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1月30日 Tau結合分子からTaunopathyの原因を探る(1月20日 Cell オンライン掲載論文)

2022年1月30日

アルツハイマー病(AD)を始め、様々な神経疾患の一群を、病状との相関が高く、さらに神経から神経へと伝搬可能なTauタンパク質の異常症と捉えTaunopathyとして眺め直す研究が進んでいる。ただTaunopathyといっても、ではTauの機能と病気との関連を説明せよと言われると、Tauについて微小管結合タンパク以外の何の知識も無いことを思い知る。

その意味で今日紹介する米国のグラッドストーン研究所をはじめとする3つの機関が共同で発表した論文は、私の頭の中のTau像をより明確にしてくれるとともに、ADをはじめとするTaunopathyの原因について新しい説明を与えてくれたという意味で大変重要な研究ではないかと考える。タイトルは「Tau interactome maps synaptic and mitochondrial processes associated with neurodegeneration(Tauと相互作用する分子マップはシナプスとミトコンドリア過程が神経変性に関わることを明らかにした)」だ。

これまでTauと相互作用する分子については数多くの研究が行われてきており、私もいくつかは目にしてきた。ただ、この研究では神経細胞中でTauと相互作用を行っている分子を網羅的に特定し、その中からTauの変異により相互作用が変化する分子を探そうとしている点がユニークだ。

この目的のために、Tauに標識をつけて結合分子を免疫沈降する方法とともに、Tau分子のN末、C末に近くのタンパク質をビオチン化する酵素を合体させたキメラ分子を用いて、Tauと相互作用している分子をビオチン化し、回収する方法を用いている。

まずビオチン化方法を用いてTauと相互作用する分子の中から、微小管の構成単位tublinと結合する分子を除くと、246種類という多くの分子が何らかの形でTauと結合している。そして、網羅的に調べることでしか見えないことがあることを実感する。なんといっても、核内タンパク質から、シナプトソーム形成まで、実に多様な分子と様々な場所で様々な分子と相互作用しており、微小管と相互作用する分子などと思っていたイメージが覆される。

またシナプトゾームに関わる機能についてみても、N末と相互作用する分子、C末と相互作用する分子は、異なる過程に関わっており(前者はシナプス接合部の形成、後者は細胞膜融合)、Tau機能の重要性を示唆している。

その中で、Taunopathyに関わる分子を探す目的でいくつかの実験が行われ、以下の重要な発見が行われている。

1)変性したTauは神経細胞間で伝搬する。すなわち、神経刺激に応じて細胞外に分泌され、また取り込まれることを意味するが、神経を活性化したときだけにTauと結合する分子を調べると、シナプトソーム形成時に細胞質側に飛び出ている分子と相互作用している。この結果から、Tauの分泌がactive zoneの細胞膜融合を介して起こることが示唆される。

2)様々な分子との相互作用は存在するが、前頭側頭認知症を誘導する変異型Tauとの結合が低下する分子を調べると、ほとんどがミトコンドリアの内側の膜に存在する分子。

3)前頭側頭痴呆症の変異があると、ミトコンドリア膜を通したプロトンの漏出が高くなり、ミトコンドリアの酸化的リン酸化とエネルギー生産とのカプリングが悪くなる。

4)前頭側頭痴呆症で低下が見られるTau結合分子のレベルは、ADをはじめとするTaunopathyの患者さんで低下している。

以上が主な結果で、本当はさらに様々な可能性を含んでいるとはおもうが、これだけでも私のTauに対する理解は大きく変化した。AD治療開発にも期待したい。

カテゴリ:論文ウォッチ

1月29日 多発性硬化症ではEBウイルス抗原に対する抗体が存在し、神経細胞のGliCAMを標的にしている(1月24日 Nature オンライン掲載論文)

2022年1月29日

ついこの前、EBウイルス感染が多発性硬化症(MS)発症の引き金を引くという論文を紹介したが(https://aasj.jp/news/watch/18787)、この論文は一種の自然感染実験で、MSを発症した人のEB感染時期を追いかけて、EB感染後に神経変性が始まり、最終的にMSが発症するという因果関係を明らかにした研究だ。

この結果は、かなり強くMSのEB原因説を示しているが、この可能性を今度はメカニズムの面から明らかにした、やはり画期的なスタンフォード大学からの論文が1月24日オンライン掲載された。タイトルは「Clonally Expanded B Cells in Multiple Sclerosis Bind EBV EBNA1 and GlialCAM(多発性硬化症でクローナルに増殖したB細胞はEBウイルスのEBNA1抗原とともにGlialCAMに結合する)」だ。

もしEBウイルスが自己免疫反応を誘導しているとしたら、EB特異的B細胞がクローン増殖するはずだと著者らは当たりをつけ、患者さんの末梢血と、脳脊髄液のB細胞を取り出し、個々の細胞が発現している免疫グロブリン(Ig)遺伝子をまず特定している。

するとMS患者さんだけで、特に脳脊髄液B細胞で同じIg遺伝子が使われている、すなわちクローナル増殖が起こっていることを発見する。さらに、脳脊髄液中の抗体のアミノ酸配列を決めると、クローナルに増殖しているB細胞のIg遺伝子に一致する。この結果は、活性化されたB細胞が脳に移行し、さらに抗原特異的なクローナル増殖を起こしていることを強く示唆している。

そこで、クローン増殖していた148種類のB細胞のIg遺伝子から抗体を再構成し、EBへの反応性を見ると、1/3がEB特異的に、2割が他のヘルペスウイルスに反応することが分かった。そして、患者さんレベルで見ると9例中6例でEBNA1に対する抗体が存在することがわかった。さらに、EBNA1抗体が出来るために、遺伝子の変異がほとんど必要ないことも構造解析から明らかにしている。

以上からEBウイルス感染が引き金になっている可能性が示唆されたが、これによって出来た抗体が自己の抗原に反応するかが問題になる。そこで、代表的抗体をヒトタンパク質アレーを用いて調べると、グリア特異的に発現しているGlical CAMと反応すること、さらにセリンリン酸化されたGlialCAMに対してはEBNA1と同じ強さで結合することを発見している。すなわち、EBウイルスに対する抗体反応が、自己抗原に対する免疫反応を誘導することが明らかになった。

実験的には、ミエリンペプチドで誘導する脳炎モデルマウスにEBNA1を免役すると病状が悪化することを確認するとともに、臨床例で血中のGlialCAMに対する抗体が上昇していることも確認している。

以上、この研究ではEBウイルス感染が最初の引き金なのか、あるいは病気を悪化させる要因なのかについては結論していないが、EBウイルス感染が自己免疫を誘導する可能性については明確にした重要な仕事だと思う。

この論文ではほとんど触れていないが、個人的にはEBウイルス感染でGlialCAMに対する抗体が出来ることにおどろいた。というのも、最近YouTubeで勉強会をした皮質下嚢胞を伴う大頭型白質脳症(MLC)の原因遺伝子の一つがGlialCAMの変異であることだ(https://www.youtube.com/watch?v=0oOJFM19Ohc)。MLCの子供達は白質障害、すなわち神経軸索が傷害される。MSも同じ白質障害と言えるので、この共通性が、白質障害の成り立ちにの理解について新たな糸口になるのではと期待している。

カテゴリ:論文ウォッチ

1月28日 ICS:FACSと顕微鏡イメージングを合体する (1月21日 Science 掲載論文)

2022年1月28日

ドイツ留学以来一貫して、実験にはfluorescence activated cell sorter (FACS)のお世話になってきたし、自分たちでもFACSに使える様々なmAbを樹立してきた。この間、処理速度やパラメーターの数など様々な改良が行われてきたが、これまでとは質的に異なるイノベーションは起こってこなかったように思う。

今日紹介するドイツにあるEMBLとFACSを提供する老舗ベクトン・ディッキンソンからの論文は、FACSに、これまで顕微鏡でしか見ることの出来なかった細胞内の構造を検出するシステムを合体させた、画期的な機器Image enabled cell sorting (ICS)についての開発研究で、1月21日号Scienceに掲載された。タイトルは「High-speed fluorescence image–enabled cell sorting(蛍光イメージによる高速細胞ソーティング)」だ。

