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11月23日 カスパーゼ8経路と細胞死の複雑さ(11月21日号Nature掲載論文)

2019年11月23日
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研究が進めば進むほど、外野から分かりにくくなっていく領域がある。最近で言えばその典型が細胞死の分野だと思う。私たちの学生時代は、細胞死=ネクローシスだった。しかしこんな細胞の死に方は周りの迷惑になる。ところが、発生では落ち葉が落ちるように、周りを助けるために多くの細胞が静かに死んでいく。これがプログラムされた細胞死で、私がまだ現役のうちに急速に進んだ。現在阪大の長田さんをはじめ、アポトーシスの分野をリードしたわが国の研究者は多い。ところが、それぞれの生化学的経路がわかって、カスパーゼ同士の相互作用や炎症との関連がわかり始めると、急速にこの分野は複雑になる。その結果、今やネクローシス、アポトーシスをはじめ、ネクロトーシス、ピロトーシスなど、専門家以外にはフォローが難しい状態になっている。

今日紹介するケルン大学からの論文はこの複雑さの鍵となっているカスパーゼ8を、ほぼ全て遺伝子改変を用いたマウス遺伝学を追求した研究で、この研究分野の複雑さがよくわかる例として選んだ。タイトルは「Caspase-8 is the molecular switch for apoptosis, necroptosis and pyroptosis (カスパーゼ8はアポトーシス、ネクロトーシス、そしてピロトーシスの分子スイッチになっている)」で、11月21日号のNatureに掲載された。

アポトーシスは静かな死と言えるが、これにはカスパーゼ8がカスパーゼ3を活性化することが関わっている。しかし、時により周りの細胞を守るためには静かな死ではなく、大騒ぎした死に方も大事で、プログラムされたネクローシス、すなわちネクロトーシスの存在が提唱され、この時中心になるのもカスパーゼ8であることがわかった。しかし、カスパーゼ8はまるっきり異なる細胞死に関わるとすると、その分子機能は多様で精密に制御される必要がある。

この研究では、カスパーゼ8のセリンプロテアーゼ活性だけを欠損させたマウスを作成して、酵素活性とは異なる部位のカスパーゼ8の機能を調べている。細胞系列特異的ノックアウトや、他の分子のノックアウトと掛け合わせたレスキュー実験など極めて複雑で、時間のかかった力作だが、あまりにも複雑なので、詳細は全て割愛して結論をまとめてみる。

血管内皮、皮膚、腸管上皮特異的に変異型カスパーゼ8(mC8)を導入すると、炎症の誘導を伴う様々な異常が誘導できる。すなわち、カスパーゼの酵素活性がなくても様々な異常を誘導できる。この時、ネクロトーシス経路が活性化される場合はMLKL分子が必須で、実際この分子のノックアウトしてやるとネクロトーシスは抑えられる。そこで、mC8マウスにMLKLノックアウトを掛け合わせることで、それぞれの組織異常が正常化するか調べると、心臓血管系、皮膚の異常は完全に抑制できることがわかった。すなわちこれらの組織では、カスパーゼ8の酵素活性がないと、ネクロトーシスが活性化される、賑やかな死が誘導されて、様々な異常がおこる。一方腸管では、MLKLをノックアウトすると、さらに異常が強くなることがわかった。

この原因を調べるうち、サイトカインが多量に分泌されるようになること、そしてASC分子の沈殿が起こるという、カスパーゼ1が主役のピロトーシスが起こっていることに気づく。すなわち、腸管ではカスパーゼ8がピロトーシスのスイッチに効いていることが明らかになった。実際、カスパーゼ1やASCノックアウトをこのマウスにかけ合わせると、腸管の異常は消えることも確認している。

以上が結果で、カスパーゼ8の酵素活性がアポトーシスに関わることを考えると、カスパーゼ8は様々な分子との相互作用を介して、静かな死から、賑やかな死まで様々な死に方の選択に関わっているという結論だ。しかし、余計にわかりにくくなったかもしれない。

カテゴリ:論文ウォッチ

11月22日 半球切除をうけた小児は片方の脳半球欠損をどう乗り越えたのか(11月19日 Cell Reports掲載論文)

2019年11月22日
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大人の脳でも、卒中や手術で失われた機能をかなり回復させられる。すなわち、新しい脳回路を開発できる可塑性を有している。しかし、この能力で見ると小児の可塑性は大人の比ではない。このことは、てんかん発作を止めるために片方の脳半球をほぼ完全に切除した小児を調べることでわかる。もちろん最初は左右の脳半球を使う感覚や運動が失われるが、例えば視覚などの能力はかなり回復させることができる。さらに、言語能力のような高次機能は、正常に発達することが知られている。

今日紹介するカリフォルニア工科大学からの論文は、6人の大脳半球切除を受けた子供(3ヶ月で手術した子供を除くと、手術は4−11歳と、言葉が始まってから行われている)の脳のネットワークをMRIで詳しく調べた論文で11月19日号のCell Reportsに掲載された。タイトルは「Intrinsic Functional Connectivity of the Brain in Adults with a Single Cerebral Hemisphere(片方の大脳半球しか存在しない成人脳の機能的結合性)」だ。

研究ではまず機能的MRIでの血流の上昇の同調から各半球200に分けた区分間の結合を調べ、さらに安静時の各部位からの神経の伸びる方向性を解析するテンソルMRIが、機能的結合と一致することを確認し、脳のネットワークを7種類の基本ネットワーク(視覚、運動 などなど)に分解している。このネットワークを基礎にして、片方の脳しか残っていない患者さんでの神経結合と、正常の脳の結合を調べている。

成人するまでに残った方の半球で新しい脳回路が形成され、失われた半球の機能をできるだけ代償していると考えられるが、どの程度のリモデリングが起こっているのかが最大の焦点になる。

まず大事なことは、このようなネットワーク内、ネットワーク間の結合性は個人によって大きく異なり、脳がいかに多様であるかを物語っている。このことを念頭に半球切除した人の結合を見ると、驚くことに、視覚も含めてそれぞれのネットワーク内での結合性はほとんど正常範囲内で収まっている。しかし、異なるネットワーク間の結合性を調べると、片方が欠損した人たちは、結合性がかなり上昇している。

面白いことに、何か特定のネットワーク同士の結合が高まるというより、全体にネットワーク間の結合が上昇しており、それぞれの上昇の程度は6人それぞれまちまちであることも明らかになった。しかも、上昇した結合のマップは、正常の人とはかなり異なり、片方の脳の欠如を補うための特異的な変化が見られることがわかった。

