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3月6日 分裂中のES細胞が幹細胞遺伝子を持続的に発現できるメカニズム(3月5日号 Nature 掲載論文)

2020年3月6日

20世紀までは、分裂していると幹細胞状態が維持でき、分裂が止まると分化すると極めて幼稚な考えで済ませていた気がする。しかし、クロマチン構造と転写の関係を知り、また分裂ごとにクロマチン構造が再構成されることを理解すると、分裂自体が未分化性の維持に対する最も強い不安定因子であることがわかる。これが理解されると、分裂速度が高いES細胞が未分化性を維持できているのが逆に不思議に見えてくる。

今日紹介するカリフォルニア大学バークレイ校からの論文はES細胞が分裂中も未分化因子の転写を続けるメカニズムに迫った論文で3月5日号のNatureに掲載された。タイトルは「Gene expression and cell identity controlled by anaphase-promoting complex (遺伝子発現と細胞の特異性は後期促進複合体により調節されている)」だ。

研究はオーソドックスな手法を用いたかなりの力仕事である印象を受けた。まず、ES細胞での多能性維持遺伝子Oct4の発現に必要な遺伝子をshRNAスクリーニングで探索、様々な遺伝子の中から細胞周期の中期から後期の移行に関わることが知られているユビキチンリガーゼ複合体(後期促進複合体:APC/C)の構成成分に焦点を当てて研究を続けている。

まず遺伝子ノックダウンを用いた機能的検索から、APC/CがES細胞の分裂期に転写を維持するのに必須であり、ノックアウトされるとOCTやNANOG の発現低下が見られることを確認する。すなわち、APC/Cユビキチンリガーゼ活性により、転写開始点の機能を維持している可能性が高い。

そこで転写複合体とAPC/Cを結びつける分子を探索し、活性化されたプロモータに存在するメチル化ヒストンH3K4に結合するWDR5を突き止める。この発見が研究のハイライトで、WDR5とAPC/Cが分裂中のクロマチンと相互作用して、転写を止めずに分裂を進めるという図式が想定される。

これを確かめるため、APC/C-WDR5が分裂期のプロモーター領域に結合しているのか、その場所のヒストンのユビキチン化に関わるかなど、主に生化学的手法を用いて検討し最終的に以下のシナリオを提案している。

まず細胞分裂が始まる前から、WDR5がプロモーターに結合するTATA結合複合体と結合している。分裂期に入るとWDR5はAPC/C複合体を転写開始点にリクルートし、ヒストンのK11/K48にユビキチン分枝を加えることで、プロテアソームを連れてきてヒストンを不安化させて、分裂後期のクロマチンの変化から転写スタート部位を守るというシナリオだ。

現役を離れてだいぶ経つので、その後の進展を全てフォローできてはいないと思うが、WDR5の登場によって、分裂期の転写パターンの維持のメカニズムについて頭の整理ができた。おそらく、このスキームは山中4因子によるリプログラムを理解するにも大事な気がする。今後他の幹細胞でも検討が進むと期待する。

カテゴリ:論文ウォッチ

3月5日 住血吸虫の感染実験(2月17日 Nature Medicine オンライン掲載論文)

2020年3月5日

新型コロナウイルスがこれほどの騒ぎになるのは、今のところ治療や予防の手段がないためだ。しかし、近代細菌学以降の感染症に対する戦いを見ると、やはり基本は相手を知った上での、疫学、公衆衛生学的手段による押さえ込みと、ワクチンしかなかった。もちろんコロナも様々な治療薬がすぐに開発されてくると思うが、多くの感染症との戦いの歴史を見ると、治療薬の有無に関わらず流行を抑え切ることは難しい。

例えば我が国で風土病と言われた日本住血吸虫は、原因寄生虫の発見、中間宿主の発見、そしてライフサイクルの特定と長い研究の歴史の末、1980年以降、患者さんの発生がなくなった。撲滅できた原因を探ると、治水の変化により、結局、宮入貝のような淡水の貝が私たちの周りから消えたことが一番大きいだろう。実際、昨年旅行したウガンダを始めアフリカ諸国では、薬剤も開発されているが、大自然が残るが故に、感染者の数は減らない。