このICSは、2013年UCLAから発表されたFIREと名付けられた、細胞の形態を検出してソーティングを行うFIREという技術を基盤としている。フローシステムで細胞形態を分類できると、当然これまでのFACSとを組みあわせる可能性を探る。FIREから10年近く経過しているが、FIREを開発したDieboldさんがベクトン・ディッキンソンに移って、EMBLと共同でこれを実現したと言えるのがICSになる。

技術についての詳細は全く理解していないが、一般的なフォトマルに加えて、フォトダイオードを用いて、形態や細胞内の蛍光イメージを検出できるようにしている。フォトダイオードも2個用いて、光が細胞で遮られることによるスポットを用いた形態検出、また細胞そのもののイメージを合わせることで、より正確な形態が検出できるようになっている。

驚くのは、細胞内イメージという大きなデータを、他のデータと細胞形態上に、高速に合成する技術で、画像解析技術の進歩を実感する。

後は、細胞内の異なるオルガネラを染めた時、正確に画像が再建されていること、それを用いて細胞をソートできることを示した後、ICSによりこれまで難しかった課題が解決できることを示している。

細胞分裂は、顕微鏡イメージの染色体の分離やポジションに応じて、prometaphase, metaphase, anaphase, そしてtelophaseに分けられるが、これらが別々にソーティング可能になっている。

最後に、TNFなどのNFκBが活性化シグナルにより、RelAは核内に移行するが、この核内移行、およびその維持に関わる分子を、CRISPRを用いたスクリーニングで特定する実験系を設定し、RelAの核内移行が異常になった細胞をソートし、どの遺伝子がノックアウトされているのか検出する実験系が可能であることを示している。

結果は以上で、FACSを使ったことがある人なら、これがどれほど素晴らしいことか分かると思う。今後実際の組織のように、異なるサイズの細胞が混在する条件で、どのぐらいの精度が得られるのかなど、製品までの検討項目は多いと思うが、大きなイノベーションが起こったという気がする。

カテゴリ:論文ウォッチ

1月27日 男女の脳発生の差を再現する(1月19日 Nature オンライン掲載論文)

2022年1月27日

男女の脳に、解剖学的、機能的差が存在していることは間違いない。例えば、男性の方が脳が大きく細胞数も多いことが分かっているし、自閉症スペクトラムは圧倒的に男性に起こりやすい。ただ、これらの差が人間の発生過程でどのように生まれるのかについては分からないことが多い。

今日紹介するケンブリッジのMedical Research Council研究所からの論文は、ES細胞から脳のオルガノイドを形成させるときに、様々なホルモン環境にさらすことで誘導される変化を、分子生物学的、細胞学的に調べた研究で、男女の脳発生の差についての細胞学的違いを特定したという意味で、重要な研究だ。タイトルは「Androgens increase excitatory neurogenic potential in human brain organoids(アンドロゲンは人間の脳オルガノイドの興奮性ポテンシャルを高める)」だ。

実験自体はオス・メス由来のES由来オルガノイドを、dihydrotestosteron(DHT)、testosteron(T)および、estrogen(E)で刺激し、細胞学的、分子生物的に淡々と調べており、特に何かが目を引くことはない。しかし、笹井さんたちが始めたオルガノイドが、ここまで安定的に人為的操作が加えられるようになっているのかと、感心した。

DHTとTを別々に調べているのは、Tはエストロゲンに変換されエストロゲンとして働く一方、DHTはそのまま男性ホルモン受容体(AR)だけを介して働くため、AR特異的刺激として扱えるためだ。実際、マウス脳発生では、不思議なことにTが一度Eに変換されて男性化を誘導するという不思議なことが起こっているのが知られている。

幸い人間のオルガノイドでは、DHTもTも細胞学的には同じ効果を示し、自己複製能を持つradial gliaの数が上昇する。そして、男性ホルモン存在下でこの細胞は基底層にとどまっていることから、分化が抑えられていることが分かる。この結果、この倍養系では男性ホルモンが存在すると大体10%程度細胞数が上昇する。

次に、この変化を誘導する分子生物学的基盤を発現遺伝子の比較から検討し、分化に関わる遺伝子、および代謝のハブmTORに関わる遺伝子の発現が大きく変化していることを突き止める。この結果に基づき、ヒストン脱アセチル化酵素を阻害する実験、およびmTORを阻害する実験を行い、男性ホルモンの作用をそれぞれの阻害剤が抑えること、逆に言うと男性ホルモンによりHDACおよびmTORが活性化されることが、脳の男女差を発生させる原因になっていることを示している。

感心したのは、オルガノイドの性質を変化させる培養法が存在することで、皮質培養から、もう少し背側側の脳オルガノイドを誘導し、自閉症スペクトラムや統合失調症に機能的に強く関わる抑制性神経の発生に及ぼす男性ホルモンの効果を調べる実験が行われている。驚くことに、この条件下での抑制性ニューロンの発生は、ほとんど男性ホルモンに影響されない。

この結果は、基本的に興奮性ニューロンだけが男性ホルモンで上昇することを意味しており、これが男が興奮しやすい原点かもしれない。

以上、言ってみれば男性ホルモンを培養中に加えるだけの実験だが、これだけの変化が発生で生まれることに驚く。この原稿を書きながら、「男と女の間には・・・」と歌っている野坂昭彦を思い出していた。

カテゴリ:論文ウォッチ

1月26日 膵臓ガンのCAR-T治療を糖鎖操作を通して高める(1月19日号 Science Translational Medicine 掲載論文)

2022年1月26日

ガン細胞で細胞膜分子の糖鎖調節が大きく変化していることはよく分かっているが、これをガン特異的な治療に利用することは簡単ではないようだ。一方、ガン特異的な糖鎖の変化が、ガンに対する免疫反応を落としてしまう可能性があり、この場合は糖鎖添加を抑えることで治療効果を高めることが出来る。

今日紹介するミラノにあるサンラファエロ研究所からの論文は膵臓ガンに対するCAR-T治療開発過程で、抗原に使っているCD44ver6のガン特異的な糖鎖修飾をブロックすることで治療効果が高まることを示唆した研究で、かなり特殊なセッティングではあるが、糖鎖修飾にも目を配ることの重要性を示した研究と言える。タイトルは「Disrupting N-glycan expression on tumor cells boosts chimeric antigen receptor T cell efficacy against solid malignancies(腫瘍細胞上のN-グリカン発現を止めることで、固形ガンへのCAR-T治療効果を高めることが出来る)」だ。

Nature Medicineが選んだ昨年の医学研究トップニュースの一つが骨髄腫に対するCAR-T治療の成功で、ようやくB細胞白血病以外にもCAR-Tが拡大し始めたという期待がこもっているが、それでもいわゆる固形ガンに対する開発の歩みは遅い。

このグループは膵臓ガンなどRAS発現腫瘍で特異的に発現するCD44のスプライス型CD44ver6に対するCAR-Tの効果を高めるために、この抗原の糖鎖修飾を標的に出来ないか調べる中で、Nグリカン合成に関わる酵素を欠損させると、ガン細胞とCAR-Tとの免疫シナプスと呼ばれる、アクチン依存性のプロセス田高まり、結果CAR-Tのキラー効果が高まることを発見している。

後は、この試験管内の結果を、生体内へ移行させられるか実験を重ね、Nグリカン合成阻害剤として、2DG(2-deoxy-D-glucose:glucose/mannoseのアナログ)を静脈注射と、CAR-Tを併用することで、単独ではほとんど効果の無いCAR-Tによる効果を得ることが出来ることを示している。さらに、PD-1/PD-L1チェックポイント分子の機能を抑えることも示し、2DG投与が、療法の効果で固形ガンのCAR-T治療を高める可能性を示した。

後は、この処理がCAR-Tの疲弊を防ぐ効果があること、他の抗原にも利用できることなどを示しているが、割愛する。

これまで大きな困難が伴う固形ガンのCAR-T治療のために、小さな穴でもなんとか見つけようとする研究の一つで、2DG自体はガンに特異的に取り込まれることが知られており、可能性はある。効果が高いとは言えないが、それでも一歩ゴールに近づけるという意味で、期待したい。

カテゴリ:論文ウォッチ

なぜスピノザだけが「エチカ=倫理」を書けたか?(生命科学の目で読む哲学書第17回)