以上がこの研究からの重要なメッセージで、なるほど脳はそれぞれの問題を回路開発で解決していると納得してしまう結果だ。しかしよく考えると、せっかく新しい回路の詳細がわかるのだとすれば、新しい回路の機能的側面を示す努力があっても良かったと思う。おそらくこれからの研究だと思うが、これがないと、「なるほど人間の脳の可塑性はすごい」と終わってしまうだけだ。しかし、医療の進歩のおかげで、ほとんど想像もできない脳の状態に遭遇できることは確かで、今後このような患者さんの承諾を得て、詳しく調べることで、新しいリハビリテーションの手がかりが得られると期待される。

カテゴリ:論文ウォッチ

11月21日 満腹感はどこからくる(11月14日号Cell 掲載論文)

2019年11月21日
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光遺伝学が開発されてから、食欲など動物の行動や快感に関わる神経回路が続々明らかにされているが、よく考えてみると食べたという満腹シグナルがどこからくるのかについては、胃を膨らませる機械的刺激を与える研究から、胃の機械的刺激を感知する迷走神経から満腹シグナルがくると思い込んでいた。

ところが今日紹介するカリフォルニア大学サンフランシスコ校からの論文は、満腹シグナルが胃より腸の迷走神経から強く入ってくるという意外な事実を示した研究で11月14日号のCellに掲載された。タイトルは「Genetic Identification of Vagal Sensory Neurons That Control Feeding (摂食を調節する感覚迷走神経の特定)」だ。

この論文から、現在の神経科学がどれほどダイナミックに進むかがよくわかる。まずquestionはどの迷走神経が満腹感を誘導するかだが、迷走神経は極めて多様だ。そこでまず、迷走神経が存在する神経節に蛍光標識遺伝子を導入、感覚迷走神経だけで遺伝子スイッチが起こるようにして、消化管に投射している迷走神経端末を調べ、それぞれの組織で形態学的に複雑な迷走神経端末が存在すること、また同じ迷走神経が異なる組織に投射することは極めて稀であることを確認している。

次は、各組織の迷走神経を別々に特定する分子マーカーの開発が必要になるが、これには消化管でラベルして調整した迷走神経を500個手作業で分離して、single cellトランスクリプトームアッセイを行い、全部で17種類の細胞に分類できること、そして9種類のクラスターについて特異的な分子マーカーを開発している。

さらに、この分子マーカーによるクラスターを、迷走神経の中枢神経節から採取した細胞のsingle cellトランスクリプトームと比較し、迷走神経全体ではそれぞれの組織、例えば消化管以外にも心臓などの内臓に投射する27種類のクラスターが存在し、この中に消化管からラベルしたクラスターも存在することを確認している。

このように分子マーカーが開発できると、それぞれの発現と機能を組織場で確認できるが、特に細胞の伸長など機械刺激を感じる迷走神経特異的分子マーカーを使った光遺伝学で、各組織の迷走神経を別々に刺激、食欲の変化を見てみると、これまで満腹感に関わると考えられてきた胃のストレッチを感知する迷走神経刺激では食欲はほんの少ししか抑えられず、代わりに小腸に分布する機械刺激を感知するタイプの迷走神経刺激で強く食欲が抑えられることがわかった。

満腹感につながると考えられるストレッチを感知する迷走神経が明らかになったので、次にこの神経が中枢の満足中枢と結合しているかを調べている。詳細は省くが、期待通り視床下部で摂食を高める働きのあるAgRP神経の活動を、小腸の迷走神経が抑制して食欲を抑えていることを明らかにする。

この回路を確認するために、すぐに小腸をストレッチできるマンニトールなどを摂取させる実験を行い、小腸が膨らむとAgRPの活動が低下、摂食が低下することを確認している。しかし、胃がまず膨らむセルロースではこのような反応が見られないことも確認している。

実際には正確を期すためにさらに詳しい実験が行われているが、紹介は割愛する。満腹は胃ではなく小腸で感じるという意外な話だが、なんとなくわかる気もする。というのも、同じ量食べても、満腹感がない場合と、ある場合が確かにある。胃で感じるならこんなことはないはずだ。甘いものは別腹というのも同じ原理かもしれない。ただ、これは全く科学的根拠がないので私の独り言として聞き流して欲しい。

カテゴリ:論文ウォッチ

11月20日 電子カルテと燃え尽き(Mayo Clinics 紀要オンライン掲載論文)

2019年11月20日
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このブログは医師の方々にも読んでいただいているが、今日は医師の労働環境についての論文を紹介したい。

私が病院で働いていた頃は、ワープロすらなくカルテは全て手書きと、返ってきた検査データ伝票を貼ることで作っていた。もちろんレントゲンもスケッチは欠かさなかった。しかし現在ほとんどの病院で電子カルテが導入されている。その結果、患者さんが来ると(私は自分で診察をすることはないので、全て患者として医師に診てもらっている)医師はまずPCに向かって検査データを見たり、訴えを書き込んだりするのが普通になっている。

もちろん医療レコードを整理して保存するという意味では電子カルテシステムはデータを共有するという意味で、手書きのカルテに代わるのが当然で、ぜひ日本中の医療機関で同じプラットフォームの電子カルテが導入されることを願う。しかし、最近患者の立場で診療所に行くと、医師がコンピュータに向かっている時間が長くなったのではないかと心配してしまう。ベテランならともかく、おそら経験の少ない医師ほど、コンピュータに縛り付けられる時間は長くなるのではないだろうか。電子カルテシステムが本当に医師の労働の重しになっていないか、常に見直すことは重要だ。

今日紹介するエール大学からの論文は、電子カルテを使うことを義務付けられた現在の米国の医師たちが、電子カルテの使い勝手をどう思っているのか、また最近問題になっている燃え尽き症候群と電子カルテの使い勝手からくるストレスと関係あるかについてアンケート調査をした論文でMayo Clinic紀要にオンライン掲載されている。タイトルは「The Association Between Perceived Electronic Health Record Usability and Professional Burnout Among US Physicians (米国の医師の電子カルテの使い勝手についての感覚と専門職の燃え尽き症候群の経験)」だ。

調査では、電子カルテの使い勝手をsystem usability scaleと呼ばれる評価基準に従って調べている。このスコアで最も使い勝手がいいのはグーグル検索で100点満点の93、みなさんが使っているGPSは71、エクセルソフトは57という結果になっている。診療科を問わず約3万人の医師に協力を依頼、その中で承諾を得た1250人に詳しいアンケートをおくり、870人から完全な回答を得ている。同時に、燃え尽き症候群を診断するための診断ツールで、それぞれの医師の燃え尽き度を診断してもらっている。

