一般の人には双極性障害という言葉は馴染みがないかもしれないが、以前は躁鬱病と言われていた気分障害で、基本はうつ病と同じだが、その中で気分が高揚するそう状態が現れるケースをさす。一見うつ病に近いように思えるが、統合失調症と重なる点が多く妄想や幻覚も発生する。また遺伝子相関を調べると、うつ病より統合失調症と重なる点が多い。この遺伝子相関の中でも注目されているのが、インシュリン受容体をはじめ様々な増殖因子受容体の下流シグナルの核となるAKT1やAKT3遺伝子の変異で、いずれも両疾患で高い相関が見られる遺伝子として知られる。
今日紹介するウィスコンシン大学からの論文は、遺伝子相関からさらに一歩進めて、AKTシグナル経路の活動について双極性障害と統合失調症の脳で比べた研究で5月5日発行予定のNeuronに掲載された。タイトルは「Akt-mTOR hypoactivity in bipolar disorder gives rise to cognitive impairments associated with altered neuronal structure and function(双極性障害で見られるAkt-mTOR活性の低下が神経細胞の機能と構造を変化させ、認知障害を発生させる)」だ。
この研究のハイライトは凍結脳組織を集めた一種のバイオバンクから、統合失調症、双極性障害、そして健常人について、言語野を含む脳領域の組織片を手に入れ、オーソドックスなウェスタンブロッティングを用いて、AktとmTOR経路の活性を、リン酸化の程度で調べたことだ。このような実験は、かなり以前にはよく行われていたように思えるが、それぞれのシグナル経路とその機能が明らかになった今、もう一度調べ直すことの意味は大きい。
この研究では、双極性障害をさらに、男女、および幻覚/妄想などの精神症状の有無でグループ分けして比較している。
結果だが、PI3K、AKT、mTORとこのシグナル経路の核になる3種類の分子のリン酸化の程度が、妄想などサイコーシスがない双極性障害、しかも男性だけではっきりと低下している。一方、統合失調症の同じ領域ではmTORの発現量が少し低下しているかなという印象はあるが、リン酸化の程度は全く変化がない。
さらにこのシグナルの下流分子のリン酸化を調べ、やはり男性のサイコーシスのない双極性障害(BP-NP)だけでオートファジーに関わるULK1や翻訳に関わるp70S6Kなどのリン酸化が低下していることを発見する。
人間の脳での実験はこれだけで、双極性障害の男性で、サイコーシスがない場合だけでPI3K、AKT、mTORとその下流のシグナルが低下していることが明らかになった。
あとはマウスの前頭皮質にAKTのドミナントネガティブ型遺伝子を投与して、このシグナルを低下させた時に起こる変化を調べ、空間と物体の認知を合わせて調べる課題が強く抑えられること、さらにこれに呼応して錐体神経の樹状突起のスパインの数や形態が大きく変化し、また神経興奮も低下していることを示している。ただ、マウスではオスメスで差が見られず、人間の状態を再現するまでには至っていない。
以上、マウスの実験はあくまでも添え物で、患者さんの脳をウェスタンブロッティングによるリン酸化タンパク質の定量というオーソドックスな方法で、AKT-mTOR経路のシグナル低下があることを示した点だろう。今後は、マウスの実験もオプションとしてはあるが、mTORを抑える治療を行った患者さんの脳症状を調べたり、あるいはiPSを用いた研究で、この異常のさらに上流の原因に迫るることが必要になると思う。
以前は精神疾患の脳組織の代謝を調べる実験はよく行われていたような気がする。しかし、それぞれの分子の機能がわかってきた今、もう一度見直してみると、新鮮な発見があることがよくわかった。