2022年1月25日

なかなか生命科学の目からスピノザを位置づけられたという気になれず、延ばし延ばしになったが、ようやく重い腰を上げて、スピノザについて書く気になった。

スピノザが活動した時間から考えて、本来ならライプニッツの前に持ってくるべきスピノザを後回しにしたのは、生命科学の歴史から見たとき、スピノザの著作群の生命科学史に対する意義を自分なりに納得することが難しかったからだ。というより、科学誕生との関係性はほとんどないとすら思っていた。とはいえ、デカルト、スピノザ、ライプニッツは17世紀の顔だ。とりあえずこの1年、ああでもない、こうでもないとスピノザの本を読み返すなかで、スピノザの書いた「デカルトの哲学原理」に出会って、ようやくライプニッツと科学の関係が頭の中でまとまってきた。

これまで、デカルトを解剖生理学、ライプニッツを細胞発生学と関連付ける視点から彼らの著作を紹介したが、同じようにスピノザを今あえて位置づけるとしたら、統合生物科学と関連付けられるように思う。といっても、統合生物科学自体何かがよくわからないとは思うが、生命も含めてあらゆる現象の全てを統一的に理解しようとする方向性と思ってほしい。今回、邦訳されている彼の著作をほとんど読み直してみて、近代科学誕生に貢献した17世紀の哲学者のなかでは、私たち現代の科学者が共有している自然観を持っている点では、圧倒的な存在感があると思うようになった。

スピノザの哲学と言えば、当然「エチカ=倫理学」だ。ヘーゲルやドゥールーズ、さらには脳科学者のアントニオ・ダマシオまで、エチカについてわざわざ本を書くほどで、17世紀の哲学者としては、ライプニッツを遙かにしのいで、デカルト並みのインパクトを持っている。しかし先に述べたように、生命科学の歴史という視点から彼の思想をまとめる時、最初に「エチカ」を取り上げてしまうと、科学とは無関係に見えて、エチカの現代的意義を見失いかねない。というのも、現代でも「倫理」については、科学とは対立した概念で、例えば生命倫理というと、生命科学研究の暴走を社会や宗教の規範をもとに禁止するというニュアンスがある。すなわち倫理と科学と言ったように二元論的に考えることが多い(実際には、倫理を生命科学、認知科学の対象としている研究者おり、スピノザはその草分けだと私は考えているが)。そこで、まず彼のエチカ以外の著作から、スピノザとデカルトの関係を私なりに紹介し、統合生命科学者スピノザという印象がどこから来るかを示した後、「エチカ」に取りかかることにする

さて、ライプニッツと比べると、スピノザはデカルトと比較しやすい。と言うのもデカルトがボヘミア王女エリザベートに対する講義として書いた「哲学原理」を題材にスピノザが自分の意見を述べながら解説した本「デカルトの哲学原理」という本が残っているからだ。

この本を読むと、スピノザ思想の中心にデカルトがドカッと存在し、神や世界についての形而上学では、ほとんどデカルトを踏襲しているように思える。

例えば、デカルトの懐疑を突き詰めて真理を探る方法論については、

「この真理を発見すると同時に、彼は全ての学問の基礎を発見し、またその他の全ての心理の尺度と基準をも発見したのであった。曰く「この命題と同様に明瞭判然と認識されるものは全て真である」

とまで述べて、絶賛している。そして、世界について考えている自分、しかし有限な自分が実在する根拠として神が存在しているという概念にも一定の評価を与えている。要するに、全てを疑い、いかなるドグマも排除した上で、明瞭判然と認識できる実体のみを認める方法論を堅持した上で、有限の自分の実在を神に託すことで、自然と人間よりなる一般世界から神を切り離した点では、スピノザはデカルトと17世紀大陸合理主義を継承していると言える。

ただ、精神と身体の関係となると、二人は大きく異なる。「デカルトの哲学原理」では、残念ながらデカルトの心身二元論についての彼の考えを明瞭に述べた箇所は見当たらない。しかし同じ本に併載されている「形而上学思想」を読むと、自然、身体、精神と言った自分自身も含まれる世界の理解では、スピノザは、一般に信じられているデカルトの「心と身体」を分離する単純な二元論を否定している(ただデカルトも一般に言われるような単純な二元論を考えていたのかどうか、後で議論したい)。

と言うことで、まず「形而上学的思想」での生命の定義から始めよう。

だから我々は生命を「事物が自らの有に固執しようとする力」と解する

と述べて、人間から植物まで、自己の定常状態を積極的に維持している実体が生命であると、植物から動物まで全ての生命を包括できる生命観を提案している。人間存在は本来的に闘争状態にあるとするホッブスと共通していると言えるが、それを生命全体に拡大したスピノザの観察力は鋭い。現代の生物学者にも全く異論はないだろう。

その上で精神の実在について次のように続ける。

しかしまず注意しておきたいのは、我々が人間精神の創造の時期について何も述べなかったことである。我々がそれを述べなかったのは、人間精神は物体なしにも存在し得るので、神がいつこれを創造するかが十分明らかでないためである。人間精神が他の何ものかから分かれて生ずるものでないことは十分明らかである。なぜなら、そうしたことは算出される事物においてのみ、すなわち実体の様態においてのみ起こる。これに対し実体自身は産出されることができず、ただ全能者によって創造されるのみである。

人間精神は物体なしにも存在し得る」と、精神がモノとは異なる原理を持つ実体であること述べている。一見するとこれは心身二元論に近いように思う。しかし精神という新しい実体(=その原理)の由来については、誰もわからないと正直に告白している。現代風に勝手に解釈すると、脳回路は「身体的」だが、その中の情報がどう発生したのかを、脳回路だけから理解できないと言っているのと同じだと私は解釈している。

そして、

我々は、人間身体の機構を眼中に置くとき、そうした機構が破壊されうるものであることをはっきりと認識するが、物体的実体を眼中に置く時は、それが同様の意味で破壊され得るものとは考えないのである。

と、私たちの身体は破壊しうる実体だが、それを構成する物体的実体は破壊されないと述べている。すなわち、我々の身体を含め個々の事物は破壊可能に見えても、自然全体に包括され構成された実体という観点で見れば全て破壊されることなく保存されると述べている(もちろんこれは現代の科学を知る私の解釈で、スピノザがここまでクリアに考えたかどうかはわからないが、かなり近いと思っている)。詰まるところ、人間の身体は大きな唯一の自然に完全に包含されている捉えるべきであると述べている。

そして最後に、

哲学者たるものは、神がその最高の能力によってなし得る事柄を問題とせず、神が自然に与えた諸法則にもとづいて自然を判断する。だから哲学者たるものは、そうした諸法則から押して確実で正当だと結論されることを確実で正当だと判断する。だからわれわれもまた精神について語るに当たり、神がなしえることを問題とせず、ただ自然の法則から生じることを問題とする

(以上これまでの引用全て、岩波書店 「デカルト哲学の原理」付録「形而上学的思想」、畠中尚志訳)

と、人間の精神が物体や生命とは異なる原理下に存在しているとしても、その実在性をいちいち神に遡るのではなく、精神についても神が創造した自然から自然に生まれた実体として、考えていくべきだと主張している。すなわち、生命や精神を物理法則からだけから理解することは難しいが、しかし生命の原理や精神も自然から生まれた実体で、この関係を考えることは人間(哲学者)の課題であり、神学問題ではないこと述べている。要するに精神と身体は異なる因果性で動いていても、両者とも自然(=神でもある)の産物であると述べている。

繰り返すが、以上は全て私の勝手な解釈だ。しかしここに引用したセンテンスに出会ったとき、ようやくスピノザを生命科学者の目でまとめてみる気になった。すなわち、物体、生命、精神の全ては一つの自然から発出したもので、どう生まれてきたのか、私たちにはわかっていないだけなのだと、自然を統一的に理解することの重要性を説いている。