結果だが、使い勝手のスコアは平均値で45と、大至急改善が必要という結果が出た。もちろん一人一人が付けた点数は多様で、10以下から90まで正規分布している。高い点数をつけているのが、麻酔科、小児科、内科とともに、なんと救急まで入っている。一方、低い点は整形外科、一般外科の医師がつけている。しかし最も点数が高い麻酔科でも50止まりだ。すなわちまだまだ改善の余地があるということだ。

次に、各人がつけた使い勝手点数と、参加者の自己診断に基づく燃え尽き度を調べると、使い勝手が悪いと感じている人ほど、燃え尽き度が高いことがわかった。各科ごとに見ていくと、神経内科や救急のように使い勝手点数が高かったのに、燃え尽き度も高いというケースもあり、燃え尽き度が電子カルテで決まるとは思はないが、少なくともなんらかの形で寄与していることは確かなようだ。

結果は以上だが、最も重要なことは、電子カルテをさらに発展させる重要性だろう。パソコンと違って、一度導入するとフォーマットを変えにくいことはわかる。しかし、パソコンが普及し始めるとき、アップルのアイコンシステムが、使う側に立って考えるシンボルとなったように、user friendlyかどうか常に医師の方から声を上げることが重要だと思う。今、働き方改革の議論が進むわが国で真っ先に問題になっているのが、医師のオーバーワークだ。是非、労働の内容を正確に把握して、労働環境改善を真面目に考えてほしいと思う。またこのようなデータを、わが国からも国際誌に発表していってほしいと思う。

カテゴリ:論文ウォッチ

11月19日 ダウン症の神経症状を改善できる可能性(11月15日Science掲載論文)

2019年11月19日
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ダウン症は21番目の染色体の数が1本増えることで起こる病気で、知能の発達遅延とともに、様々な身体的変化を合併する複雑な状態を指す。確かに染色体数は増えてはいるが、21番染色体上の遺伝子は正常なので、なぜ様々な症状が出るのか、まだまだ基本的なことがわかっていない。そのため、一部の対症療法を別にすると、これまで基本的な症状に対する治療法は全く開発されていない。

今日紹介するテキサス・ベーラーカレッジからの論文は、ダウン症の原因となるトリソミーにより脳細胞がストレスを受けるため、翻訳の開始が低下するのが症状の一つの原因で、この経路を正常化してやることで、トリソミーはそのままで症状を改善させられる可能性を示した論文で11月15日号のScienceに掲載された。タイトルは「Activation of the ISR mediates the behavioral and neurophysiological abnormalities in Down syndrome (統合的ストレス反応が活性化されることがダウン症の行動や神経生理学的異常の原因になっている)」だ。

この研究では最初からトリソミーは統合的ストレス反応によりタンパク質の翻訳が低下させ、これが症状につながるのではないかと仮説を立て、その検証から始めている。まず統合的ストレスが起こると、elF2aを介して翻訳が低下するため、mRNA上のリボゾームの数が低下する(ポリゾームが減る)。そこで、ダウン症と同じトリソミーを持ったモデルマウスの海馬や皮質を調べると、正常マウスに比較してポリゾームが低下していることを確認し、確かに総合的ストレス反応が起こっていることを明らかにした。また総合的ストレスはelF2がリン酸化されることで転写開始を抑えるが、ダウン症モデルでは、ポリゾームの低下と並行してリン酸化eIF2が上昇していることを明らかにしている。

elF2のリン酸化は4つの経路で誘導されることがわかっているが、ダウン症モデルの場合、例えばウイルス感染などで誘導されるPKR分子経路が活性化されていることを発見する。

このようにメカニズムの一部とその経路が明らかになると、治療可能性が生まれる。これを確かめるため、まずPKR遺伝子をノックアウトしたダウン症モデルマウスを作成して、記憶や行動を生理学的に調べると、完全ではないが大きな改善が見られている。

最後に、統合的ストレス反応を抑えることが知られている化合物ISRIBをマウスに投与し、長期記憶能力を回復させられること、これが抑制性神経の興奮を抑えることを介して起こっている可能性を示唆している。結果は以上で、トリソミー、PKR活性化、elF2リン酸化による統合的ストレス反応、翻訳異常、神経症状、という連鎖を明らかにして、遺伝的変異をそのままにしてダウン症を治療できる可能性を示したと言える。おそらくISRIBを用いる治療は他の問題も大きいと思うので、今後はPKR阻害を標的に研究を進め、ダウン症の症状を少しでも改善してほしいと思う。

カテゴリ:論文ウォッチ

11月18日 製剤に関する地道な研究(11月13日Science Translational Medicine掲載論文)

2019年11月18日
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以前、アメリカ小児科学会が選んだ、小児の命を救った7つの成果の中に、ワクチンやガン治療とともに、なんと幼児用チャイルドシートが選ばれていたのを知って、臨床医学が実際には広い分野に及んでいることを認識した(https://aasj.jp/news/watch/3336)。

健康に関していえば、栄養も多くの人を救うことができる重要な分野で、低開発国だけでなく、先進国でも子供の貧困による栄養障害は重要な問題になっている。もちろん、ビタミンやミネラルなどのマイクロニュートリエントは、現代の食生活でも不足する心配が常にあり、主に開発途上国でこの不足により毎年2百万人の子供が死亡していることから、この分野の研究は多くの人命を救う研究になることは間違いない。

今日紹介するマサチューセッツ工科大学からの論文はこのmicronutrientを安定に食品に添加できるカプセルの設計でScience Translational Medicineに掲載された。タイトルは「A heat-stable microparticle platform for oral micronutrient delivery (マイクロニュートリエントを経口投与するための熱に安定なミクロカプセルの基盤技術)」だ。

実際食糧援助という状況でマイクロニュートリエントを考えると、サプリメントではなく食材に添加して、調理するのが最も有効だ。しかし、異なる性質のビタミンやミネラルの活性を保ったまま調理することは難しい。

この研究の目的は、マイクロニュートリエントを保護して高温でも活性を維持できるマイクロ粒子の開発で、最終的にFDAが許可しているBMCと、ヒアルロン酸やジェラチンを組み合わせてマイクロニュートリエントを包むことで、酸性の環境でだけ壊れ、熱に安定な、マイクロニュートリエントを実現できることを示している。