今日紹介するオランダ ライデン大学からの論文は、この住血吸虫についての研究で、なんと人間に感染させ病気を発症させるモデルについての研究だ。タイトルは「A controlled human Schistosoma mansoni infection model to advance novel drugs, vaccines and diagnostics (新薬やワクチン開発のためのコントロールされた住血吸虫感染モデル)」で、2月17日号のNature Medicineに掲載された。

この論文を理解するためには、住血吸虫のライフサイクルを知る必要があるが、人間に感染するのは淡水の貝の体内で卵から成熟したセルカリアで、これが皮膚から感染すると血中を通って肝臓に移行、そこでオス、メスが接合して卵を産み、これが便を通して宮入貝に感染する。

寄生虫の中には雌雄同体のものもあるが、住血吸虫はオス、メスが完全に分かれており、従ってオスのセルカリアを感染させても、卵を産むことはないので、次の感染を起こすことはない。ただ、感染すると当然病気が起こるはずだ。

この研究では、オスのセルカリアだけを皮膚から感染させて、病気が起こるかどうかを調べている。ある意味では極めて非人道的な実験で、病気が起こることは完全に予想される。ただ、2次感染がないこと、そしてPraziquantelで成虫を退治できるということを信じるボランティアを全体で38人も募って、感染実験を行なっている。

これにより、皮膚に30分セルカリアを晒した時の感染率、その後の皮膚炎症症状の発生、そして血中から肝臓へ移行し成熟した時の分子マーカーによる診断、それに合わせて起こる片山症候群と呼ばれる特徴的な症状の発生、そしてその原因がインターフェロンをはじめとする炎症性のサイトカインの分泌を反映していることなどを明らかにしている。じっさい、10匹のセルカリアでしっかり病気が起こるのを見ると驚く。

そして、ほとんどのボランティアで、最初はIgMクラス,のちにIgG1クラスの抗体が産生され、これがTh2型のT細胞反応で、抑制性T細胞の誘導は少ないことなどを示している。

最後に、Praziquantelを投与し、全員めでたく治癒しているが、必要な量が普通推奨されるより少し多めであることも示している。

話はこれだけで、石井部隊やナチスのような実験が、オランダで、その意味をよく理解したボランティアによって支えられていることに最も関心した。

カテゴリ:論文ウォッチ

3月4日 MRIに基づく統合失調症の新しい分類(2月27日 Brain オンライン掲載論文)

2020年3月4日

おそらく今でも、統合失調症は、妄想、幻覚など正常人には見られない陽性症状と、言葉数が減り、感情が現れず、引きこもるといった陰性症状、それに物忘れや注意力の低下など認知症状を組み合わせて診断するのだと思う。その結果、陽性症状の強い妄想型、陰性症状の強い破瓜型、そして興奮や混迷など特異的行動が目立つ緊張型に分けられる。とはいえ、ゲノムや脳画像による研究は、統合失調症として一括りにして調べることが多い。

統合失調症の脳画像解析研究は盛んに行われており、私もなんどもこのブログで紹介している。おそらく、ほとんどの研究で共通に示しているのが、脳全体にわたって灰白質の萎縮が見られるという結果で、患者間での多様性はこの共通性の中に押し込まれてしまっていた。

今日紹介する米国、英国、ドイツ、イタリアの4施設からの共同論文は307人もの統合失調症患者さんと364人の正常人の脳の解剖学的データを比べ、統合失調症に全く異なる2種類のタイプが存在することを示した面白い研究で2月27日Brainにオンライン出版された。タイトルは「Two distinct neuroanatomical subtypes of schizophrenia revealed using machine learning (機械学習により明らかになった統合失調症のはっきりと区別できる二つの神経解剖学的タイプ)」だ。

同じような研究はこれまでも繰り返し行われ、灰白質の萎縮が突き止められてきた。この研究では最初から、統合失調症として一括りにするのではなく、一種の機械学習を加えたHYDRAと呼ぶアプリケーションを用いて、統合失調症の特徴として抽出された変化が、全てのサンプルに見られるのか、あるいは一部の人にだけ見られた結果なのか、もし一部の人だとすると幾つのサブタイプがあるか探索させるところから始めている。