少し余談になるが、スピノザの自然、身体、精神についての考えを上記のように理解した上で、改めてデカルトを考えてみると、デカルトの心身二元論も本当はスピノザの考えに近いところもあったのではと思える節もある。デカルト二元論は、精神を物質の世界から切り離し、精神抜きの人間を機械と考えたと、単純な図式で理解されることが多い。事実、彼の情念論を読むと(生命科学の目で読む哲学書15参照:https://aasj.jp/news/philosophy/15137)、身体と精神が松果体を介してつながり、精気を介して相互作用している、いわゆるデカルト劇場と称されるイメージが示されている。確かに身体と精神を2分しているのだが、私にはこのイメージが、デカルトも精神と身体のつながりを求めており、そのためにあれほど多くの動物や人間の解剖を観察したのではと思えてくる。確かに、松果体に結合した精神が身体を操作するというのはあまりに幼稚だが、私にはデカルトが、このような単純な図式で満足していたとは考えられない。

事実、最近翻訳されたフランスの哲学者カンプシュネルの「デカルトはそんなこと言っていない」では、明確にデカルトが「身体なしの思考」を否定している箇所を見つけることはできないが、彼の著作を総合的に解釈すると、決して心と身体が完全に分離していたとは思っていなかったのではと論じている。

いくら時代は違っていても、また考える自分を実在の起点に据えたといっても、デカルトも現代の我々と特に変わる身体感覚を持っていたわけではなかったはずだ。と言うことは、自分の身体が存在しない状態で、自分は考えることができるなどと実感出来ていたはずはない。その意味で、カンプシュネルが

「デカルトは常に、経験にできるだけ定位しようとしていましたから、人間の精神は思考するのに身体を必要としないという一文は、デカルトの言いそうなことではない、と言うことになるのです」

と述べて、デカルトの心身二元論を、心と機械のようなわかりやすい図式に落とし込む危険を指摘しているのは肯首できる。

ではデカルトの二元論とは何だったのか?

科学者の立場からデカルト二元論を考えてみると、以前述べたように「心身二元論」というより、「明晰に理解できる対象としての身体に関わる課題」と「明晰には理解できず、神の領域に預けるしかない精神に関わる課題」、すなわち「わかることと、わからないこと」を明晰に分けようとする二元論だったのではないかと思っている。

個人的印象を述べるのを許してもらうと、ギリシャ哲学からスコラ哲学まで、17世紀以前の哲学では、世界を自分の頭の中で説明しきることが重視されていたように思う(哲学とは本来そういうものだが、自然現象の説明も同じように扱われてきた)。そのためか、ギリシャからスコラ哲学までの著作を読むと、ある意味で「わからない」と説明を諦めることはほとんど行われてこなかった。代わりに、自分の頭で考え抜く中で一つのもっともらしい説明を求めていたように思える。実際、宇宙の森羅万象について、「わからないから」と説明をやめるのではなく、様々な説明を着想していることには驚くし、なかには今でも納得できるような説明もある。とはいえほとんどの説明は結局思いつきでしかない。もっともらしく説明して多くの人が納得してくれるなら、それがドグマであろうと、ねつ造であろうとお構いなしになる。これでは客観的近代科学は成立し得ない。従って、近代科学の最初のハードルは、わからないことを、わからない(かもしれない)と明確に述べることだった。

こう考えてみると、全てのことを疑ってかかるところから始めたデカルトが、わかることとわからないことを明確に区別し、「わからないこと」をわからないとして神の領域に預けたことこそが、17世紀近代科学の最も重要な原動力になったと言えないだろうか。

その後ガリレイによって、「では何が科学的にわかると言うことか?」が問われる。これについては次回に詳述する。こうして、わかることだけを近代科学の対象とし、ガリレイが示した科学的理解を生産する手続きに従い現象を扱うことでようやく近代科学が成立するが、これらが集約した最初の成果が、ニュートン力学だった。いったん客観的理解を得るための手続きが科学として確立すると、科学に限界はなくなる。物理学はわかることの範囲を広げ、アインシュタインの相対性理論、量子力学、ビッグバン、さらには一般相対性理論に基づく重力場の発見など、私たちの直感とは全く異なる世界を、正しい概念として定立してきた。

物理学と比べると、ガリレイに始まる客観的科学の手続きを生命理解に適用するには時間がかかったが、そこにも生物を科学の対象として扱うという意味では、デカルト二元論は大きく寄与している。すなわち、身体を理解可能な機械仕掛けとして扱うことで、17世紀から生理学は大きな進展を見せた。そして物理学と同じように、生命科学はわかるかもしれない領域を少しづつ広げ、特に20世紀後半大きな飛躍を遂げるが、これについてもいつか詳細に検討したい。

このように「身体」が客観的研究対象になる一方で、「心」に関わる様々な因果性については、「わからないこと」として神の領域に棚上げされた。この「分かりそうなことだけ対象にする」デカルトの割り切り、すなわち二元論は、近代科学を推し進める原動力となったが、この最大の副作用として、世界で起こる森羅万象の背景にある、目に見えない因果性、例えばアリストテレスが生命の本質と考えた目的因のような因果性、さらには17世紀以降の哲学や政治学で議論された、人間の行動に関わる善悪や倫理と言った因果性は、科学の対象から排除されてしまった。

もちろん二元論に対して、世界を一元的に考えるべきとする反省は、すぐに始まる。本来神と人間、現世と来世、体と魂と、二元論的世界を、神を中心に据える一元論で読み直す、復古主義的スコラ哲学の反動は大きかったはずだ。ただ、このような復古主義に新しい思想的発展はない。17世紀、新しい世代の哲学者たちは、新しい一元論の可能性を模索した。

前回紹介したように、ライプニッツは二元論でもない、唯物論でもない、有機的単位モナドを構想し、モナドが集まって起こる有機的生成過程を、生命にとどまらず宇宙全体に広げる画期的アイデアを思いついた。そして、モナドを神の意志が統合された実在単位とすることで、心と身体を統一しようと構想した。しかしモナドから生命を一元論的に説明すると言うことは、例えば細胞の活動として精神や思想を説明することに他ならず、これは現代生物学にとっても難しい問題だ。ライプニッツが顕微鏡下でうごめく粒子に心を奪われたとしても、ここから精神や思想を実体的に説明することは簡単ではない。現代脳科学でも困難な社会や道徳を説明できるようにモナド論を発展させることは簡単ではなく、彼の社会観や倫理は、当時の常識を超えることはなかった。

一方、デカルトも当然人間の行動や倫理について考えてはいたと思うが、身体と心を切り離し、わからないことを神の領域に預けてしまう二元論では、身体と心の関係を問う必要がある倫理や道徳を構想することはむずかしい。この結果、少なくとも邦訳されている著作の中で、デカルトが自ら倫理について述べた記述はほとんどないと思う。

社会倫理というと、「人間は本来的に闘争状態にある」と述べたホッブスが有名で、先に紹介したように「生命の目的は自己保存の追求である」とするスピノザと共通するところもあるが、デカルトと同じで、彼の関心事がもっぱら人間であったため、その倫理の基礎は自然とは完全に切り離されており、基本的には法の問題に近いところにある。

ここからは私の妄想だが、これら同時代人に対し、人間の感情、精神、社会や政治など、人間の領域を一連の自然現象ととらえるスピノザの一元論だけが、人間の問題「エチカ=倫理」を、自然との連続の中で論じることができた。すなわち、倫理とは宗教、社会、人間に限定された領域ではなく、生命全体に関わる領域であることが構想された。もちろん、感情や精神を自然の理として説明することは簡単ではないし、スピノザも人間の精神について満足いく説明をしているわけではない。しかし人間の感情や精神、そしてそこから生まれる倫理も、統一された自然から生まれてきており、理解がむずかしいからといって神の領域へ棚上げする必要は全くないと考えている。スピノザにとっての倫理とは、宗教や国家の規範からトップダウンで押しつけられる禁止とは全く異なっている。

このことは、知性改造論、デカルトの哲学原理、を通して統合的自然観に至ったスピノザが、その延長にある思想を述べた「神学・政治論」や「国家論」を見てもよく分かる。社会や宗教を、より個々の人間の立場から考えている。すなわち、社会も政治も、そして宗教すら、自分の現状を保存しようとする人間の生の延長上にある。彼にとっての神は自然を創造した力であっても、現存する人間や社会を支配する力ではあり得ない。

例えば神学・政治論で、

したがって、わたしたちの結論はゆるがない。宗教は自然の光によって示されようと預言の光によって示されようと、支配権を持つ人たちがそう取り決めない限り、法令としての力を持ちえない。また支配権を保持している人たちを介さずに、神が直接治める特別な王国などというものは、人間世界には存在しないのである。

スピノザ. 神学・政治論(下) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.3220-3223). Kindle 版. 