実験では、11種類のビタミンやミネラルについて一つ一つ調べ、100度で加熱しても全くカプセルから流出せず、胃を通った時だけ分解して摂取できることを示している。

ただ、鉄についてはアイソトープを用いた摂取実験から、やはりBMCで包むと摂取量が37%に落ちる。そこで、少し工程を工夫して、何倍もの鉄を粒子に取り込ませるための技術も開発している。

結果はこれだけで、本当にこれが安価なマイクロニュートリエント作成につながり、多くの子どもの命を救えるのか確かめられたわけではない。ただこの論文を読んでいて、チャイルドシートと同じで、一般の食品メーカーでも、多くの命を守り、さらにScience Translational Medicineに掲載される論文が書けることを示している意味で、紹介することにした。

カテゴリ:論文ウォッチ

11月17日 トリプルネガティブ乳ガンのマウスモデル(11月14日Cell掲載論文)

2019年11月17日
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先日YoutTubeでKRAS標的薬の配信をした時、聞き手になってくれた岡崎さんから、トリプルネガティブのステージ4の患者さんの一人が、anti-PDL1治療で長期間再発無しに過ごしておられることを聞いた。不勉強で、、BRCA変異がある場合はともかく、トリプルネガティブ乳ガンで突然変異数が高まっていることを知らなかったが、それにいち早く気づいて許可されたテセントリクがまず成功を収めたようだ。しかしオプジーボなど他のチェックポイント薬も続いてくると思う。

まさに、免疫チェックポイント治療の前に、まだまだ大きな海が広がっていることを示しており、ぜひ薬価の方を大胆に下げるぐらいの気持ちが欲しいともう。 とはいえ、最初からこの治療の問題として指摘されているのが、どのようにチェックポイント治療が有効な免疫が成立しているガンを見極めるか、あるいは 免疫を誘導するかになる。そのためにはできるだけ人間に近い実験モデルも重要で様々な試みが行われている。

今日紹介するノースカロライナ大学からの論文はトリプルネガティブ乳ガンモデルを作成して、人間の症例と比べながらチェックポイント治療の必要条件を調べようとする研究で11月14日号のCellに掲載された。タイトルは「B Cells and T Follicular Helper Cells Mediate Response to Checkpoint Inhibitors in High Mutation Burden Mouse Models of Breast Cancer (B細胞と濾胞ヘルパーT細胞が突然変異数を上昇させた乳ガンモデルのチェックポイント治療に関わっている)」だ。

詳細は省くが、この研究のハイライトは、人間に近いトリプルネガティブ乳ガンを発生するマウスを作成し、さらにこの系にApobec3Bの過剰発現やBRCA1の欠損を加えて突然変異の頻度を増やしたガンを作成したことだと思う。ヒトのガンの解析から、突然変異が多いほど免疫が成立しやすいことはわかっていたが、思い返してみてもこの条件をマウスガンモデルで作り直した研究は思い出せない。

結果は明確で、どんな方法でも突然変異が増える変異があると、チェックポイント治療の効果が高まることを明らかにしている。 その上で、ガン組織の遺伝子解析を行い、B細胞とT細胞がともにガン組織に存在することが効果が得られる重要な要因であることを発見している。また同じことが、人のガン組織でも得られることをデータベースサーチから確認している。

あとは詳しい浸潤リンパ球の解析を行い、これまで注目されてきたCD8T細胞の増加以外に、濾胞型ヘルパーT細胞とB細胞が同時に増加すること、また両方とも抗原特異的クローン増殖であることがチェックポイント治療の効果が見られたガン組織の特徴であることを示している。 最後にガンマウスモデルを用いて、濾胞型T細胞やB細胞を抗体で除去する実験を行い、確かにCD8T細胞だけでなく、全ての細胞がガン免疫に働いていることを明らかにしている。

突然変異数と免疫を調べられる乳ガンモデルを作成したこと、他のリンパ球サブセットの重要性を明らかにしたことは重要だと思うが、わが国ではまだ認められていないPD1とCTLA4の併用を最初からチェックポイント治療の標準においている点など、いろいろ問題も感じる研究だ。ただ。モデルマウスの重要性は再認識した。

カテゴリ:論文ウォッチ

11月16日 ファージウイルスで腸内の悪玉菌を制圧する(11月16日Nature掲載論文)

2019年11月16日
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いつだったか、顧問先の研究員の人から、腸内細菌叢をファージでコントロールすることはできないかと質問されたことがある。その時、ファージは確かに細菌を溶解するが、腸内細菌叢のように極めて複雑な場合、特異的にコントロールするのは難しく、さらに細菌にはクリスパーシステムのような免疫機構が備わっているため、すぐに耐性が生まれるはずで、なかなか実現は難しいと答えたことがある。

とはいえそれでもファージによる感染症治療の試みは続けられており、例えば抗生物質が全く効かない難治性の抗酸菌症治療に使われた例をこのブログでも紹介したことがある(https://aasj.jp/news/watch/10197)。ただ、今日紹介するカリフォルニア大学サンディエゴ校からの論文は、私自身おそらく不可能だろうと思った腸内細菌叢を標的にしたファージ治療の可能性を示した論文で11月16日Natureにオンライン出版された。タイトルは「Bacteriophage targeting of gut bacterium attenuates alcoholic liver disease (バクテリオファージで腸内の細菌を標的にする治療はアルコール性肝炎を改善させる)」だ。

この研究では最初、まずアルコールにより誘導される腸内細菌叢の変化を調べ、アルコール性肝炎の患者さんの8割がEnterococcus faecalisの比率が極端に増加していることを発見する。そして、E.faecalisの中でもサイトリシンを発現している系統が増えている患者さんのほとんどが、180日以内に肝炎で死亡するという恐ろしい結果に気づく。

Faecalisをマウスに移植する実験で、サイトリシンとは無関係にFaelcalisはアルコール摂取により腸内での比率を高め、さらに肝臓にまで侵入することができる。しかし、サイトリシンが発現しているとアルコール性肝炎の程度は、同じfaecalis感染でもはるかに高まる。同じことは、肝炎患者さんの弁を移植した無菌マウスの実験でも確認している。すなわち、肝炎の悪化はサイトリシンに責任があることを明らかにしている。

幸いFaecalis特異的なファージウイルスが存在することが知られていたため、胃酸が分泌できないマウスにFaecalisを感染させ、アルコール摂取で腸内での比率を高めたあと、下水より分離した4種類のファージを摂取させる実験を行い、Faecalisの比率が下がると同時に、肝炎も改善することを示している。

