹介するイスラエル・ワイズマン研究所からの論文はMRI検査で全く嗅球の認められない、しかし嗅覚は正常な女性が発見されたという話で1月8日発行予定のNeuronに掲載された。タイトルは「Human Olfaction without Apparent Olfactory Bulbs(明確な嗅球がない人の嗅覚)」だ。
これまでも動物実験で嗅球を壊す実験から、嗅球がなくても嗅覚を回復できる可能性を示す実験結果は出されていた。ただ、このような実験はどこまで障害が及んでいるか評価が難しく、人間で先天的に嗅覚がない人は嗅球がないので、嗅球は嗅覚に必須というのがこれまでのドグマだった。
このグループはMRI画像をスクリーニングしているうちに女性2例にはっきりした嗅球がないことを発見した。様々な解析を繰り返し、嗅球が存在したとしても正常の0.18%以下の大きさで、匂いパターンの認識に必要な6000近い嗅糸球体は存在しても10個以下であることが推察された。また、水の動きを調べて神経結合を測定するMRIで調べても嗅覚を統合する一次嗅覚野からの神経連絡が欠損していることがわかった。とはいえ、機能MRIでは匂いに反応して嗅覚野が興奮していることが確認されるので、間違いなく嗅上皮からシグナルは到達している。ただ、一次嗅覚野がどこと結合しているのかはこれらの検査では明らかにならなかった。
次に様々な方法で徹底的に嗅覚機能を調べている。一人は機能、特に匂いの分別機能が正常の下限にあるが、それでも正常範囲で、先天的な欠損症と比べると、一応正常範囲といえる。
この2例が特別なケースかどうか調べる目的で、さらに大きなMRIデータベースを調べたところ、なんと0.6%が同じような嗅球欠損が認められ、しかも全て左利きの女性だった。
事実は小説より奇なり、の典型で謎が残っただけの症例報告だが、左利きの女性に今のところ限定されており、左利き女性ならなんと5%にこの異常が認められることから、さらに大規模な調査が行われるだろう。
一番知りたいのはどこが嗅球の代わりをして、嗅糸球体はどのように分布して匂いのパターンを維持しているかだ。もちろん左利きの謎もある。結構多くの論文が続きそうな予感がする。