この結果、統合失調症のMRI形態画像は、

  • 皮質全体に灰白質の萎縮が目立つグループ(67%)
  • 皮質全体の萎縮はほとんど存在せず、逆に大脳基底核の増大がはっきりしているグループ

の2つに分けられることを明らかにする。

実際の画像を見ると一目瞭然で、2型では萎縮は全く見られないといっていい。

最後にそれぞれのタイプと症状を照らし合わせると、陽性症状、陰性症状にはっきりした差は認められないが、萎縮が見られるタイプでは最終学歴の達成度が低下している一方、2型では正常人と変わりがないことが明らかになった。

結果は以上で、ともかくMRIで分別できる病型が明らかになったことは大きい。おそらく、萎縮型は脳の発生障害を基盤としていると考えられる。重要なのは、萎縮型に基底核の増大が見られることは全くない点で、基底核増大型は最近注目されてきたドーパミン過剰型に対応すると考えられる(ドーパミン過剰型の動物モデルについては昨年秋紹介した:https://aasj.jp/news/watch/11332)。

今後伝統的な病型の見直しも含める大きな診断法の変化を予感させる論文だと思う。

カテゴリ:論文ウォッチ

3月3日 思春期の脳発達(2月11日号 米国アカデミー紀要掲載論文)

2020年3月3日

振り返ってみると、小学校時代までは「死んでも生き返ることがある」という幻想を持っていたように思う。しかし高学年から中学校にかけて、その最終性を理解できるようになり、キリスト教に惹かれるようになったのもちょうどその頃だ。しかし、大学で様々な思想に触れるようになると、宗教に幻想を持つこともなくなってしまった。その後は、一般の人から見たら、頭でっかちの生活を続けている。いずれにせよ、思春期の何年か、知性から感情まで大きな変化を経験したことは確かだ。

今日紹介するケンブリッジ大学を中心に多くの研究機関が集まって発表した論文は298人の思春期前から青年期までの機能的MRIデータをまとめて思春期に起こる脳内ネットワークの結合性をまとめた論文で2月11日米国アカデミー紀要に掲載されている。タイトルは「Conservative and disruptive modes of adolescent change in human brain functional connectivity (思春期の人間の脳に見られる機能的結合性の保守的および革新的変化)」だ。

この研究では、安静時の脳血流を調べ、反応の連動性から脳内各部の結合性を調べる方法を用いて、思春期前から思春期後の健常人のデータを集め、思春期で脳各部の結合性がどう変化したのかを調べている。ただ、この方法は何かの課題を行う時の機能的MRIとことなり、本当に結合性を反映できているのかなど様々な批判があった方法だ。特に一定時間記録を取り続けるため、頭が少し動くだけで結果が大きくずれるという問題があった。

専門外なので理解していないが、この研究のハイライトはこの問題を解決するための新しい手法を用いて補正してデータを集めた点にあると思う。結局は情報処理を重ねる研究なので、そうして出てきた結果がどのぐらい信頼できるかどうかは、私のような素人には評価できない。ここは信じて先に進む。

さて、こうして脳内330の大脳皮質領域および、16の皮質下領域との結合性の強さを計算すると、皮質同士の結合は年齢に比例して高まっていく保守的な変化を示すが、皮質下と皮質の結合は、急に強くなったり、弱くなったりと破壊的な変化が見られる領域が目立つ。

この研究では14歳時の各領域間の結合性と年齢による変化を変数にした成熟係数(maturational index)を考案し、これにより変化の意味がよりわかりやすくなるよう工夫している。特に、各領域の結合が受け持つ脳機能をこの変化に重ね合わせて、思春期に起こる心の変化がわかるようにしている。

これによると、例えば運動機能、感覚機能、感覚と運動の連携などは皮質各領域間の結合を反映し、成長とともにコンスタントに結合力が高まっていく。一方、自分を振り返る能力、社会性、記憶、他人の理解などは皮質と皮質下領域との結合性に関わり、破壊的な変化が見られることを示している。他にも多くの高次脳機能の変化が量的に示されており、じっと見ているだけで面白いが省略する。

最後にこの急速な変化の背景を探るため、データベースから得られる脳各領域の解剖学的変化や糖代謝活性や遺伝子発現と、各部の成熟係数との関連を調べ、破壊的な変化が見られる領域は、急速に領域が活動し、代謝活動が高く、好気的解糖活動が高く、またそれらに関わる遺伝子発現も上昇していることを示している。

すなわち、思春期に大きなエネルギーが必要な様々な脳活動が急速に高まることを示している。個人的には、頭でっかちの自分を作る基盤が思春期に形成されるのだと納得した。

カテゴリ:論文ウォッチ

アリストテレス以降、中世最高の哲学者オッカム:近代哲学の萌芽(生命科学の目で読む哲学書 第12回)