最後に、無菌マウスに患者さんの大便を移植する実験で、ファージにより病気の改善が可能であることを示している。

結果は以上で、バクテリアの免疫を克服し、実際の人間の治療にも使えるかどうかはこれからの話だと思う。しかしサイトリシン陽性のfaecalis感染者の死亡率がそんなに高いとしたら、できるだけ迅速に治験を行って欲しいと思う。また、検査としても、faecalisは予後を占うために重要で、ぜひ調べて治療戦略を練るようにする必要があると思った。

カテゴリ:論文ウォッチ

11月15日 年寄りの便も捨てたものではない?(11月13日Science Translational Medicine掲載論文)

2019年11月15日
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今やテレビコマーシャルでも当たり前のように腸内細菌叢の重要性が強調されるようになっている。もちろんこの認識は正しいのだが、実際に何がいい菌で何が悪い菌か、そう簡単にはわからない。また、既に出来上がった細菌叢を自分の意のままにコントロールするなど夢のまた夢だと思う。

今日紹介するシンガポール、スウェーデン、中国からの共同研究は、この分野からの結果はまだまだ意外性に満ちている、すなわち私たちがわからないことが多いことを示すいい例で11月13日号のScience Translational Medicineに掲載された。タイトルは「Neurogenesis and prolongevity signaling in young germ-free mice transplanted with the gut microbiota of old mice (若い無菌マウスへの高齢マウスの便移植で誘導される神経増殖や寿命の延長に関わるシグナル)」だ。

この研究では例のごとく、無菌マウスに若いマウスの便、あるいは高齢マウスの便を移植し何が起こるかを調べている。ほとんどデータは示されていないが、高齢無菌マウスで実験を行った時はほとんど変化がなかったのだと思う。すなわち、年寄りに若い人の便を移植して若返ることはない。

ところが驚くことが起こった。すなわち、若い無菌マウスに高齢マウスの便を移植した時だけ、脳の海馬の神経細胞が増殖し、さらに脳の代謝も高まる。この原因を調べていくと、脳細胞の増殖はBDNFと呼ばれるサイトカインの分泌が上昇したためであることがわかった。

また腸管上皮の増殖も促進され、その結果腸も長くなる。これと並行してTNFαやPPARシグナルが上昇していることから、腸管上皮自体の様々な機能が高められていることがわかる。

次に、体の代謝を調べてみると、肝臓でのエネルギー代謝が高まる方向での遺伝子発現の変化が起こり、またアンチエージングに関わるAMPK, SIRT1, mTORなどの遺伝子発現が上昇することがわかった。

ここまでは意外な結果で、年寄りの便が若者の体をさらに若返らせるというなんとなく矛盾に満ちたデータなので驚くが、あとは結構常識的で、高齢マウスと若いマウスとの便の比較から、この差を誘導するのがブチル酸で、ブチル酸投与が高齢者の便と同じ効果を持つことを示している。

最初に述べたが、残念ながら老化無菌マウスでは全くこの差が検出できないことから、結局体の老化を便で克服するのが難しいことがわかる。最初は面白いと思っても、結局はあまり役に立たない話だなとがっかりするが、ひょっとしたら腸内細菌叢が若返らそうと頑張ってくれているから、老化が少しは遅れていのかもしれないともおもえる。いずれにせよ、年寄りの便も捨てたものではない。

カテゴリ:論文ウォッチ

中世哲学を学ぶ(生命科学の目で読む哲学書 第9回)

2019年11月14日
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図1 中世哲学のガイドブックとして読んでみた著作。

アリストテレスを読もうと、ネットでどんな本が手に入るか探していた時、岩波書店から刊行された、アリストテレス全集全17巻(当時で一冊数千円していた)が、全巻セットでなんと1万2千円足らずと知って、それまで重要な著作は購入していたにもかかわらず思わず全巻を注文した。ほとんど傷もついていないばかりか、折り込み冊子もすべて揃った全巻を受け取って中身を確かめているうち、「得した」と言う最初の喜びが、「アリストテレス全集など図書館も含めて買い揃えようとする人などいないのか?」という悲しみに変わった。

「哲学と宗教全史」などといった大層な題の本がベストセラーになるのに、そこで紹介されているはずの哲学書を読んでみようなどと考えるのは、少数派のまた少数派であることを「1万2千円のアリストテレス全集」から実感した。私自身は「生命科学の目で読む哲学書」を書くことで、若い科学者やその卵を是非原著を読んでみようという気にさせることができればと願っている。

しかし哲学にアレルギーがない私にとっても、中世の哲学は最も遠い存在で、ラッセルの西洋哲学史の中世を随分昔に読んだ程度だった。そこで闇雲に中世の哲学書を読む前に、ガイドブックを読んでみて「私にとっての中世哲学」を考えてみることにした。

読んだのは、バートランド・ラッセル「西洋哲学史(中)」(これは学生時代以来の再読)、大澤真幸書「世界史の哲学 中世編」、山内志郎著「普遍論争」、そしてクラウス・リーゼンフーバー著「西洋古代、中世哲学史」、稲垣良典著「トマスアクィナスの神学大全」などだが、おかげで中世の哲学について自分なりの輪郭を描くことができ、さらに中世の理解なしに科学誕生の近代も語れないことをはっきりと認識した。

その上で「生命科学の目で見る」という趣旨から考えると、西欧で大学が始まり文化が教会から大学にも広がり始めた時代のスコラ哲学に焦点を当てて調べることにした。というのも、この時期にアリストテレスがキリスト教哲学に導入される。「信じるところから始まる」キリスト教神学者たちが、神秘的なプラトンならまだしも、「経験から始まる」アリストテレスの哲学にどのように魅せられたのか調べてみたいと思った。

例えばバートランド・ラッセルは、

「アクィナスの独創性は、アリストテレスに最小限の変更を加えることによってそれをキリスト教教義に適合させたことに示されている」

と、アクィナス≒アリストテレスとした上で、アリストテレスに傾倒すること自体、

「到達すべき結論があらかじめ定められているのだから、ある意味では理性に訴えることは不誠実なのである。・・・・・アクィナスには、真に哲学的な精神がほとんどない。彼はプラトンの描くソクラテスのように、議論がもたらす帰結がなんであろうと、とにかくそれに従おうとはしていないのである。あらかじめその結果を知ることが不可能なような探求に、彼が従事しているのではないのである」(以上全て引用はバートランドラッセル著、市井三郎訳「西洋哲学史 中巻」)

と、とても手厳しい。

とはいえ中世のスコラ哲学者たちはアリストテレスを読み、それに魅せられたことは確かで、さらにラッセルが言うように、キリスト教教義とアリストテレス哲学の間の矛盾をなんとか解消しようと努力をしていたことは間違いない。ある意味では、近代科学誕生で登場させるデカルトに重なるところもある(解決方法は違うが)。ラッセルの手厳しい批判を読んで、よし読んでみようという気がより強くなった。