を読むと、従来のキリスト教のように、神が直接自然や世界を支配するという考えを微塵も持っていないことがよくわかる。表面上彼もキリスト教を奉じているように見えるが、彼の宗教は、ユダヤ教やキリスト教の枠から大きくはみ出している。例えば旧約聖書に書かれているヨシュアについて、

たとえばヨシュアも、そして恐らく『ヨシュア記』の作者も、太陽が地球の周囲を回っていて地球は静止しており、その太陽も時には動かなくなったことがあると思っていたが、これは聖書にはっきりと出ていることだ(22)。しかし多くの人は、天に[不規則な]変化が起こりうることを認めたがらないから(23)、この箇所をそのようなことなど言われていないかのように説明している。これに対し、より正しく哲学することを学んだ別の人たち(24)は、地球の方が動いていて太陽は静止していること、つまり太陽は地球の周囲を回ってはいないことを知っているので、聖書自体はこのことを明らかに否定しているのに、これをどうにか聖書から絞り出そうと全力を尽くしている。

と、ガリレイ裁判の結果を真っ向から否定するとともに、聖書が結局は人間の恣意的な言葉であるとすら述べている(これはガリレイの「偽金検査官」と共通する)。神学・政治論が書かれたのは、ガリレイ裁判から40年後のことだが、19世紀まで天文学対話が禁書とされていたことを考えると、よくまあここまで言ったと驚く。要するに、彼が神を語るとき、ユダヤ教やキリスト教の神とは全く違う神が語られている。

政治についてもそうだ。先に述べたように、彼にとって生命は自然の中で自己を今ある状態に保存することを優先する実体だ。ここから彼の生の哲学が生まれるが、この自分を今ある状態に保たせることができる可能性を高めることこそ、良い政治であると説いている。すなわち、個人の生存を最重要と考える倫理を政治に求めている。

一人の市民としての権利とは、誰もがもっている、自分を自分の[今ある]状態に保ち続ける自由に他ならない。この自由は至高の権力が出すさまざまな布告によって定められ、もっぱらその権威によって守られる。ひとはもともと一人一人が自分の好き勝手に生きる権利をもっていて、この権利を当人の裁量だけで決めていた。ところがその権利を、つまり自分の身を守る自由や力を他人[=至高の権力]に引き渡したからには、ひとはこの他人の流儀だけに基づいて生き、この他人からの保護だけによって自分の身を守らなければならなくなるのである。

スピノザ. 神学・政治論(下) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.3220-3223). Kindle 版.

このように、デカルトやライプニッツと異なり、スピノザは宗教や政治についてまで、自由でプラグマティックな発言を繰り返すが、この背景に彼が到達した全く新しい「倫理」についての思想が存在しており、これが「エチカ=倫理」として、彼の晩年に発表される。

この新しい「倫理観」を一言で言うと、「宗教的であれ、政治的であれ、禁止=法に基づく倫理とは異なる、自然の因果性に基づく倫理」と言えるだろう。エチカは5部構成で、1)神について、2)精神の本性および起源について、3)感情の起源および本性について、4)人間の隷属あるいは感情の力について、5)知性の能力あるいは人間の自由について、から構成されている。読んだあともう一度振り返ると、この構成は実によく出来ているので、それぞれの章を個別に見ていこう。

第1章

倫理を「神について」から書き始めているのを見ると、結局宗教的倫理の押しつけかと思ってしまう人も多いと思うが、私はそうは思わない。すでに見たように、スピノザにとっての神は、キリスト教やユダヤ教の神の概念からかけ離れている。一般的には、倫理というと、宗教や社会から個人に発せられる禁止と考える人が多いだろう。しかし一方で、倫理観と言ったとき、個人の精神が自発的に生み出す有徳の行動を考えることもある。スピノザは、この自発的に生まれる倫理とは何かを明らかにしたかったため、あえて神からスタートしている。

事実エチカの最初は、「はじめに神ありき」からスタートしない。エチカではユークリッドの幾何学のように、最初いくつかの定義が提示されるが、この定義でも「神」という言葉はようやく6番目に出てくる。また、その後の公理や定理でも、定理の11番目に



神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。

(畠中 尚志. 岩波書店 スピノザ エチカ(以後引用は同じ本から))

「神」という言葉がようやく現れる。

これに対し、エチカ自体の始まりは、

自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。

と言う文章だ。これも私の勝手な解釈だが(スピノザに関しての意見は私の勝手な妄想としてこれからも聞いて欲しい)、自己原因の存在しない人間が、自発的な倫理観を持ちうるのかがテーマであることが暗示されている。すなわち、有限で自己原因を持たない人間が、自己原因を持つかのように行動できるための条件を考えている。

こう考えてみると、倫理を構想する前に、世界の全ての内在的原因として、何かを想定する必要があり、それを神として提案したのがこの章というわけだ。ただ、すでに見たようにスピノザの神は、キリスト教やユダヤ教にみられるように、擬人的に禁止を命ずる神ではない。逆に、自然自体に内在する原因と言っていい。スピノザの神を自然と訳し直して読んだ方がいいという人は多く、私もスピノザの神の意義を理解した上でも、彼の文章を読むときは神を自然と頭の中で読み替えた方が理解しやすい。ただ、現在の我々にとっても、宇宙や自然がどう始まったのか、それを説明することは難しい。その意味で宇宙の始まりの原因ととしてスピノザが神を持ち出すことに違和感はない。

すでに述べたように、スピノザにとって重要なのは、人間の身体も、精神も全て自然に統合された存在で、人間から生まれる全ての行動の原因は自然に求められるという点だ。だからこそエチカは「神について」から始まる必要があった。

第2章

これを確認した上で、次に「精神の本性および起源について」で、倫理を生み出す私たちの精神とは何かについて議論が始まる。ここで彼にとって大事なことは、まず考える私が特別な存在であることを否定することだった。

人間の本質は必然的存在を含まない。言いかえれば、このあるいはかの人間が存在することも存在しないことも同様に自然の秩序から起こりうる。

その上で、デカルトが考えるように身体と精神は異なる実体ではあるが(=すなわち同じ因果性で考えることはできないが)、統一されており(=すなわち身体が死ねば精神も消滅する)、滅びる自分も自然(=神)という大きな観点から見ると、統合され、永遠であると結論している。

最後の論点は宇宙の質量保存といった単純な話ではない。いわば偶然の産物とも見えるような多様な個々人が、なぜ幾何学のような共通の概念に到達できるのかを考えたとき、全てが自然の中に統合されており、全てに大きな因果性が内在しているからと考えている。なかなかわかりにくい部分だが、40億年前生物誕生の結果として私たち人間が生まれ、この人間が宇宙の法則や生命進化を今度は科学として扱っていることを考えてみたらどうだろうか。すなわち、偶然に見えることも、結局は自然により決定されており、この自然の内在原因の共通性が、人間が社会や国家を形成する基盤となり、これを私たちはもう一度対象として理解することができる。これらの概念は、人間の精神の自由を否定した以下の文章にまとめられている。

精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。証明 精神は思惟のある一定の様態であり(この部の定理一一により)、したがって自己の活動の自由原因でありえない、あるいは意志したり意志しなかったりする絶対的な能力を有しえない。むしろ精神はこのことあるいはかのことを意志するように原因によって決定されなければならぬ。そしてこの原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され云々。

一神教の考えは元々二元論的だが、神を頂点とする一元論を二元論にかぶせて、一元論に見せているだけだといえるが、スピノザの一元論は、現世や来世はなく、神も自然を通して人間まで直結しているという点で、新しい。

第3章

このように自然(=神)、身体、精神について明確にした上で、異なる因果性を持ちつつ一体化されている精神と身体の関係、すなわち感情の問題に進んでいく。

そして、おそらくスピノザのエチカの中で最も重要な「スコラ哲学やデカルトが主張するように、精神が感情に対して絶対的な支配力を持つのではなく、感情とは身体を今のまま保持しようとする生物が、外界との相互作用、および精神による調整作用によって決定される受動的な状態である」と言うテーゼが示される。