2020年3月2日

スコラ哲学の最後にオッカムを読んでみようと決めていた。読むのは今回が初めてだが、「オッカムの剃刀」(=説明は最小限の仮定で行うべきとする寓意)という言葉はよく知っていた。またこの言葉に科学的響きも感じていた。とはいえ、アウグスチヌス、マグヌス、アクィナスと読んできて、プラトンやアリストテレスに傾倒しつつも、最後は聖書の言葉を絶対視するスコラ哲学の図式に辟易し、中世哲学の停滞をイヤという程味わってしまうと、オッカムも結局は同じ穴のムジナと諦めていた。

ところがどっこい、予想は完全に外れ、これまでのスコラ哲学とは全く異なる、「剃刀」のような鋭い感性と議論に感心し、近代哲学の萌芽を感じることができた(これは私の個人的評価)。

図1 オッカムの著作が収められている「中世思想原点集成18」

オッカムが我が国でそれほど注目されていないのは、オッカムの著作の和訳本の多くがが絶版になっているからだと思う。幸い、前々回利用した平凡社の中世思想原典集成に短い著作が何編か訳されており、第18巻 (図1)には「命題集注解(オルディナティオ)」「アリストテレス命題論註解」「未来の偶然事に関する神の予定と予知についての論考」の訳が収載されている。

訳に当たった人たちが神学としてオッカムに向き合っているからだと思うが、正直なところ訳がわかりにくく、読んでもオッカムの思想を理解できた気になかなかなれない。例えばオッカムは唯名論(後で説明)の論者として有名だが、訳されている著作からはこの側面がほとんどうかがえない。そこで洋書にまで範囲を広げて探し、ようやく図に示すオッカム著作の抜粋が英訳されている「Philosophical Writings」を手に入れることができた。この本では中世思想原典に収載されているオルディナティオの一部がオッカムの認識論として上手くまとめて掲載されており、このおかげで私の理解は進んだ。特に難しい英語ではないので、オッカムの思想を知りたい向きには、こちらをお勧めする。

図2 オッカムの文章の抜粋集(ラテン語と英語の対訳)

では、オッカムはこれまでのスコラ哲学者とどう違うのか?

今回読むことができたのはオッカム著書のほんの一部であることは断った上で、まず驚いたのは、スコラ哲学議論の中で最後の切り札(=議論の遮断)として頻繁に登場する聖書の一節の引用が全くない点だ。一方、アリストテレスだけでなく、アウグスチヌスの著作などは頻回に引用されている。前回紹介したように、アウグスチヌスは筋金入りの聖書主義者だが、それでも書かれた以上人間の思想にすぎない。オッカムがアウグスチヌスを肯定的に捉えている点は不思議な気がするが、いずれにせよ批判が許されない神の言葉ではない。このように、批判が可能な人間の言葉に引用を限ることで、自由な議論が可能になる。

神の言葉をドグマとして鵜呑みにすることを拒否するオッカムには、自分の頭で考え、人間同士で議論する近代的哲学の始まりを感じる。「論証にできるだけ前提を設けない」ことを大事にする「オッカムの剃刀」という考えは、オルディナティオで「必然性なしに複数のものを措定してはならない」という文章に現れているが、自分で考えること、そして聖書という絶対前提を排除した当然の帰結と言える。

オッカムの革新性は、聖書に頼らない点にとどまらない。個人的印象だが、神学的ドグマを意に介していないとすら感じた。例えば「未来の偶然事に関する神の予定と予知についての論考」は、ペテロが民衆に「お前はキリストと一緒にいたのでは?」問われたときに、「キリストとは無関係」と拒否したのに、なぜ天国が約束されているのだろうか?拒否することを神は知っていたのか?という素朴な問題について議論が行われている。当然伝統的キリスト教では「全てお見通し」ということになる。現代人にとってはどうでもいい問題だろうが、神が全てを作り、全てを知り、あまねく存在するという伝統的キリスト教の信仰からいうと、キリストの一番弟子といえども、キリストを拒否することが許されるのかは重大問題なのだ。実際、罪を犯してしまう自分が最後は救われることが予定されているかどうかは当時の人にとっては重要な問題だった。例えばワーグナーのオペラ、タンホイザーでは、一度神を拒否して悦楽の世界に落ちたタンホイザーは、ローマ巡礼でも許されず絶望することになるが、罪と許しの問題が当時の人にどれほど重要だったのかをよく表している。