具体的には、アルベルト・マグヌス、トマス・アクィナス、ドン・スコストゥス、ウイリアム・オッカムなどを読んでみようと考えているが、現在著作を集めている段階で、まだ読んではいない。そこで、今回はガイドブックとして利用した本の中から、スコラ哲学を題材にしてはいても、対照的なアプローチをとっている大澤、山内の著書を選び、中世スコラ哲学について見ていくことにした。

前回紹介したように(https://aasj.jp/news/philosophy/11539)、キリスト教は最初の400年ほどで、その由来であるユダヤ性を旧約聖書として棚上げするとともに(新約と旧約の矛盾は解決しないまま並存させているので棚上げという言葉を使う)、新約聖書の内容について「三位一体」、「キリストの受肉」、「マリアは神の母(テオトコス)」などの解釈を確定し、神と人間が対称化しつつも(すなわち神が身近な)、個々人の救いを願う絶対的な神をいただく、魅力ある一神教へと発展した。ローマの力が低下するとともに、西欧の中世は分裂の時代に入るが、宗教だけはキリスト教に統一され、当然文化もキリスト教に集約される。

このキリスト教の文化支配が最もよくわかるのが出版業で、このホームページに掲載した「生命科学の現在」の「文字の歴史」(https://aasj.jp/news/lifescience-current/11129)から少し引用する。

「ギリシャではすでに本作りが産業化していたようで、出版社と共にそれを支える様々な職人、例えば写本を受け持つ職人がうまれ、さらに彼らの組合まで存在したらしい。ローマ帝国時代にはいると、ヨーロッパ全土からの需要に応えて、出版社は本の大規模な輸出まで行っていた。ホラティウスやキケロのような売れっ子の作家は決まった出版社がついており、著作料が払われていたのも現在と同じだ。・・・・・・・・・(キリスト教一極支配により)、ギリシャ・ローマの市民文化は排除され、多くはイスラム圏に移って維持されることになる。そして当然のように、個人のコンテンツに基づく出版文化は、これを契機に消滅していく。グロリエの「書物の歴史」によると、この結果本を扱う商業を頂点に成立していた出版産業は完全に崩壊したらしい。また、公的私的に維持されていた図書館も、閉鎖され、略奪され、せっかく生まれたこの出版文化の成果も完全に消滅してしまう。その結果、ヨーロッパの大学や、都市で、教会から独立した世俗の活動が盛んになる12世紀ごろまで、出版文化は教会の中に閉じ込められ、独自の発展をとげる。」

このように全ての出版をほぼ手中に収めた教会による文化の一極支配下での哲学は自由であるはずはない。全ての思想はまずキリスト教を「信じることから始めなければならない」暗黒の時代だ。というのも、「信じること」を中心に置くと、「信じなければならないこと」が思想の自由を制限するだけでなく、「信じること」が必然的に他の可能性を拒否することにつながる。このような思想状況で、普遍的で理性的な哲学が生まれるとすれば、「神への信仰」を棚上げして考える必要がある。

この「神への信仰を棚上げしないと普遍的な議論ができない」という問題は、我が国の中世研究者を困らせているように思える。すなわち、キリスト教徒が少ない我が国で中世哲学の意義を伝えようとすると、「信じること」から始めないでも通用する議論が要求される。例えば今回読んだ稲垣良典さんの「トマス・アクィナス「神学大全」を読むと、

どのように一般的で漠然としたものであっても、神が存在するという認識が万人に本性的に植えつけられている、という主張はあきらかに事実に反する、と考える人が多いであろう。しかし、「わたしはどこから来て、どこへ行くのか」という疑問、というよりは心の深いところからわき上がってくる思いを抱いたことのない人はむしろ稀なのではないか。そして「幸福」という言葉をP・ティリッヒの言う「究極的関心」(ultimateconcern)で置きかえるならば、誰しも自らの人間としての「生」の全体を成立させ、方向づけ、つき動かしている「究極的関心」があることを認めるのではないか。そしてこの「究極的関心」は、トマスの言う人間の本性に植えつけられた神が存在することの一般的な認識を、現代風に言いかえたものと解釈することが可能なのである。」(稲垣良典. トマス・アクィナス『神学大全』 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.433-441). Kindle 版.)

と、心に植えついた神が存在するというトマスの認識が、例えば一般の人が持つ幸福への究極的関心と同じだと解釈できると述べている。本当にそんな解釈が許されるのか、トマスの著書を読んだ後もう一度議論したいが、結局この論理はキリスト教の立場に立った議論だと思う。事実稲垣さんはキリスト教信者としての立場を明確にしている。例えば哲学者としてはっきりと宗教から決別したカントの神の存在証明の議論に対して、

カントの因果性および存在の理解をめぐって横道にそれたのは、私の思い過ごしでなければ、21世紀の今なお、神の問題について哲学的考察を試みようとする者の前には彼の哲学が大きな障碍として立ちはだかっていると思われるからである」

と述べており、「信じること」から始める稲垣さんにとって、カントの批判に応えることが重要であると明言している。

稲垣さんの考えの是非についてはこれ以上議論しないが、信じるところから始めることを認めた上で、理性的であることは難しい。その意味で、「信じること」から始まることを疑わなかったトマス・アクィナスやアルベルト・マグヌスが、いかに「信じるのではなく、まず経験(見ること)から始める」アリストテレスの著作に魅されたのか、ますます興味が湧いてくる。言い換えると、キリスト教支配の中世で初めて、科学的思想が認められたわけで、17世紀の科学革命の先駆けとも言える思想的変化が起こっていたのかも知れないと期待してしまう。

残念ながら、この点について稲垣さんは、

(トマスの学は)、聖書にもといづきつつも、聖書の補足、付加、さらには聖書の代わりになるものとして人間理性が(アリストテレスを頼りに)つくりあげた作品、いわゆる「スコラ神学」ではない。

とそっけない、なぜアリストテレスが受け入れられたのかについては興味がないようだ。

しかし中世後期、教会とは別の誕生間もない大学で、「(見えるものを)経験することから始める」アリストテレスの再発見から広がったインパクトは、「(見えないものを)信じることから始める」キリスト教神学を揺り動かしたことは確かで、これこそが「普遍論争」と呼ばれるスコラ哲学最大の問題として現れた。

