光遺伝学が開発されてから、脳研究では各細胞を特定し操作するための分子マーカーを準備することが必要になる。ただ、血液や発生過程の細胞表面マーカーを長年扱ってきた経験から考えると、yes or noの質的差に見えても、強弱といった量的差を反映しており、オーバーラップがあるため、細胞操作に使うときには注意が必要なケースが多いのではと気になっている。
今日紹介するMITブロドー研究所からの論文はまさにそんな例で、分子マーカーを用いた細胞操作にまでは至らなかった研究だが、その過程から脳研究の大変さがよく理解できた。タイトルは「Distinct subnetworks of the thalamic reticular nucleus (視床網様体核の異なる神経サブネットワーク)」だ。
視床はほとんどの感覚神経が一度集まり大脳へリレーされる場所だが、視床から大脳皮質の間に存在するのが視床網様体核で、基本的には感覚器から直接神経支配を受けるfirst order(FO)神経と、逆に大脳皮質から支配を受けるhigher order(HO)神経の2種類のGABA作動性の抑制ニューロンの集まる核だ。このように、感覚器と皮質をつなぐ構造から、注目度が高いが、FOとHOを分けるマーカーがなく、研究が難しい。
この研究ではFO,HOに対応するマーカーを探索するため、まず視床網様核のGABA作動性神経の遺伝子発現をscRNAseqで調べると、多くの遺伝子で量的変化は見られるものの、陰性、陽性と明確に分けることが難しいことを発見する。
このマーカーの中からとりあえずSpp1とEcel1という神経機能とは関係なさそうだが、最も量的さが大きな遺伝子を選び、それぞれの発現を組織学的に検索すると、Spp1が神経核の中央部、Ecel1が周辺部に強く染まることがわかる。
この写真を見ると、組織学的に分かれているように見えても、実際には量的差が反映されているだけで、現在の光学的テクニックのトリックを感じてしまう。
とはいえ、解剖学的にも発現の差が見られたので、本来FO/HOが定義された神経支配をたどるラベル方法で網様核をラベルすると、中央に発現が高いSpp1神経はFOで感覚神経支配を受ける細胞がほとんどで、逆に周辺部に多いEcel1陽性細胞はHOであることがわかる。
この神経支配との対応関係は、それぞれの神経の興奮特性からも確認される。例えば睡眠のリズムに関わると考えられているレベルの低い集中的興奮は中央部のFOに強く見られることがわかる。実際この実験では、神経興奮を記録した後細胞の内容物を吸い取り、遺伝子発現まで調べる念の入りようで、大変手間のかかる実験を行なっているのがわかる。
しかしながら、マーカー探しはここまでで、結局睡眠のリズムとHO/FOの関係を調べる機能的研究では、全く分子マーカーは利用できず、それぞれの支配神経から遺伝子操作を加える方法を用いて、カルシウムチャンネルを阻害する実験を行い、FO/HOが睡眠のリズム形成に異なる役割を演じていることを示している(例えばデルタリズムはFOのカルシウムチャンネル阻害で低下、またノンレム睡眠時の集中的興奮はFOで見られること)。
大変な思いをしてマーカー検索を行っても、本来の目的には利用できなかったという研究だが、神経科学の現状を知る意味では面白い研究だと思う。