スコラ哲学が神の存在への疑いを契機に始まったとすると、当然このような神の予知能力は格好の題材で、盛んに議論されたと考えられるが、この問題に対しオッカムは一つの答えをドグマとして押し付けることは全くしない。様々な答えを用意し議論するのだが、私の印象では結局「神の中にある必然的事柄」と「神のうちにはない事柄」を分けることで、神によって決められてはいない人間の自由意志をみとめる立場をとっていると思う。すなわち、神があらゆる世事に気にかけていると考えることなどないと明言しているのが次の文章からわかる。

「私は次のように言おう。神の内に形相的にあるものないしあることが可能なものは必然的に神である。ところがAを知っていることはそのような仕方で神の内にあるのではなく、ただ述定によってあるに過ぎない。なぜはら、それはときには神について述べられ、ときには述べられないような、ある概念ないし名称だからである。かつそれは神である必要もない。なぜなら「主」という名称は神について偶然的に、かつ時に応じて述べられるが、だからと言ってそれは神であるわけではないからである。」(未来の偶然事に関する神の予定と予知についての論考:平凡社中世思想原典集成 18 清水哲郎訳)

当時、よくここまで言えたなと思うが、実際オッカムはローマ法皇庁のお尋ねものになっていたようだ。このようにオッカムは全てが神によって決まっているとは思っていなかった。そしてこの議論は、自由意志のない幼児に天国を保障しようとする「幼児洗礼」の是非の問題として、20世紀の神学者カール・バルトまで続いていく。

「未来の偶然事に関する神の予定と予知についての論考」は神学問題についての議論だが、科学や論理についても、これまでのスコラ哲学者と違う議論をオッカムは展開している。特に印象深いのはその主観主義立場だ。私は近代科学は17世紀デカルト、ガリレオに発すると考えているが、科学的真実についてのオッカムの議論は近代を先取りして、科学が間主観的な合意の問題であることを理解していたように思う。少し長くなるが先のPhilosophical Writingsに収められている「On the notion of knowledge or science」から英語のまま引用しよう(文章をスマフォで撮影して使っているので、読みにくいことをお許しいただきたい)。

驚くことに、オッカムは絶対的知識があるなどとは信じていない。代わりに「知識とは様々な考え(propositions)の集まりにすぎない」と明言している。そして、自然科学により得られたpropositionは、感覚されたもの自体ではなく、感覚的経験が心的にプロセスされて普遍化されたものだと述べている。そして、科学とは感覚により認識された事柄を心的過程(今風に言えば頭で)を通して普遍的考えとしてまとめることだと言っているのだ。

さらに次のように続けて、

科学とは、先に紹介したように対象についての心に浮かべる内容に関わるが、具体的な対象が必ず対応している。それに対して論理は、実際の対象とは無関係に心の中の対象について、心の中で処理することだと述べている。たまに「科学とは何か?」について様々な方と語り合うことがあるが、現代の科学者でも、科学とは何かについてオッカムほど深く考えている人にはなかなか出会わない。

このような科学に対する彼の理解は、オッカムと言えば唯名論とされている、彼の思想の中核を反映したものだ。

まず普遍論と唯名論をおさらいする意味で、以前紹介した(https://aasj.jp/news/philosophy/11720)山内志朗さんの普遍論争(山内 志朗. 普遍論争 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.191-203). Kindle 版.)の一節を再掲してみよう、

「実在論(realism)とは、普遍とはもの(res)であり、実在すると考える立場で、換言すれば、普遍は個物に先立って(anterem)存在する、と考える立場とされます。プラトン、スコトゥス・エリウゲナ、アンセルムスなどが代表者とされます。

唯名論(nominalism)は、普遍は実在ではなく、名称(nomen)でしかない、したがって普遍はものの後(postrem)にあるとするものです。個々の人間は触ったり触れたりできますが、普遍としての人間では感覚可能ではなく、触ることも見ることも酒を飲ませることもできません。ですから、唯名論というのは、常識にかなった思想とされたりします。代表者は、ロスケリヌス、オッカム、ビュリダン、リミニのグレゴリウス、ガブリエル・ビールなどです。」