山内史郎さんの本はズバリ「普遍論争」というタイトルで、当時行われた議論を詳しく紹介している。山内さんは稲垣さんと同じで、中世哲学に魅せられた研究者の一人だと思う。この本の目的は、「普遍論争」とは何か、誰が何を議論したのかをできるだけ正確に伝えるとともに、これまで通説となってきた普遍論争の理解に問題があることを指摘することだと思う。実際、私が聞いたこともない多くの哲学・神学者を引用し、また全く私の知らなかった専門用語(例えば「代表理論」、「項辞」など)を解説しながら、山内さんの主張も同時に展開している。もちろんこの過程で議論の発端になったアリストテレスの著作についても丁寧な説明が行われている。その意味で、山内さんは典型的な厳密なアカデミックな手法を重視する哲学者で、この議論に関わった一人一人の論点をできる限り正確に解釈しようと腐心しているのがよくわかる。従って、普遍論争の紹介という点では、山内さんに聞くのが一番だ。

さて本の冒頭で山内さんは通説と断った上で、

「この普遍がどう捉えられるかについては、中世哲学において、様々な見解が出され、激しく論議されたものですが、通説によると大きく分けて三つになるとされています。実在論、概念論、唯名論というようにです。

実在論(realism)とは、普遍とはもの(res)であり、実在すると考える立場で、換言すれば、普遍は個物に先立って(anterem)存在する、と考える立場とされます。プラトン、スコトゥス・エリウゲナ、アンセルムスなどが代表者とされます。

唯名論(nominalism)は、普遍は実在ではなく、名称(nomen)でしかない、したがって普遍はものの後(postrem)にあるとするものです。個々の人間は触ったり触れたりできますが、普遍としての人間では感覚可能ではなく、触ることも見ることも酒を飲ませることもできません。ですから、唯名論というのは、常識にかなった思想とされたりします。代表者は、ロスケリヌス、オッカム、ビュリダン、リミニのグレゴリウス、ガブリエル・ビールなどです。

概念論(conceptualism)というのは、実在論と唯名論の中間にくるもので、普遍とは個物から独立に、そして個物に先立って存在するものでもなく、かといって抽象物とか名称でしかないと考えるのでもなく、ものの内(inre)に存在し、思惟の結果、人間知性の内に概念として存すると考える立場です。代表者はアベラール(アベラルドゥス)とされています。」(山内 志朗. 普遍論争 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.191-203). Kindle 版.)

と、普遍論争での議論の論点をまとめている。もう少しかみ砕いて展開すると、私たちが普遍的(例えば机をみて、個別の机だけでなく机全体の普遍性を読み取れること:プラトンのイデアを考えればいい)に物を認識できるのはなぜかについての議論で、大きく3つの立場があったことを述べている。その上で、各哲学者の論点を正確にまとめているのだが、残念ながらなぜ同じ信仰を共有している人たちが、わざわざ3派に分かれて普遍について議論しなければならなかったのかについての見解は全く述べられない。

一方、山内さんにとって普遍論争とは何だったのかについては、次の一言に集約されている。

私は中世哲学の表看板としては、「〈見えるもの〉と〈見えざるもの〉」の方がよいのではないかと思っています。〈見えるもの〉を通して〈見えざるもの〉に至ろうとする傾向が主流であると言いたいのです

すなわち、「見えるもの」と「見えざるもの」と言うわかりやすい概念を持ち出し、一見矛盾する概念をどう両立させるか議論したのが普遍論争というわけだ。

しかし見えるものを通して見えざるものに至るという図式は、キリスト(=見えるもの)を通して神と御霊(=見えざるもの)に至ることを説くキリスト教の教義と完全に重なる。見える対象から始めるために、キリストを受肉させ、神性を2元化したことで、キリスト教は世俗化に成功した。とすると、山内さんの指摘は、普遍論争ではキリスト教の本質が議論の対象になったことになるが、なぜこの時「普遍性」が問題になったのか?

先に触れたように、見えざる神への信仰を原点とするキリスト教神学に、アリストテレスの哲学をそのまま認めるのは難しい。なぜなら、全てを見えるものから始めるというアリストテレスの思想には、見ないで信じることへの拒否がこめられている。このように、中世の神学者は見えざるものを「信じるべき」とする論理からからスタートし、一方アリストテレスは「見えるもの(=信じる必要の無いこと)」からスタートすべきだと主張している。私にとっては、どうしてアリストテレスがキリスト教神学に忍び込めたのか、そこに興味がある。

結局この矛盾は、どこまで行っても本当に解消するようには私には思えない。どこかの段階で、「矛盾してはいない」ことを信じることでしか解消しないはずだ。おそらく山内さんにとって、この究極の解決法は必ずしも避けるべき方法ではないようだ。例えば、

私は神秘主義に関心を持っていますが、それは神秘主義の前提に一種の共約不可能性があるのではないか、という直観があるからです。永遠性、恒常性、必然性がスタティック(静態的)なものとしてあるのではなく、流動的、力動的なものとして語られることが哲学史の中でよくあります。スタティックなものが理想としては不十分なものだからではなく、そのようなもの――理念でもイデアでもかまいません――への憧憬を初めから妨げているものがあるようにも思われるのです。テロスが永遠にして必然的なものであるのは、テロスが備えるべき性質ですが、テロスへの道程に障害が存在し、テロスへの途上にあることをテロスにするしかないことがあるように思われます。常に途上にあるという事態についてはよく語られますから、脇に置いておくとして、そこに登場する障害を、私は「共約不可能性」と呼びたいのです。共約不可能性とは対角線や対人関係だけに見られるものではありません。そして、現代は「共約不可能性」を実体化し、そしてそれへの対処の仕方を失った時代であると私には思われます。中世において共約不可能性は神学的な場面で登場していますが、とにかく「共約不可能性」を日常性の中に住まわせていたように思われるのです。フランシスコの素朴な言葉の中に「共約不可能性」を感じ取るのは冒涜なのでしょうか。私はこれについて同意してもらおうとは思いません。私が同意してほしいのは、「共約不可能性」が無意味な概念ではないこと、中世哲学においては共約不可能性が基本的な概念として機能していた、ということです。

と述べて、共役不可能性(すなわち同じ基準で判断できないこと)を積極的に認めることで、両者の矛盾を解決した中世神学者への支持を表明しているように思う。

私のように科学領域で生きてきた人間にとって「共役不可能性」という言葉は、科学的理論でさえ同じパラダイムに立たない場合共役することが難しく、新しい理論は常にパラダイムシフトを伴うと主張したトマス・クーンを思い出させる。しかしクーンの場合「共役不可能性」はそのまま放置されることではなく、対立は新しいパラダイムへの移行、即ちパラダイムシフト促し、新しいレベルで共役される。この意味で、「共役不可能性」を、そのまま「共役の必要がない」と解釈する山内さんは、ラッセルとは真逆で、アクィナスへの共感を強く感じる。