感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。実に彼らは自然の中の人間を国家の中の国家のごとく考えているように思われる。なぜなら彼らは、人間が自然の秩序に従うよりもむしろこれを乱し、また人間が自己の行動に対して絶対の能力を有して自分自身以外の何ものからも決定されない、と信じているからである。

すなわち、感情は精神(=デカルト的神の世界)に支配されると言う考えを否定し、感情こそ自然、身体、そして精神(理性)の3者の相互作用の結果が現れたものになる。それが「感情が精神のみに関係すると意志が生まれ、体と精神に関係する時は衝動が生まれる」といった文章に表れる。

いずれにせよ、人間の身体と感情を、より自然に近づけたこの考えは、従来には存在しなかった逆転の発想であることは明らかで、その結果「善悪」のように、従来は外的に示される絶対的規範とされ、それに感情を従わすべきとされてきたことが、

善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。

私はここで、善をあらゆる種類の喜びならびに喜びをもたらすすべてのもの、また特に願望それがどんな種類のものであってもを満足させるもの、と解する。これに反して悪をあらゆる種類の悲しみ、また特に願望の満足を妨げるもの、と解する

と感情を中心に置いた関係へと逆転される。

第4章

これまでの議論で、自己に対する外界からの働きかけが感情を生み出し、感情が精神と相互作用することで、善悪と言った「意志」が生まれることが示された。しかし、このように感情が身体と精神を結ぶ核になるなら、我々は感情に隷属するしかない存在なのか?あるいは他の道があるのかがこの章で論じられる。そして、彼が「感情が体と精神に関係する時は衝動とよぶ」と定義した、「多様な衝動」を比較することから、感情と精神(理性)の相互作用が、感情に支配されない精神のあり方を模索している。

この帰結として、いわゆる非理性的動物の感情(というのは我々は精神の起源を識った以上は動物が感覚を有することを決して疑いえない)は人間の感情と、ちょうど動物の本性が人間の本性と異なるだけ異なっているということになる。もちろん馬も人間も生殖への情欲に駆られるけれども、馬は馬らしい情欲に駆られ、人間は人間らしい情欲に駆られる。また同様に昆虫、魚、鳥の情欲および衝動はそれぞれ異なったものでなければならぬ。こうしておのおのの個体は自己の具有する本性に満足して生き、そしてそれを楽しんでいるのであるが、各自が満足しているこの生およびこの楽しみはその個体の観念あるいは精神にほかならない。したがってある個体の楽しみは他の個体の楽しみと、ちょうど一方の本質が他方の本質と異なるだけ本性上相違している。最後に、前定理からの帰結として、例えば酔漢の捉われている楽しみと、哲学者の享受している楽しみとの間には、同様に少なからぬ相違があることになる。これもここでついでながら注意しておきたい。

と述べているように、感情は昆虫から動物まで存在している、すなわち一次的に身体恒常性維持に関わる反応で、しかも動物の行動の動因といえる。しかし、これは精神により喜びや悲しみという衝動へと変化し、また精神に対象として対置されることで、善悪という判断にまで変化していく。動物だけでなく、人間にまで哲学者や酔っ払いまで、多様な衝動のあり方があることは、多様な感情と精神の相互作用のあり方が存在することを示している。そして、道徳、有徳的に暮らすと言うことは、感情と作用し合う精神の理性レベルにかかっていることになる。そして、これこそが「禁止とは違う自然の倫理」が発生する基盤になる。

私たちは道徳や倫理観というと、宗教や社会に教えられた行動の目的と捉えるが、善悪という高次の目的も、快適に暮らしたいという衝動から来ており、実際には目的とは全く無関係の感情から生まれ、これが理性というそれぞれのフィルターで選択されていくとするスピノザ発想の転換は、ダーウィンの自然選択すら彷彿とさせる。

このように、まず自己の恒常性を維持するという自然の原因から全てが発すると、動物の賭殺すら道徳や倫理に反しないという判断になる。

これからして動物の殺を禁ずるあの掟が健全な理性によりはむしろ虚妄な迷信と女性的同情とに基づいていることが明らかである

自己保存の努力は物の本質そのものである(第三部定理七により)。そこでもし何らかの徳がこれ、すなわちこの努力よりさきに考えられうるとしたら、その結果(この部の定義八により)、物の本質がその本質自身よりもさきに考えられることになるであろう。

この文章を裏返せば、特定の動物を神聖視して賭殺を禁じる宗教的道徳や感情的道徳論を否定することなので、ユダヤ教から破門されるのも当然だ。このように、賭殺の禁止と言った、自然とは全く異なる外的ドグマを目的化して守っている倫理は幻想で、自然の内在原因から自発的に発生する倫理や道徳を我々は模索すべきであるとする、新しい倫理観が生まれた。

第5章

そして最終章では、ダーウィン的に言えば多様な衝動を理性というフィルターで選択する条件、すなわち理性を通して人間が感情から自由となる方法を論じている。5章の出だしはエチカ、そしてスピノザ自身のマニフェストになるので、少し長く引用する。

ここで私は、倫理学の最後の部分に移る。この部分では、人間が自由となる方法、または、自由になる道程のことが問題にされる。つまり、ここで私が取りあつかいたいのは、理性の能力のことなのだ。私たちの理性は、感情と張りあっていったい何をなしうるか、また、精神の自由、人間の幸福とはいったい何なのか。これを知れば、私たちは、賢人がどの程度無知なものより強力であるかを洞察できるにちがいない。だが、知性をどんな方法で完全化すべきであるか、とか、身体の機能を正しく果たせるためにはどんな技法で世話してやればよいか、とか、この種類の問題はここでは関係がない。なぜというに、後者は医学の分限にはいるし、前者は論理学の仕事だからだ。それゆえ、ここでは、上述のとおり、もっぱら、精神または理性の能力を問題にし、とくにそれが感情を抑制しそして統御するためにはどんな大きさの、またどんな種類の権能をもっているかを指摘してゆきたいと考えている。なぜなら、感情にたいしてそれが「絶対的」支配力をもたないことは、すでに論証ずみの事実だからだ。

(スピノザ. ワイド版世界の大思想 第1期〈4〉スピノザ :最終章に入ってKindle版畠中訳のコピーリミットが切れたので、高桑訳から引用する。)

ここでは、いかにして自然倫理を生み出せる理性を高めればいいのかを論じている。

この問いに対するスピノザの答えは至極まっとうで、できるだけ多くの事象が(彼が第三種認識と呼ぶ一種の直感的)認識できる経験を重ね、精神の中に多様な表象を形成することで、自分の感情や身体を含む様々な事象について理解を深めることが精神能力を高める方法で、これにより精神が現象の必然性を確信できるようになる。これが理性を高めることにつながり、事象の必然性を確信できる精神は、感情を支配する高い能力を獲得するというものだ。

現代風にまとめると、自分や世界について多くの知識を重ねれば、多くの事象を当たり前のこととして捉えられるようになり、それに沿って感情をコントロールできるということになる。これが可能になる結果スピノザは、「 自己と自己の感情とを、明晰かつ判明に認識し、自己と自己の感情を認識すればするほど」、我々は「一層神を愛するようになる」と、神を愛することが倫理や徳につながると述べている。神と言われると引いてしまうかもしれないが、この神を自然と読み替えれば、まさに自然の新しい認識にチャレンジしている現代の自然科学者の姿が浮き上がってくる。

最終章は、このような神の愛についての考察で満ちているが、ここでは私は完全に神を自然と読み替えて読んでいる。要するに、自分も含めた自然を理解することは、理性を高めることになり、理性が高まるとさらに自然への信頼が高まり、自然の必然性を根拠に、我々の感情を支配できる、「自然の倫理」に到達することができると結論している。

以上、独断と偏見を持って各章を見てきたが、デカルト二元論によって神の世界に棚上げされた、道徳や倫理は、決して神や社会から与えられたり、教えられたりすることで回復することはない。私たちの精神が進化する過程で、自然に生まれてくるとする、スピノザの全く新しい倫理の21世紀的意味がわかってもらえたと思う。