すでに述べたが、普遍論争は歴史的には面白い議論だが、現在の問題としては不毛の議論と言える。というのも、脳による高次機能についての理解が進んだ現代では、私たちがものを認識するとき、それまでの経験から統合されカテゴリー化された表象(この中には個人の直接の経験だけではなく、歴史を含む人間全体が種として形成してきた様々な知識も、学習を通して統合されている:これを普遍といっても良い)が、瞬間・瞬間の感覚的経験に介入していることがわかっている。すなわち、意識、無意識を問わず私たちの経験の積み重ねは、物を認識するときに常に参照される表象として脳内に形成されている。この意味で、プラトンのイデアや、普遍は存在するのだが、全て脳内の表象として存在している。

逆にいうとイデアや普遍が脳内の表象だと考えてしまうと、普遍論争はもはや成立しない。その意味で、オッカムはこのレベルの理解に到達しており、ただの唯名論者ではなく、普遍論争に終止符を打つことができる思想に到達していた。

もう一度先の「Philosophical thinkings」からの引用の一部を、今度は日本語に訳して見てみよう。

「自然科学によって知られることになる考えは感覚できる事象や物から構成されるのではなく、そのような事象や物に対応する心的内容、あるいは概念からできている。」

驚くことに、認識も普遍化も全て心的過程(現代的にいうと脳過程)だと言っている。そして先ほど紹介したように、論理的処理は心に浮かぶ内容を対象に心的に処理することだと定義していることは、普遍化は心的過程を通して行われる結果で、決して普遍的な何かが実在して、それが個別の認識で参照されるわけではないと明言している。

普遍性がそれ自体で存在するのでなく、個別の体験が心的に処理されたものであることは、「Philosophical Thinkings」の中で認識論を扱った文章を抜粋した「Epistemological Problems」(オルヂナティオも含まれている)に何度も繰り返して述べられる。

例えば抽象について、

「多くの個別の事象や物から抽出したものに関する認識で、抽象的認識とは多くの事象から抽出してきた普遍性の認識に他ならない。そして、この普遍性が実際の対象と同じように心の中に質的実体として存在できるなら、当然普遍性は直感的に知ることができるし、抽象的という言葉の最初の定義に照らせば、そのような知識は直感的で抽象的といえる。」

と述べている。すなわち、普遍はまさに個別の認識から抽象されたもので、心的な実態として常に存在し、経験するときに感じる直感はここに由来すると結論している。

長い文章なので訳さずそのまま掲載するが、以下の文章では実際に経験しなかった歴史的事実も、実際にはそれを偶然経験した人から知識として得ることができると述べている。すなわち、普遍とは、自分自身の心的過程を通して実際の経験を抽象化するだけでなく、他の人の経験も自分の心的な内容として統合されたものだと明言している。

なんと革新的な思想だろう。中世とは思えない。17世紀近代を考えるときガリレオ題材に考えてみたい近代的科学の定義に近い認識にまでオッカムは到達している。すなわち、この文章には普遍性とは他人と自分の認識を統合するプロセスであることがはっきりと示されている。

オッカムが「心的内容」というとき、脳のプロセスを考えていたかどうかはわからない。おそらく違うだろう。ただこうしてオッカムを見てくると、脳の高次過程として現代の科学が理解していることを、「心的過程」として理解していることに驚く。だからこそ、普遍性やイデアが実態として、心の外にあるという荒唐無稽な考えを拒否できているのだ。

同じことが繰り返し述べられているだけだが、もう一つ文章を引用してみよう。

この文章の最後の部分では、「そのような普遍性とは心的な内容に他ならない。だからこそ、心の外にあるどんなものも出来事も、そのような普遍性ではあり得ない」と結論しているが、ここまで言えるのも彼が科学、論理、認識などを心的なプロセス(脳のプロセス)として解釈する革新性を持っていたからだと思う。

現在プラトンのイデアを文字通り信奉する哲学者はいないと思うが、しかし脳科学的に考えると、イデアや普遍性に対応する脳内の表象が私たちの個別の認識に介入することは当たり前のことになる。このことをオッカムはすでに理解していた。まさに、アリストテレス以降、最も偉大な哲学者といっていいと思うし、スコラ哲学に分類するのはやめたほうがいいとすら思える。