しかしこれは科学者と、哲学者の違いというより、キリスト教に対する違いを反映しているのだと思う。山内さんと比べた時、「世界史の哲学(中世編)」を書いた大澤さんは、キリスト教をあくまでも西欧を形成した歴史的事象として捉えている。そしてこの本で大澤さんは、「なぜアリストテレスがキリスト教教義に忍び込めたのか?」という私の疑問に明快でしかも現代的な答を与えてくれている。

この本は、「中世こそが、西洋がまさに西洋としてのアイデンティティーを獲得した時代である」という認識から、西洋の理解には中世哲学、特に大学誕生により生まれたスコラ哲学の理解が必須だという大澤さんの確信に基づいて書かれており、中世の政治、経済、文化全般の歴史を、見えるもの(キリストの体)と見えざるもの(神と御霊)の2元論を認めるローマカソリックの教義の帰結として見事に解き明かしている。山内さんの「普遍論争」と比べると、アカデミックな印象はないが、決して荒唐無稽な議論ではない。様々な思想家の著作はもとより、小説から映画まで持ち出して、持論を展開して、読者をグイグイ引き込んでいく本だ。

この本では普遍論争は2章で詳しく扱われているが、彼の言葉を引用しながら普遍論争が行われた背景をまとめると、

1)、普遍論争が教会ではなく大学で行われたことから、

まずは、中世のヨーロッパにおいて、知(学問)が信(宗教)から独立しようとしていたということを示しているだろう。言い換えれば、このとき、哲学(愛知)と宗教(教義)との間に、微妙な亀裂が走っているのである」(大澤真幸. 〈世界史〉の哲学 中世篇 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.510-512). Kindle 版.)、

と、大学では「信仰」に基づきつつも、「理性」との矛盾、すなわち信仰と理性の矛盾を率直に語ることができたとしている。

2)、次に

「神の存在証明は、それ以上に、神にとって否定的な効果をもたらす。どうしてか?証明が失敗しているからではない。証明がエレガントでないからでもない。何が問題なのか?まさに証明を試みているという事実、その成否はともかくとしてまさに証明しようとしたという事実が問題なのだ。神の存在が確実であるならば、どうして、わざわざそれを証明する必要があるのか。このように反問してみれば、その冒瀆性は明らかだろう。」

と、普遍論争が始まった動機は、神の存在証明を理性的に行うことだったが、神の存在を証明しようなどと動機を持つこと自体、「信じること」から始めることに対する疑いが生まれた証拠だと推察している。

3)、そして最後に、

「神の存在証明は、信に対して懐疑が侵入していることの、哲学者の内的な表現、主体的な表現である。それに対して、普遍論争は、同じことの哲学者たちの間の間主観的な表現であると見なすことができる。普遍論争においては、懐疑は、外的に見える形を取る。それが、今しがた述べたように、唯名論である。」

と、普遍論争の引き金は、「信じるところから始めること」への疑念で、これはスコラ哲学者に共通だが、この矛盾解消は各個人多様な方法で行われ、3派に大きく分類できるが、試みたことは同じだと結論している。

このように、普遍論争に関する明快な説明を述べた後、

トマスもスコトゥスも、神であると同時に人間でもあるところのキリスト性を捉えようとしている──そしてそのことに失敗している。そのように解釈できるのではないか。」

と、普遍論争がローマカソリックの成立過程で決定された「神であると同時に人間でもあるキリスト性の矛盾を解消する努力だったが、それはもともと不可能な問題だった」と断じている。

大澤さんの議論は、なぜアリストテレスが中世神学に忍び込めたのかという私の疑問に対する一つの明快な答えとして納得できた。私なりにまとめると、イスラム圏から再導入されたアリストテレスという偉大な思想的触媒に触れてしまったスコラ哲学者が、「人は己の信仰に確証を得ることはできない(キルケゴール)」ことに気づき、自分の問題として、「信仰」と「理性」の矛盾の解消の糸口を、宗教に対しては完全否定的ではないアリストテレスに求めた、まさに人間的な過程だったということになる。また、一見普遍論争がプラトンのイデアとアリストテレスによるその否定の間の論争のように見えるのは、普遍論争が始まった時には、プラトン哲学が新プラトン主義を介してキリスト教教義の懐に既に入り込んでいたためと理解した。

しかし以上は全てガイドブックを読んでの印象で、これから実際の原著にあたりながらさらに追求していきたい。

最後に生命科学者の立場から普遍論争に一言。

20世紀以前の哲学者を「脳科学を知らないから」と非難する気はないが、普遍論争だけでなく、特に形而上学の問題を現在の哲学者が議論する時、我が国では我々の認識や概念の全てが脳内の表象として生まれていることにあまりにも無頓着な気がする。例えば、「普遍論争」での「普遍」やプラトンの「イデア」は、感覚インプットとして「今」認識されているものとは異なると言えるかもしれない。しかし、私たちの脳は、それまでの成長過程での経験の総体を様々な形で脳内に実際に存在する(もちろん簡単に把握できるものではないが)表象として保持している。このため、個別の認識も、必ずこれまでの経験が統合された表象を参照し、またそれにより介入される。これは、トップダウン経路とボトムアップ経路として知られる現象で、実際私たちはトップダウンの経路が機能しないと、個別のインプットを認識することができない。すなわち、個別と普遍は常に脳の認識過程で統合されている。

さらに、私たちの頭の中で表象した経験は、言語(今では様々なメディアが存在する)を通して社会的表象として共有され、そこからもフィードバックされる。この結果、自分が考えたのか、他の人が考えてきたことなのかの区別がつきにくくなることも多い。

このように、ちょっと脳科学をかじれば、普遍論争が行われた動機や時代は面白いが、そこで議論された論理自体を取り出して議論しても意味がないことがわかるはずだ。はっきり言って「個別か、普遍か」という議論自体は意味がない。私たちは両方から離れられないし、脳は努力しなくとも両方を統合している。今後、それぞれの時代の哲学を議論する時、脳科学ももっと積極的に取り入れた議論を展開したいと思う。

普遍論争に限らず、我が国の哲学の方々と話をすると、もう少し脳科学を学んで欲しいなと思うが、嘆いても仕方がない。平行線は覚悟して対話を続けることが重要だと肝に命じている。

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