これまで見てきたようにスピノザは生命科学という点から見ると、人間も含めた全てが自然と一体化することを述べたことにつきる。ただ、このことはその後の生物学の発展過程であまり重視されず、デカルト的二元論や、ライプニッツ的有機体論と比べると、スピノザの存在感は薄い。しかし、スピノザの倫理は、宗教・国家の規範や法から生まれる禁止としての倫理を完全に否定し、自然の必然性として生まれる倫理を構想しようとしている点で、それまでにない全く新しい倫理といえ、現在の脳科学とオーバーラップし始めている。

実際、倫理や生命倫理が語られるとき、現代人が頭に浮かべている倫理の方が二元論的で、決してこのレベルに達していないのではないだろうか。おそらくこの新しい倫理観の延長にあるのは、宗教や国家の規範や、それから生まれる法としての倫理の否定では無く、これらを自然倫理の中に統合しようとする試みと言える。

これまで私も多くの人と生命倫理について議論をしてきたが、相互にわかり合おうと議論を重ねても、結局多元的な文化という壁に当たって、「倫理とは他の意見のあることを知り尊重することだ」とする以外の解を見つけることが出来ない。これは生命倫理に限らず、核問題でも、戦争でも、言論の自由の問題でも同じだ。そして今我々は、対話を拒否することをいとわない大きな力を前に、倫理が後退し続けているのを目の当たりにしている。結局この壁を本当に克服するには、スピノザの言う自然の内的原因に由来する倫理への道を探すしかない。

これを不可能と切り捨てることは簡単だ。しかし最初スピノザを統合生物学者として位置づけたが、自然倫理の構想は生命科学の課題として捉えてみてはどうだろう。最近のトップジャーナルを見ると、社会的現象に関する論文が結構見られるようになった。また図に示すように、脳科学者の中には宗教の脳科学に取り組む研究者も出てきた。いつになるかは分からないが、これも17世紀デカルト二元論により科学から排除された様々な因果性を科学に取り戻すためのチャレンジだと私は大きな期待を抱いている。

1月25日 オミクロンモンスターはクジャクを彷彿とさせる(1月22日 Science オンライン掲載論文他)

2022年1月25日

クジャクを見ると、ダーウィン進化アルゴリズムのパワーに驚くとともに、この形が生まれる過程を説明することがいかに難しいか思い知る。人間にとって美しい鳥という観点から見ると、もちろんクジャクは進化の極致を行っている。しかし一方で、動きは鈍くなるし、大きな危険を抱えることになる。これを説明するためには、時間を巻き戻してクジャクの進化が起こった過程と環境を再現する必要があるが、これはほとんど不可能に近い。結局、遺伝子変異を眺めて想像するしかない。

同じような状況がCovid-19禍ではオミクロンに見られた。スパイクだけで語ることが危険であるのは承知の上で言うと、これまで我々が経験してきたα型からδ型まで、遺伝子変異は限られており、段階的な進化が起こったなと感じることが出来る。ところが、昨年現れたオミクロン株はスパイクだけでも15種類の変異が重なっており、これまでの3倍の変位数だ。

メディアではこの変異の数を感染力と直結させているが、生物をかじったことがある人なら、感染という形質から見ると、変異が多いことは逆に感染力が低下する危険につながる方が多いと思ってしまう。まさに、オミクロンモンスターはクジャク進化と同じ問題を抱えている。

幸い様々な方法で、オミクロンモンスターの感染力を調べることが出来るのが今の科学だ。まず、最も気になるスパイクについて、構造解析が行われ、これほどの変異がACE2結合にどう影響しているのかが調べられた。一編は中国北京科学アカデミー研究所からで、現在はまだpre-proofの段階だ。もう一編は、カナダブリティッシュコロンビア大学からで1月22日Scienceにオンライン掲載された。

正直、中国の論文の方が包括的な研究だが、結論は同じだ。

1)ACE2と結合している立体構造を見ると、多くの突然変異を有するにもかかわらず、δとACE2との結合に類似しており、結合表面が他と比べて広い。

2)この結果、ACE2との結合だけで見ると、δ株とほぼ同等、実際にはδの方が少し結合が高い。

3)変異の多くはACE2との結合サイトに起こっている。しかし、そのうちの多くはACE2との結合を低下させる。この低下を補うようにして、いくつかの変異がこの結合低下を代償している。これには、変異により起こるsalt-bridgeの変化が大きく関わっている。

4)δと比較したとき、ACE2との結合力だけが選択圧とは考えられない。カナダのグループは、感染やワクチンにより出来た抗体をすり抜ける選択圧が、これほどの大きな変異を生み出した、すなわちまず抗体から逃れるという性質が形成され、そのあとでACE2との結合で選択が起こった可能性を示唆している。一方、中国のグループは、オミクロンの変異が、他の動物の中で選択された可能性を示唆している。

以上、おそらくスパイクタンパクは極めてダイナミックで、変異による結合力の低下は、他の部分の変異で代償できるように出来ているように思える。

ただ、構造解析だけからは、現在私たちが経験しているオミクロンの感染力を説明するには至らない。

これについては、まだ査読前だが、ロンドン王立大学からの論文が面白い可能性を示している。

この研究は、様々な細胞を使ったウイルスの感染実験を重ねたものだが、現在の感染状況を説明する様々なヒントが、試験管内実験から得られている。面白いところだけ箇条書きにしておく。

1)まず驚くのが、δと比べたとき、鼻粘膜細胞での増殖力が早いが、時間がたつとほとんど同じになる。これはウイルス分泌でも見られ、24時間目では高いウイルス量を排出するが、48時間になると逆転する。

2)この原因は、感染細胞が速やかに細胞死に陥ることと相関しており、δ株の場合、感染後の繊毛が遙かに長く動いているのが観察できる。これが、早い病気の収束に関わる可能性がある。

3)オミクロンはスパイクが分断しやすい変異を有しており、細胞膜同士の融合をしやすいと考えられるが、実際の融合率は低い。実際、融合に必要なTMPRSS2を発現しない細胞でも感染できる。

4)細胞膜融合の効率が落ちた代わりに、IFITMと呼ばれるウイルスがエンドゾームに取り込まれるのを防ぐ分子の影響を受けずに、エンドゾームに感染できる。

5)エンドゾームを感染の入り口にすることで、多くの動物にかかりやすくなる。

なぜエンドゾームに取り込まれて特異性が低下したのに、上気道感染で止まるのかなど、いくつか気になる点はあるが、査読前とはいえ、この論文から学ぶところは多い。

以上、頭の整理という意味で、オミクロンの機能面を整理してみたが、生物学的にも圧倒的な面白さがある、モンスター、当にクジャクが発生したことは間違いが無い。

カテゴリ:論文ウォッチ

1月24日 マグネシウムと免疫(1月19日  Cell オンライン掲載論文)

2022年1月24日

カルシウムイオンは別にして、他の金属イオンが細胞外でタンパク質と相互作用して、生理学的機能を調節している可能性はあまり考えたことは無かった。しかし、今日紹介するバーゼル大学からの論文は、LFA-1と呼ばれる免疫に関わるインテグリンとしては最も有名な分子の構造変化がMgイオン依存性で、Mgイオンが無いと、キラーメモリー活性が低下し、様々な免疫治療が台無しになりかねない可能性を示唆する、臨床的に重要な研究で1月19日Cellにオンライン掲載された。タイトルは「Magnesium sensing via LFA-1 regulates CD8 + T cell effector function(LAF-1を介するマグネシウム感受性がCD8T細胞のキラー活性を調節する)」だ。

LFA-1はインテグリンとして細胞遊走にも関わるが、ICAM-1を認識して細胞内のシグナルを活性化し、キラーT細胞活性を誘導することも知られている。構造的にはCD11aとCD18の2種類の分子から構成されており、抗原刺激による細胞内シグナルにより活性化され(inside outと呼んでいる)、extension form(EF)およびhead-open form(HF)へと変化し、HFを摂ると高い親和性でICAMと結合して、T細胞を活性化する(outside inと呼ぶ)極めて複雑な分子であることが分かっている。実際1990年ぐらいから詳細な研究が進んだ分子の一つだ。

この研究は、まず細胞外液のMgイオンが、CD8T細胞のキラー活性に大きく影響するという発見から始まっている。すなわち、細胞外の分子がMgイオンにより機能調節されていることになる。そこで、キラー細胞上の分子を様々な条件でフィルターをかけ、ついにLFA1がMgイオンにより調節される分子であること、およびMgイオンがinside-outで活性化されたLFA-1のextensionとhead-openに関わることを発見する(LFA-1の構造変化は様々なモノクローナル抗体でモニターできる)。