こんな先進的思想の持ち主が。当時のキリスト教教義の世界で生きられるとは私には到底思えない。実際「Philosophical Thinkings」に掲載されている「God’s Causality and Foreknowledge」、すなわち神学の核心問題についての議論を読んでみると、神が全てを知るというテーゼについて、実にのらりくらりと議論を繰り返し、「どうぞそうお考え下さい」とは言うものの、「・・・・だから、それは正しい」と言った明言は避けているように読める。これは、「未来の偶然事に関する神の予定と予知についての論考」でも同じだ。

例えば次の短いセンテンスを見てもらおう。

「いろいろ問題はあるが、神が将来のすべての偶発的な事実についても明らかに知っているという考えは保持する必要がある。ただ、どのような方法でそれが可能なのか、私は知らない・・・」

と突き放している。さらに次の文章では、神は過去、現在、未来についてすべて知っていたと述べた後、最後に「この結論は自然の論理からアプリオリに証明できるわけではないが、聖書や聖人の言葉としては証明されていることはよく知られている」、と皮肉っぽく述べている。

この言明自体は、従来の神学的ドグマを認めるものだが、しかしいくら読んでも積極的に主張しているようには思えないし、英国風皮肉に満ちている。

そろそろ結論にしよう。オッカムを「オッカムの剃刀」や「唯名論者」と言ったレッテルで理解してはならない。彼の思想の本質は、主観主義に立ち、主観が心的過程であることを理解し、それぞれの心的過程が、現在の世界だけでなく、過去、未来の人類と関連していることを理解していた点にある。アリストテレス以後、ローマで世俗化した哲学は、中世キリスト教により完全に滅亡した。スコラ哲学は、神の世界と世俗を二元論的に捉える革新性は持っていたが、アリストテレスの哲学の復興とは程遠い思想だった。しかし、オッカムに至ってついに中世の殻は破られた。彼の思想は、デカルト、ガリレオと言った17世紀近代科学思想を先取りするだけでなく、その後の英国経験主義の思想すら先取りしているのではないかと思う。

私自身も、長い中世からようやく抜け出せた気がした。

3月2日 全身麻酔の神経メカニズム(2月20日号 Cell 掲載論文)

2020年3月2日

学生時代、麻酔学で何を習ったのか全く思い出せないが、意識が失われるメカニズムについてはまず教えてもらっていない、というよりわかっていなかったのだろう。その後はほとんど麻酔科との接点なく生きてきたので、知識は何十年もアップデートできていなかったが、現役を辞めてから意識についての論文を読むようになり、少しづつアップデートされつつある。

今日紹介するドイツ・フンボルト大学の日本人研究者(Mototaka Suzukiさん)の論文は麻酔全般のメカニズムを明らかにした説得力のある研究で、意識の問題を含めて自分の頭の整理を可能にしてくれた。タイトルは「General Anesthesia Decouples Cortical Pyramidal Neurons (全身麻酔は皮質の錐体神経をデカップルする)」で、2月20日号のCellに掲載された。

麻酔を神経活動全般の抑制と単純に考えることはできない。そんなことをしたら私たちは死んでしまう。実際には、大脳皮質と意識や覚醒に関わる視床に限局した過程だ。実際、麻酔中の覚醒体験はよく問題になるが、脳活動がちゃんと維持されていることの証拠だ。すなわち麻酔中も複雑な神経ネットワークが維持されているため、特定の回路で麻酔の効果だけを取り出すのは簡単ではない。

この研究では全身麻酔の標的と考えられてきた皮質第5層の錐体神経に焦点を当て、錐体神経から第1層に投射している樹状突起と錐体神経細胞との神経連絡を遮断することが麻酔のメカニズムではないかと仮説を立て、これを検証する実験系を作っている。

素人の頭で考えても、生きた動物で同じ神経細胞の樹状突起と細胞体の連絡を操作するのは難しそうだ。この研究では脳皮質の一層だけが照射される光を発するμペリスコープという機械を用いて、樹状突起だけを興奮させたとき、細胞体の興奮を電極で記録するという方法で、樹状突起と第5層錐体細胞体の連結を調べ、様々な麻酔薬がこの連結を遮断することを発見する。

これが証明できると、あとは光遺伝学に伴う様々な問題の影響がないことを確認した後、樹状突起の興奮が細胞体へ伝えられるときにムスカリン型アセチルコリン受容体と代謝型グルタミン酸受容体の刺激が必要であることを、阻害剤を用いた研究から明らかにする。すなわち、樹状突起から細胞体までの連結は、アクティブに維持されていることが明らかになり、この維持機構が遮断するのが麻酔の効果であることを明らかにする。

この代謝型グルタミン酸受容体への刺激は、意識の調節に関わる視床から投射されており、また視床の活動を低下させることで樹状突起と細胞体の連結が低下することから、樹状突起―細胞体連結は視床から投射する神経末端により維持されていると結論している。

もう一度まとめると、全身麻酔の皮質への効果は末端の樹状突起の興奮が細胞体に伝わらないようにすることで起こる。そして、両者の連結は視床から投射した神経のグルタミン酸シグナルにより維持されており、全身麻酔はこの視床の活動を抑えることで、皮質の樹状突起と細胞体の連結を切る、というシナリオになる。

この研究は表面上は全身麻酔の効果に関する研究になっているが、実際には意識の研究としても重要だと思う。実際、意識がどのように皮質を活動的に保つのかについて自分の頭の整理に役立った。

カテゴリ:論文ウォッチ

3月1日 地道に進む膵島細胞生産法開発(2月24日 Nature Biotechnology オンライン出版)

2020年3月1日

I型糖尿病の治療として脳死や心臓死の方から頂いた膵臓から調整した膵島を患者さんに移植する方法が行われ、根治とはいかないものの効果があることは明らかになっている。ただ、調整できる膵島の量が限られるため、本当の効果が出るには、多能性幹細胞から大量に膵島を生産できる技術を開発する必要がある。

この分野は米国が進んでおり、私が現役の頃から培養タンクで生産することを想定した開発研究が行われ、ESやiPS細胞から6段階培養条件を変えてβ細胞を生産する方法が開発されている。ただ、それぞれの段階で次の分化を誘導する効率が100%には到底達しないため、ステップは明らかになっても、まだまだ改良が必要になっている。

今日紹介するワシントン大学からの論文は後期のステップに注目し、Neurog3と呼ばれる転写因子が発現して最終分化が進む過程の効率が細胞骨格を変化させることで大きく高められることを示した論文で2月24日号のNature Biotechnologyに掲載された。タイトルは「Targeting the cytoskeleton to direct pancreatic differentiation of human pluripotent stem cells (ヒト多能性幹細胞から膵臓細胞への分化を細胞骨格を標的にして誘導する)」だ。

研究は単純で、特異的分子マーカーで最終の6段階まで分類された分化過程の膵臓への分化が決まった前駆細胞を誘導し、この細胞を起点にNeurog3を誘導して最後の段階まで分化が進む過程でのマトリックスの影響を、細胞をシャーレに撒き直して調べている。

結果は明白で、シャーレに撒かずに細胞塊の浮遊液で培養を続けると進みにくい分化が、単一細胞にした後シャーレに1次元培養すると効率が上がる。この原因が細胞同士の接着が切られて細胞骨格が再構成されるからだと考え、アクチンの重合阻害剤など様々な薬剤を加えてNeurog3誘導を調べると、シャーレに撒いてLatruculinAを加えた時に最も強い分化誘導がかかることを発見する。

サイトカラシンなど他のアクチン重合阻害剤はあまり効果がないので、実際のメカニズムはの不明のまま残されたが、この発見がこの研究のハイライトで、ここの方法を至適化して最も効率のいいβ細胞生産条件を探している。

詳細は全て省くが、その結果、一度シャーレに撒き直すという煩わしさは伴うものの高い効率で機能的β細胞が誘導され、β細胞を障害したマウスの糖尿病を正常化できることを示している。

他にも、なぜLatruculinAがこれほどの効果があるのか調べた結果も示しているが、説明は省く。実際、細胞塊の培養だけでは、実際に起こっている細胞接着構造の変化は再現できないはずだ。したがって、このような試みは今後も極めて有効ではないかと思う。ただこのような研究ができるためには、基盤となるしっかりとした分化プロトコルが必要だ。この論文を読んで最も関心したのは、結果ではなく、膵島細胞生産が詳細な改良を行える段階に入ったことで、ES/iPS由来膵島移植が実現するときも近づいてきているという実感を持った。

カテゴリ:論文ウォッチ
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