あとは、MgイオンによるLAF-1変化が、ICAMトの結合や、T細胞内のシグナルや活性にも関わることを多くの実験で示し、CD8T細胞のキラー活性がMgイオンにより調節を受けるメカニズムを明らかにしている。ただ、詳細は割愛する。

この研究の面白さは、メカニズム研究の上に、臨床にトランスレーションするための様々な実験を行っていることだ。それをまとめておく。

  1. マウスにMg欠乏食を与えると、リンパ節や筋肉のマグネシウム量が選択的に低下し、体内での抗原刺激に対するT細胞の活性化が低下する。また、同じマウスをガン抗原で免役しても、キラー活性が低下している。
  2. Mg欠乏食で腫瘍免疫が低下しても、腫瘍局所にMgを注射すると、ガンの増殖を抑えられる。
  3. CAR-T治療や、ガン抗原とCD3T細胞をブリッジするBilnatumomab治療は、Mg濃度に強く影響される。
  4. チェックポイント治療のコホート研究では、血中Mg濃度が高いグループははっきりと予後が良い。

以上が結果で、キラーを高める免疫治療を行う場合、まずMg欠乏でないかどうか調べることの重要性を示唆しており、すぐにトランスレーションする必要があると思う。それ以外にも、ガンの局所療法やCAR-Tの改変など、様々なヒントが得られる面白い研究だと思う。

カテゴリ:論文ウォッチ

1月23日 幼児は唾液で社会性を判断している(1月21日号 Science 掲載論文)

2022年1月23日

虫歯菌に感染するからと、最近では幼児期に口移しで食べたり、キスをしたりすることは避けるよう勧められているようだ。一方で幼児期のスキンシップの重要性はわかっており、この狭間で悩む人も多いのかもしれない。しかし、虫歯菌の感染が問題なら、口腔ケアを念入りにすればいい話で、口移しも含めてスキンシップを制限する必要は、一部の例外を除いて無いと思う。それでなくともスキンシップが禁じられてしまうパンデミック時代、スキンシップ欠如の子供への影響の方が深刻に思える。

といってみたところで全てエビデンスのない個人的意見だが、今日紹介するハーバード大学心理学科からの論文は、1歳半ぐらいの幼児は唾液の交換を伴う行動を見て、社会性を判断していることを示した研究で、1月21日号のScienceに掲載されている。タイトルは「Early concepts of intimacy: Young humans use saliva sharing to infer close relationships(幼児期での親密性の概念:幼児期には唾液共有を人間同士の親密さを判断するのに使っている)」だ。

このような研究は、仮説とそれを証明するための課題の設計が全てだ。この研究の仮説は、他人の唾液が混じるのをいとわない行為は、人間同士の親密な関係を示すことだ。

まず、同じストローでジュースをシェアしている子供と、お菓子を分けて食べている男女の子供を見て、「2人は兄妹」と効くと、唾液が混じっても同じストローでジュースを飲んでいる子供の方がより兄妹である可能性が高いと感じることを、小児で確かめている。

ただこのセッティングを見ただけで、親密度を判断するためには経験が必要で、もっと若い1歳半の幼児で同じことを調べたい場合、新しい課題を設定する必要がある。この研究のハイライトは、幼児でもテスト可能ないくつかの課題を設計したことにつきる。

まず第一の課題だが、女性Aが人形と一つの食べ物をシェアしているビデオと、女性Bがボールを人形に渡しているビデオを見せた後(人形は同じ)、人形を挟んで両方の女性がいる状況で、人形が助けを求めたとき、幼児はどちらの女性を見るかという課題だ。

すなわち、自分が人形の立場になったことを想像して、まず助けを求めるのは関係が緊密な人になるが、これを判断するとき唾が混じるのを気にする関係かどうかを基準に出来ないか調べている。

結果は期待通りで、1歳半の幼児のみならず、8ヶ月令の乳児でも、唾液を共有していることを感知し、それを親密なサインとして理解している。

同じ問題を、一人の女性が食物やボールを使わず、直接指を自分の口から人形の口に運ぶ、あるいは自分の額から人形の額に運ぶというタスクを設定し、今度はこの女性が助けを求めたとき、どちらの人形を見るかという課題で確かめると、やはり唾液交換を伴う行動を、親密度の判断に使っていることが分かった。

他にも様々な確認実験を行っているが、人間はかなり早い段階から社会的親密度を判断でき、その基準として唾液共有が行える仲かどうかで判断しているという研究だ。いずれにせよ、唾液共有をいとわない関係を積極的に作らないと、子供に親密とは思ってもらえないことを示した面白い論文で、虫歯菌が感染するという心配を払拭することの重要性を意味していると思う。

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1月22日 より高機能の皮質脳波計測計の開発(1月19日号 Science Translational Medicine 掲載論文)

2022年1月22日

昨日紹介したように、人間の言語活動を支える脳活動を調べるためには、脳の広い範囲にわたって、高い時間空間解像度で、しかも異なる波長の活動を区別して測定することが必要だ。しかし、脳への障害を最小限に止めておく必要があるため、電極を刺し込むことは許されない。この目的には、手術中に機能的に運動野と感覚野を区別したり、あるいはてんかんの発生源を電気的に特定するために開発された皮質表面の電気活動を拾うことが出来る表面電極(ECoG)が使われる。

今日紹介するカリフォルニア大学・サンディエゴ校からの論文はこの技術を飛躍的に高め、さらに大きな領域を、さらに高い空間解像度で記録できるプラチナ・ナノロッドの開発で1月19日号のScience Translational Medicineに掲載された。タイトルは「Human brain mapping with multithousand-channel PtNRGrids resolves spatiotemporal dynamics(数千のチャンネルを持つプラチナナノグリッドによるヒトの脳のマッピングにより脳活動の空間時間ダイナミックスが明らかになる)」だ。

この研究のハイライトはあくまでもプラチナナノグリッド表面電極(PtNRG)の開発だが、材料工学については全くの素人なので、肝心なところの解説は省略せざるを得ない。ただ、頭蓋の外から脳波を測るために、心電図と同じように電極を頭の異なる場所に設置するのを想像してもらうと、1000−2000の電極を30µの間隔で設置することがいかに大変か理解できるだろう。

この研究では、これまで使われていたシリカの代わりに、ガラスを用いて薄く大きく、しかも高い解像度を持った表面電極を達成している。しかし、皮膚の表面に置く電極とは異なり、電極の間に体液を灌流できる穴が配置されており、一個一個のプラチナ電極には電線が接合されているなど、顕微鏡写真を見ると、いくらナノパターンの形成技術が進んだとはいえ、その精巧さに目を奪われる。

後はこれを用いて、神経活動を高い解像度で拾えるかが示されており、最初に行われたラットのヒゲに空気を吹きかける刺激実験では、ヒゲに対応するカラム構造が見事に浮き上がり、刺激後活動が伝播していることがキャッチできる。

もちろんこのようなデバイスは臨床応用を目的に開発される。この論文では、

1)脳外科手術時に、感覚野と運動野を正確に区別し、手術のプロトコル決定に使えるかどうか、

2)手の運動と感覚の神経活動をできるだけ正確に記録して、Brain-Machineインターフェースで、将来機能的義手に使えるか、

3)手術中にてんかん巣を正確に特定して、できるだけ小さな領域の切除でてんかんを抑えられるか、

などについて、これまでのECoGと比べて、飛躍的に高い機能が提供できることが示されている。

以上が結果で、新しいPtNRGを用いて高い空間解像度の記録が可能であることは分かったが、例えば昨日紹介したような研究に使えるようになるには時間がかかりそうだ。というのも、電極から測定器までのコネクターがこのままでは、手術中にしか使えない。今後、膨大な数の電線をまとめて頭蓋の外のコネクターに接合できないと、生活の中でのてんかん巣検出や、長期にわたる記録は難しい。ただ、おそらくこのような問題は解決されるだろう。その結果、例えば思い描いた文字を実際に書かせたり、発話したりと言ったbrain-machineてんかんに関しては、さらなる飛躍が期待できる。そしてこの方向での進歩が、人間の脳機能の理解の進展に直結する。

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